♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2007年01月

ぜんぜん分かってない進化 その4

まる いよいよトカゲがどうやったら鳥に進化したかを今いちど考えてみたい。化石の研究などから二つの説があるようだ。一つは木の上で生活していたトカゲがうろこを変形させ羽根状にして飛ぶようになったという説。もう一つは地上を走っていた小さな恐竜が羽毛を生やし羽根にして飛ぶようになったという説。もともと恐竜の多くは実は保温のため羽毛を生やしていたのではないかと言われており、この後者の説は結構有力なようだ。

はてな どちらにしても問題は、なぜある時ある種のトカゲか小恐竜に、羽根が生えた子孫が生まれるようになったかだ。学校であたかも立証された正統な学説かのように教えられている「自然淘汰説」でいくと、ある時ある種のトカゲの夫婦に何故か偶然に変な羽根の生えた奇形児が生まれた。その奇形児が羽ばたくと空を飛べたので、その奇形児は空の虫などを食べて強い子になった。そしてその奇形児の子孫が繁栄して鳥族になったというようなことになる。しかし前にその?で述べた通り、例え奇形児が上手く空を飛べたとしても、その奇形児が上手く同じような鳥状の子を生める確率は低い。その奇形児が交配できる異性の相手は未だ普通のトカゲしかいないかも知れないし、更に遺伝子が変わり過ぎていてはもうトカゲとは交配出来なくなっているかも知れない。またもし同じ鳥状の奇形児の異性の兄弟姉妹が1,2匹いれば兄弟姉妹同士で結婚して鳥状の孫を作れたかも知れない。しかし、そんな近親相姦の繰り返しだけで子孫を多く残せた可能性は少ないと思う。

鳥 しかも、これは奇形で生まれた鳥状のトカゲが、上手く空を飛べて、自然淘汰上有利であったことが大前提だ。しかし実は、偶然に羽根が生えた程度ではとても空を飛べない。羽根は平たくてはダメ。少し上に盛り上がった流線型でないと揚力が出ない。また、全身の骨を中空の構造にして身を軽くしないとても飛べない。となると、鳥の第一号として生まれてくるべきトカゲの奇形児は、流線型の羽根と、中空の骨という、二つの奇形要素を偶然に兼ね備えた稀有の奇形でなければならない。その上、奇跡的にそういう奇形児が出来てその子だけは空を飛べたとしても、前述の通りその子が同様の子孫を産み残せる確率は極めて低いのだ。このように、鳥への進化にしろ、何への進化にしろ、偶然に生まれた奇形児が偶然に「奇跡の完成品」だったと考える自然淘汰説は、小生には全くの見当違いとしか思えないのである。

はてな では、実際にはトカゲはどうやって鳥になったのか? 勿論誰にも本当のことは分からない。しかし私は結論から言うと、ある時、地上は混み合って餌も乏しくなったといった環境になり、多くの動物たちが地上から空に進出したくなる時代があった。それで様々な動物の種はそれぞれのやり方で、空に進出しようとして種全体として進化したというイメージで考えている。一匹の奇形児が偶然に生まれたのではなく、ある時代に、その種から一斉に新しいタイプの子孫が発生したのである。結構長い時間の中でそうなったのか、割と短期間に一気にそうなったかは分からない。しかし、大局的にみるとある時代に一斉に変わったというイメージだと思っている。そんなことがあり得るか? 次回のその?でそれについて書きたい。 笑顔 Nat

ぜんぜん分かってない進化 その3

笑顔 というわけで、進化そのものについてぜんぜん分かっていない。何故全く何も分かってないかというと、それは、人類が進化をいっさい目撃してないからである。そもそも生物が進化してきたらしいということは、化石を並べてみて、そう思えるというだけのことだ。何億年にもわたる実際の生物の進化の推移を目の当たりに見届けた人が誰もいないのはしょうがないとしても、記録の残る3-4000年くらいの人類の歴史の中で、何かの動物がちょうど進化していくのに遭遇したという記録もゼロである。

はてな 従って、まず起こる疑問は、一体本当に進化などあったのかということである。むしろ、人類が見てきた生物が全く変化などしていないことからすると、生物は進化なんかしないのだ、と言われるほうが分かりやすい。原理主義のキリスト教徒が「進化などない。本聖書の天地創造のとおりだ」と信じているのには無理もない面もあるのだ。

星 しかし、化石や考古学からすると、どうも太古の昔には単細胞の生物しかいなかったようだから、それが鳥や人間にまで進化したのも事実のようである。そこで、見たことも体験したこともない「進化」という事が実際にどう起こったのかを、想像・空想するしかない。ここで、何度もいうが、空想のパターンには二つある。一つは、生物のある種の全体が一緒に進化していくという考え。もう一つは、生物のある種の中のある個体が変わってそいつが広がってしまいには全体が変わるという考え。「全体進化」か「個体から進化」かだ。

