♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2007年11月

ボサノバはなぜカッコいい? その3

笑い ボサノバの何ともいえない魅力のもう一つは、その和音(コード)構成にある。ブラジルの音楽、サンバや彼らの民謡にはない、非常に洗練された和音構成がボサノバにはあるのだ。

譜面 ボサノバは1960年ごろ、ブラジルのピアニストAntonio Carlos Jobimと、ギタリスト・歌手のJoan Gilbertらが作り上げた新しい音楽だ。Jobimはジャズ、或いは現代音楽のラベルやドビッシーなんかに影響受けた人だ。そしてGilbertもブラジルの民族音楽をやりつつもジャズの影響を受けている。ということから、和音の作り方にはジャズの和音が多いに流れ込んでいる。少し専門的な話になるが、ドミソの上にラとか上のレを調味料として重ねるいわゆる「テンション」音の多用、マイナーセブンスから4度上のセブンスに移るいわゆる「4度進行」、これらは両方ジャズからの直輸入。そして、ジャズでも出てくるが、「デミニッシ」という和音を経過和音として非常に多く使うことに特徴がある。しかし、実は、ジャズよりもボサノバの方が、より自由に新鮮な和音の動きを使っている。はっきり言って、和音に関しては、古典的なモダンジャズよりボサノバの方がカッコいい。

はてな なぜ、ボサノバではこのように独自のカッコいい和音を使うようになったのか?その答えは、ひとえにギターにある。ジャズの作曲・編曲する人は大概ピアノ系の人だ。ところが、ボサノバを発明したJoan Gilbertはギタリストであった。彼は、サンバのやかましい打楽器を遠ざけ、ギターだけでボサノバ独自のリズムを刻む奏法を編み出したと共に、あの囁くようなボサノバの歌い方を始めた。そして、彼が編み出したボサノバの和音の進み方は、ギターで弾いてみると、非常に自然。ギターの左手が自然に一つづつ下にずれて来るといった感じで、ギターから生み出された和音構成なのである。このことから、ピアノ中心のジャズの和音方式とは異なって、一番下のベース的な音も3度や、減9度などという、ピアノやオーケストラでは余り出てこない手法が、ギターの指の都合上、頻繁に出てくる。そして、それが独自の超カッコいいサウンドを生んだのだ。

マイク 曲をご存知ない人には意味不明だろうが、「飛行機のサンバ」(Samba Do Aviao)という曲にしても、最初の <ミド、(上の)ソシ> (この4つの音を和音として一緒に弾く)、次に <ミbドソbラb> という和音を、ピアノかなんかで弾いてみて欲しい。この最初の2小節の美しさだけでも、何百回も弾くのに値する。事実、私は本当に何回も弾いてしびれている。また、一番有名な「イパネマの娘」のさびの部分の和音の進行は、ジャズではまず生まれ得なかったであろうと思うくらい斬新かつカッコいい。それもこれもギター感覚に根ざしたボサノバの生んだ発明だ。

笑顔 という訳で、ボサノバは、ブラジルのリズム感と、ジャズの和音感覚が、ラテン系の国ならではのギターという楽器において融合され、独自の超カッコいい世界を作ったものといえる。そして、Joan Gilbertが始め、彼の奥さんAstrad Gilbertが大流行させた、ビブラートなしの囁く声での唱法。今でも小野リサがしっかり受け継いでいる。ああボサノバは超カッコいい。  Nat

ボサノバはなぜカッコいい? その2

びっくり ボサノバのかっこいい理由の一つは、歌のリズムも、バックの打楽器のリズムも、心地よい「ずれ」を伴うからだと、前回書いた。実は、それはボサノバの生まれたブラジルの言葉、ポルトガル語の持つリズムに関係があるのではないかと思っている。一番有名なボサノバの曲「イパネマの娘」の歌詞の最初の部分を書いてみよう:

Olha que coisa mais linda, Mais cheira de gra&ccedil;a, &Eacute; ela menina, Que vem que passa

オーリャ/キ/コイザ/マイシュ/リンダ/マイシェイラ/ヂ/グラッサ
エ/イラ/メニーナ/キ/ヴェン/キ/パッサ

これだけ見ても、よく分からないと思うが、実際の歌を聞いてみると分かる。このポルトガル語の歌詞は、4分音符ずつの小節に、1,2,3,4ときちんと収まりにくく、半拍あるいは1拍ずれた感じになりやすい。

