その3までで、読者の皆さんはキリスト教の「三位一体」の3つめで「聖霊」というのが出てきたのにお気付きだろう。この「聖霊」とは何かをやっぱり書くべきでしょうね。しかも、この時期は、最高にその時期なのだ。来週の日曜、6月4日は、聖霊が世に与えられたことを記念する特別の日曜、ペンテコステ(聖霊降臨日)なのだから。
「聖霊」は、教会の中でも、割と説明が苦手な人の多い話だ。「聖なる霊」なんて、ちょっと、エクソシストかなんかみたいでしょ。まずは名称は忘れてください。その上で、これは何かというと: イエスが復活の姿を現した40日間の後、弟子たちは、イエスが言っていた「自分はもう見えなくなっても、替わりに、神さまからの特別の力が与えられる」という約束を信じて、エルサレムでみなで集まっていた。その日曜日、突然、風のような音と共に、神さまからの特別な働きかけで、弟子たち一人一人に神さまからの力が与えられたというのだ。弟子たちは、無教養な弱い普通の人間だったはずだが、この神さまからの力で、急に外国語も含めて、しっかりと神さまのことを語り出した。その後、エルサレムを起点にイエスキリストのことを広く語る初代キリスト教会の使徒と呼ばれる人たちは、こうやって誕生したというのだ。この時、弟子たち・使徒たちに降り注ぎ与えられたと彼らの感じたもの、これは、目には見えないが、イエスキリストが、いわば「たましい」としてずっと弟子たちと一緒にいてくれるもの、とも感じられた。そういうわけで、これを「聖霊」と彼らは呼んだのである。
それが本当には何なのか、神さまからの力なのか、イエスさまの「たましい」なのか、所詮、そんな難しいことは弟子たちにも分からなかった。でも、弟子たちは、上からの「何か」によって決定的に力を受け、死ぬまで活き活きと戦う使徒たちに変えられていったのである。このことは我々にも、おおいに意味があることだ。その「上からの何か」が私たちにも与えられるなら、私たちも、死ぬまでそのような力によって支えられて生きることが出来ると信じられるなら、それは私たちの人生を変えるかもしれないからだ。これが、難しい三位一体論の言う3つめの「聖霊」だ。三位一体の難しい理論はさておいても、「目には見えないイエス」が、あたかも「たましい」のように我々のすぐそばにいて下さり、我々を決定的に力付けてくれると信じるかどうかが問題なのだ。少なくとも私はそう信じて生きている。 Nat
「聖霊」は、教会の中でも、割と説明が苦手な人の多い話だ。「聖なる霊」なんて、ちょっと、エクソシストかなんかみたいでしょ。まずは名称は忘れてください。その上で、これは何かというと: イエスが復活の姿を現した40日間の後、弟子たちは、イエスが言っていた「自分はもう見えなくなっても、替わりに、神さまからの特別の力が与えられる」という約束を信じて、エルサレムでみなで集まっていた。その日曜日、突然、風のような音と共に、神さまからの特別な働きかけで、弟子たち一人一人に神さまからの力が与えられたというのだ。弟子たちは、無教養な弱い普通の人間だったはずだが、この神さまからの力で、急に外国語も含めて、しっかりと神さまのことを語り出した。その後、エルサレムを起点にイエスキリストのことを広く語る初代キリスト教会の使徒と呼ばれる人たちは、こうやって誕生したというのだ。この時、弟子たち・使徒たちに降り注ぎ与えられたと彼らの感じたもの、これは、目には見えないが、イエスキリストが、いわば「たましい」としてずっと弟子たちと一緒にいてくれるもの、とも感じられた。そういうわけで、これを「聖霊」と彼らは呼んだのである。
それが本当には何なのか、神さまからの力なのか、イエスさまの「たましい」なのか、所詮、そんな難しいことは弟子たちにも分からなかった。でも、弟子たちは、上からの「何か」によって決定的に力を受け、死ぬまで活き活きと戦う使徒たちに変えられていったのである。このことは我々にも、おおいに意味があることだ。その「上からの何か」が私たちにも与えられるなら、私たちも、死ぬまでそのような力によって支えられて生きることが出来ると信じられるなら、それは私たちの人生を変えるかもしれないからだ。これが、難しい三位一体論の言う3つめの「聖霊」だ。三位一体の難しい理論はさておいても、「目には見えないイエス」が、あたかも「たましい」のように我々のすぐそばにいて下さり、我々を決定的に力付けてくれると信じるかどうかが問題なのだ。少なくとも私はそう信じて生きている。 Nat