学校“科学者”と呼ばれる人は出来るだけ奇想天外な空想を排除し、自分たちの知っていること、確実に見て分かっていることから物事を説明しようとする。そうなると、いきおい「個体から進化」説を採ることとなる。何故か?それは、先に述べたとおり、人類は誰も種が全体として進化していくのを目撃していないこと。それと、全体として進化するなら生物の中にそのように進化するプログラムが組み込まれているはずだが、未だそういうプログラムが発見されていないからだ。

学校 そこで、“科学者”は自分たちの見たことがあることに着目する。それは、種の中でも時に変わった個体がいるということだ。たまたま非常に首の長い馬が群れの中に一匹いたかもしれない。あるいは奇形で、変な羽根っぽい皮膚をもって生まれてきたトカゲが群れの中に一匹いたかも知れない。そういう変な奴の事例なら、人間にもいるし、理解しやすい。だから、“科学者”は、こういう「奇形的な一匹の個体」で進化を説明しようとする。

びっくり しかし、そこから先がどうにもこうにも苦しい。奇形的な一匹が、残りの普通の馬を凌駕してついにはキリンの群れになる、残りのトカゲを凌駕してついには鳥の群れになる。ここのプロセスの説明が出来ないのである。その?でもカタワのトカゲが鳥の種にまでなれるとは思えないという話をしたが、自分の理解できる「一匹の奇形」から無理に「種全体の進化」の説明をしようとするから行き詰るのである。

笑い 種というのは、なかなか安定したもので、そう簡単には変化も進化もしないようだ。有名なシーラカンスやカブトガニは太古から今まで全く変わらず同じままでずっと続いている。奇形のシーラカンスやカブトガニもこれまで何匹も生まれただろうが、皆、他の普通の個体より先に死んでしまったのだろう。ずっと変わる必要も理由もないのでシーラカンスやカブトガニは、ずっと変わってない。

鳥 しかし、実際、ある種のトカゲは、ある時、羽根を生やして鳥になって空に進出したのだ。どうやって?一匹の奇形のトカゲが繁殖したのだろうか?次回は、もう一度、この羽根の生えたトカゲのことを考えたい。
                                  Nat




ぜんぜん分かってない進化 その2

笑顔 前回、首が中途半端に長いキリンと、羽根が生えかけているが未だ鳥として飛べないトカゲのことを書いた。特に、このトカゲから鳥への進化は、進化のことが全然分かっていない例として一番露骨であるので、そのケースで更に考えてみよう。

びっくり 前回の議論で、トカゲに中途半端に羽根が生えても、まだ空は飛べないし、かと言ってトカゲとしては、羽根が却って邪魔で余り有利でもなさそうだから、多くの子孫を残せそうもないとの話しを書いた。また、そういうトカゲと鳥の中間段階の「毛深いトカゲ」の化石は全然見つからないとも書いた。この両方からして直感的に思えることは、多分、中間段階の「毛深いトカゲ」というのは実際にはなかった、実際には、羽根の生えたと飛べるトカゲが一気に出現したと思うほうが分かりやすいということだ。

ヒヨコ そこで、ある時一斉にトカゲから鳥が発生したとしよう。そうすると、次の疑問が生まれる。ある種のトカゲの仲間の中から羽根の生えた鳥が発生したとして、ある時にそのトカゲの仲間は一斉に皆羽根の生えた鳥型の子孫を生んだのか? それとも、ある時何故か群れの中に羽根の生えた鳥のような変わった子どもが一匹だけ生まれ、そいつが広まって遂には鳥の群れになったのか? どちらか本当に起こったことだったのかが問題になる。しかし、後者は本当にあり得るか? 一匹だけ「かたわ」のような羽根の生えた変な子どもが生まれたとしよう。そいつは突然空を飛べ、たくさん食べ物にもありつけたかもしれない。しかし、所詮一匹だけなら、同じ鳥型の子孫を残すための交配の相手がいない。元の仲間のトカゲと交配しても、もとのトカゲ型にちょっと毛の生えた程度の子どもしか生まれないかもしれない。よしんば上手く飛べる羽根の生えた子どもが生まれても、所詮、鳥はまだ親一匹とその生まれた子ども一匹だけだ。日本トキがあと数匹だけになると、幾らお助けしてももう二度と発展できないで絶滅したように、一匹や二匹いても全然意味ない。ということから、ほぼ間違いないのは、鳥型の子どもは、ある時大量に発生したと思う以外あり得ないということだ。「かたわ」の一匹が発展して鳥になったというのはあり得ない。ある時、トカゲは一斉に鳥になったのだ。