びっくり これに対し、この曲の英語版の歌詞は全然違う。

Tall and tan and young and lovely, the girl from Ipanema goes walking, and when

これをまともに歌うとボサノバにはならない。この英語の歌詞なら、リズムをジャズ風のウネルような4ビートに変えると、急にぴったりする。この歌詞の中で、ボサノバのリズムに合う部分は一箇所だけで、それはIpanemaという地名だ。「ne」の所にアクセントがあって、最後が「ma」という、英語にないくっきりした音で終わる。その部分だけはボサノバ的な感じがする。他の「walking」なんて間延びしたノリの単語はもう全然合わない。ボサノバに合う単語は、上の歌詞の「coisa」「graca」等のちょっと舌にひっかかるような、そして単語の終わりがぱっと途切れるような音だ。

譜面 このように、ボサノバのあのリズムは、絶対にポルトガル語のリズム感から来たものだと思う。研究してないからいい加減に言うだけだが、多分もともとのポルトガル本国にあった音楽のリズムなども背景にあるだろうし、ブラジルの主流のリズムであるサンバとも、8ビートで裏にリズムが入るという共通性はある。しかし、サンバが踊るための煽るようなリズムであるのに対し、ボサノバは、しっとり歌詞を歌う音楽だ。だから、ポルトガル語の独特のリズム感が、あのボサノバの独特のノリを作ったというのは、間違いないと思う。ボサノバの元祖である、アントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルトの歌うのを聞いてみると、一層それが分かると思う。

祝日 我々日本人は、日本語のノリが体にしみこんでいる。だから実は我々の体が自然に感じるのは、あのジャズのウネルような4ビートのノリでも、ボサノバのノリでもない。日本の古くからの歌が一番自然だ。ボサノバが我々にとって、なんともの心地よい、異国情緒感溢れるカッコいいノリに感じられるのは、まさに我々の体にはないポルトガル語の「ずれずれ」のノリだからなのだ。私はそう思う。 Nat

ボサノバはなぜカッコいい? その1

音符 私はジャズのピアニストもやっているのだが、弾くジャズの中に結構ボサノバ曲が入る。実は、ボサノバ大好き人間なのだ。皆さんの中にも、ジャズを聞くのは苦手でも、ボサノバなら大好きという人もいる。例えば「イパネマの娘」なら知っていて好きだという人なら大勢いるだろう。そういう人も含めて、ボサノバの持っている、なんともいえない心地よい雰囲気が魅力に感じられる。その、ボサノバのなんともいえない魅力は、いったいどこから来るのだろう。それにつき一言書いてみたい。

笑顔 ボサノバにあって、他の音楽には、それほどないボサノバの素晴らしさは、まず、その「ずれるリズム」にある。誰でも直ぐ感じるのは、歌のバックにカタカタと入る打楽器のリズム。たとえば「ススタカスタタカ、スタカカススタカ」という感じで、打楽器のアクセントが、表や裏に変幻自在に入る。きちんと何時も同じところにアクセントが入るのではなく、適度に期待を裏切って裏にも入る、その「ちょっとずれたアクセント」が心地よい刺激感を生む。

譜面 歌のリズムが、これまたずれる。Agua du beber (おいしい水)という有名な曲がある。カタカナで書くと「アグァ ジュベベ---- 」と歌うのだが、この歌詞を歌うタイミングが、他の音楽では考えられないくらい「ずれる」。譜面の小節的に書くと:
 |休 アグァジュベベ|------- |
となる。つまり、最後の「ベー」と伸ばす「ベ」は、普通なら次の小節の頭に来るはずなのだが、この曲ではそれが、前の小節の最後の四分音符からもう「ベー」が始まってしまい、次の小節ではそのまま伸ばしている。普通の感覚よりも、丸一拍早く「ベー」というのだ。半拍だけ早目というのは、いわゆるシンコペーションといってジャズやロックの常套手段だ。ところがボサノバでは、まるまる一拍前倒しになる。もう小節の節目が「ずれずれ」で分からなくなるくらいずれる。

マイク  ボサノバではギターを弾きながら歌うのが多いが、なんと、自分の弾いているギターよりも、自分の歌が2、3歩先を歩いているなんてのもある。よくギターが弾けて、よく歌が歌えると感心する。

笑い そのように「ずれずれ」なのだが、大体それを、けだるい声で、淡々とずれながら歌う。バックの打楽器も、裏にずれながらアクセントをつける。もうそれだけで、これまでに慣れ親しんできた、お行儀のいいきちんとした箱に収まった音楽とは違う、開放感・自由感が溢れる。これがボサノバの魅力の一つだ。Nat

信じる人、信じない人 その7

笑顔 前回、「信じる人からすると、一つ、信じないで生きている人について、もはやしみじみとは理解できなくなったことがある。」と書いた。それは、余計なお世話で申し訳ないが、「神というものを信じないで、よく平気で生きていられるな」ということだ。これは信じることが当たり前の国の人からしても、信じない人の多い日本人がそう見えるようだが、正直言って私からもそう思う。

大波 特に神を信じず、神と自分がしっかり繋がって生きているという実感がない場合、その人にとって、人生を決めているものは何か? それは物質を支配する偶然の法則であったり、抽象的に「運命」とかいうことになるだろう。今、その人が風邪を引いて寝込んでいるとしても、それは偶然である。とすると、それがこじれて、肺炎になって実は来週に死ぬ運命であるかも知れないというのも偶然に決まる。もし仕事で極めて追い詰められた状況になってしまっていたとしても、それは偶然だ。あるいは自分の能力がないからだ。そういう状況でそれでも頑張らねばという場合、自分で自分を鼓舞するしかない。気休めでも「神」に対して自分が今如何に苦しいか祈りの中でお話しするなどということもないので、精々友人か伴侶にでも吐露するしかないだろう。私からすると、そういう人生は、怖いし、非常にきつくシンドイのではないかと推察する。私には、もうそういう人生には戻れない。

はてな それでは、信じる人にとって、風邪引いたり、仕事が上手く行く・行かないは、偶然じゃないのか?何なのか?と聞かれそうだ。勿論、神さまなるものが、私の横で「はい風邪にするよ。はい今直るよ」などと采配を振っているわけではなかろうゆえ、確かに人間からすると「偶然」としかいいようがない。しかし、その「偶然」を決めている宇宙の法則のようなものの奥に、私に対する心のようなものがあると思うか、そんなものは全くないと思うかの違いなのだ。私としては、私の命を創り、私の想像を遥かに超えて私というものへの大きな愛をもった存在が、宇宙の法則の奥にいて、私にとっての「偶然」の中身を大きな愛の中で決めていると信じるということだ。同じ「偶然」でも全て「愛の中での偶然」である。だから、私が今日、これから交通事故で突然死しても、それは愛の中でのことだ。突然死する私の人生は、神からするとそれが私にとってのベストな人生ということだ。しかも、死んだ後も神との繋がりは消えない。今度は何か新しい展開が用意されているのかも知れない。そんな訳だから、人生は全て信頼する神に「お任せ」でいられる。何も怖くも心配もない。何か胸につかえることが出来た場合は、神に全部そのことを祈りの中で話せばいい。なにせ相手は宇宙の運命の大元の「全能の神」だ。そういう“人”にじっくり話を聞いてもらうのは、大した助けにもならない友人に言ってみるのとは訳が違う。話しした後は全部すっきりする。

にっこり これは本当に私の気持ち。たとえそれが自己マインドコントロールに過ぎなくても、何であって、それが私の心の状態だ。それからすると、全て物質的なだけの偶然に晒され、それに対抗するのは自分の力と踏ん張りだけとすると、さぞかし、そういう人生は疲れるだろうなと思う。だから、もう信じるのをとてもやめられない。

本 最後に、17世紀のフランスの有名な数学者・哲学者のパスカルが書いていたことを引用する。「神はあるかないか分からない。しかし、あると信じて生きることにしても、失うものはさほどないが、もし結果的にあったのに信じなかった場合の無限大に近いペナルティーのリスクを考えると、信じるしかない。」私は、それを更に進めて言う。「信じない人生の苦悩は大きいが、信じる人生の安心と豊かさは大きいから、信じるしかない。」

ウインク 勿論、信じないで生きているけど、十分安心と豊かさを持っている人も多かろう。そういう人は、それでいいと思う。無理にとは言わない。それでも小声でちょっとだけ言いたい。「更にもっと良くなりますよ」と。お節介でゴメン。  Nat
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