笑い 皆さん、ここまで読むと絶対そうとしか思えないでしょう。しかし、自然淘汰説という、学校でも教える進化論では、「かたわ」の一匹の発展で進化を考えているのだ。実はダーウィンの発見したのは、フィンチという鳥が島ごとに多少違うタイプに分かれているということだった。その程度の違いは、自然淘汰で説明できる。しかし、それは、まだ別の島のフィンチと交配できる範囲だから、新しい種に進化したわけではない。同じ種の範囲でのちょっとした差の話しだ。赤道直下で太陽の紫外線の強い地域の人間は黒い皮膚の人間になった。しかし、黒い皮膚の人間は、北方の白い皮膚の人間と交配可能であるので、同じ人類だ。同じ人類ながら、環境適応で皮膚が黒くも白くもなる。これがダーウィンが見つけた、同じの種の中での若干の特性の違いに関する「自然淘汰」現象だ。しかし、トカゲが鳥になったのは、もはやトカゲと鳥で交配できないという意味で、鳥という全く新しい種になったのだ。そういう種の進化については、「自然淘汰」では全然説明にならない。ある時、「かたわ」として鳥っぽいトカゲが一匹生まれてそれが鳥になったという話だけは、とにかくあり得ない。ある種のトカゲの群れの子どもは、何故かある時一斉に鳥になったのである。まる Nat  

ぜんぜん分かってない進化 その1


笑い 生物が進化してきたことは、まず間違いない事実だし、小学生でも知っている。一番最初は単細胞だったが、人間にまで進化したというわけだ。ところが、1801年に初めてラ・マルクが「生物は進化してきている」と唱えてから200年も経つが、実は進化の最も重要なことが全然分かっていない。

はてな「なぜ進化するか」についてはダーウィン・ウォレスの「自然淘汰説」が正解だと単純に理解してしまっている人が結構多いが、実はそれには大きな疑問がある。まず、そもそも「なぜ」の前に「どうやって進化してきたか」が実は全然分かっていないのだ。「どうやって」という事実関係が分かってないから、「なぜ」がもっと分からないという訳である。

笑顔「どうやって進化してきたか」が分からないといったが、どう分からないかというと次のようなことだ。いつも例に出てくる首の長いキリン。キリンが登場する前に、その祖先として、首が長くない普通の馬のような動物がいたと想像しよう。その馬のようなキリンの祖先は、どうやって首の長いキリンになったか。ここで仮説は大きく二つに分かれる。一つ目は、馬のようなキリンの祖先の群れの中に偶々妙に他よりも首の長めの変なやつがいたが、自然環境の変化(例えば背の低い草木は他の動物に食べられて無くなり、背の高い木の葉を選んで食べないといけなくなってきた)が起こり、首の長めのものが生き残る確率が増えて、段々親に似て首の長い子孫が増えていき、長い間には生き残っているものは全部首の長いものになったという考え方。二つ目は、ある時、何故かその馬のようなキリンの祖先の群れは、一斉に全部首が長い子孫を産むようになったというもの。要するに、群れの中で一部の変わったやつ、規格外のはみ出したやつ(変に首が長い変なやつ)が環境変化の為に段々主流になり、元々の首の短いやつらは子孫を残せないで滅んでいったと思うか、ある時、群れ全体が一斉に首の長い方向に変わっていったと思うかの違いだ。

びっくり これがどちらか分からない。馬のような祖先の骨の化石もみつかるし、大昔のキリンの骨の化石もみつかるが、その間の、首が中間の長さのものはみつからない。しかし、それは、その種類全体がある時一斉に首の長いキリンに変化し、中間的な段階など経なかったからなのか、それとも、中間段階のものはいたが、偶々骨の化石が残ってないだけかが分からない。

ヒヨコ これを鳥について考えるともっと面白い。トカゲ(正確には恐竜というべきだが、ここではイメージとしてトカゲ)に羽根が生えて鳥になったわけだが、中途半端に羽根の生えたトカゲの化石はみつからない。それは何故か。ある時、とかげの仲間で手足が妙に毛深くて羽根っぽい変わったやつがいたとする。そんな毛深いトカゲは何か有利だっただろうか? 鳥ほどに大きな羽根があるわけではないので、まだ空は全く飛べない。見たところ綺麗だったかも知れないし、冬は暖かったかも知れないが、その程度のメリットだけで子孫を増やせたのだろうか。そんなことで次第に羽根っぽい子孫が多くなり、大きな羽根の子孫にまで達した時点でようやく空を飛び始め、一気に有利になり、鳥として繁栄するようになったということか。それとも、ある時、そのトカゲの種類は、何故か大きな羽根のついた子孫ばかりになって、それで皆が一斉に空を飛ぶようになったのだろうか。

にっこり これが全然分かっていない。事実としてどうだったのかが分かっていない。 Nat

自殺の大前提 その6(完)

困った 「これ以上生きていても何もいいことはない。今の苦しさが続くだけだ。」そういう大前提で人は自殺する。「社会で落伍し一人きりになってしまった。」「自分には何もいいところがなく、みなの侮蔑の目がもう耐えられない。」

ラブラブ 人は周りにいる他の人との関係で、喜んだり悲しんだり憤ったり感激したりして生きるが、人との関係が苦しいことばかりと思うようになったら大変辛いだろう。回りに多少好意的な人がいたとしても、所詮「他人」だ。自分の苦悩を分かってくれる人がいるわけもない。ショック そう思って孤独の中で絶望していく。

鐘 そういう人は横にいる他の人間のことを気にし、そして避けるようになり、嫌いになっているが、全く気がついていないことがある。上だ。人に命を与えた「宇宙の精神のようなもの」があると思わないだろうか。もし、それがあったとしたらどうか。それはその人の命を作りっぱなしにしているのだろうか。もし、それがずっとその命を見つめ見守っているとしたらどうだろう。スピリチュアルな話をよくする江原啓之さんの最近の本の中の「あなたをずっと見守っているものがある」というメッセージが結構読者に感動を与えているようである。江原さんのいわれる守護霊的なものと、私がここでいっている「命のみなもとで命を見つめているもの」が同じものか、相当相通じるものか、その辺は分からない。しかし、どんなに人に嫌われ、人が嫌いになり、独りぼっちと思っても、そんな命を暖かく見つめ見守ってくれている存在が必ずあるとしたら、それは独りと思っていた人生に新しい光キラキラを差し込まないだろうか。

びっくり しかも、もしその存在が、単に見つめ見守っているだけなら、慰めにはなっても、それだけでは人生の筋書き展開が変わるわけではないように思える。しかし、その存在が単に見つめているだけではなく、その存在こそが、偶然と思われるこの世の人生の筋書き展開を導いているものであったらどうか。その存在と心で繋がることで、人生の意味が全然違ってくるかもしれないのだ。

本 ここで私が結局強く信じることにしたイエスという人のことが出てくる。イエスに声をかけられた人達は、人に蔑まれていた下層階級の漁師達であったり、税金を集める仕事でピン撥ねもしていて自分でも自己嫌悪していた男、長年病気が直らないので神さまのバチあたりと言われていた人、姦淫の女(死罪に相当)等などだ。このようにイエスが自分の回りに形成した弟子達の集団は、能力の高いエリート集団ではなく、ほうって置くと自殺しかねないような人達も含んだ「傷ついた者たち」だったのである。イエスは、その一人ひとりのかけがえのない個性を活かし、とことん愛した。その結果、一人ひとりは、後の世に大きな影響を残すほどの歩みをする人間に変えられていった。弱くそそっかしい漁師だったペテロが、後に「聖ペテロ」 まる とまで言われる存在になったのである。彼らはそのようなイエスの中に神を見た。イエスの中に、命のみなもとである神が一人ひとりの命を愛し働きかけて下さっているのを感じたのである。

笑い 今、私は、このような神の愛と働きかけを信じている。私は人生の途中から右目に障害を得たが、それが神が私を主人公とする愛の物語の中の筋書き展開としてそうされたと思うので、全く悲しくも不愉快でもない。右目のおかしい私が私なのだ。今やそうでない私は神の愛してくれている私ではない。私は、そんな神といつも心を通じ、神と共に生きている。だから、一つだけ“絶対”という100%保証つきでいえることがある。私は、焦ることもあるし、悲しむこともある。落ち込むこともある。しかし、“絶対”に私には絶望はあり得ない。だから自殺する理由は“絶対”ない。のたれ死ぬことがあっても自殺はない。最後まで神と共に歩むから。

日の出 この「自殺の大前提」を書いてみて分かった。最も根本的な「自殺の大前提」は「神などいない」ということだったのだ。「神などいない。だから自分は、今あのいやな人間たちの間で苦しみ絶望している。生まれてこなければ良かった。」そう言って死んでいくのだろう。
 しかし、実は人生は周りの人との関係だけではない。命のみなもと(=神)との関係も人生なのだ。このことを知り、その光に照らされた人生を見つけてほしい。そうすると、自殺の大前提は崩れ去る筈だから。にっこり                Nat

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