祈りは本当に聞かれるのか? この問いは、自然科学者RD博士に問われる前から、信仰をもって生きている人間が、人類史上ずっと自問し続けてきたことであろう。私自身も、07年3月下旬に書いた本ブログの記事「キリスト教でひっかかること」(その??)で、少し考えを披露しているので見てみてほしい。
まず、少なくともクリスチャンの祈りは祈願と同じではない。なぜ祈るのかと言えば、願いごとがあるというよりも、神との絶え間ないコミュニケーションで、神と繋がっていようとするからだ。親子の会話でも、子は親に頼みごとばかりはしない。同様に我々は神に悲鳴も上げ、疑問を発し、愚痴もこぼし、そしておおいに感謝もする。神の愛、あるいは気功的に言えば「神の気」としっかり繋がり、いわば神と共に生きているようにしたい。それにより、我々の人生の中で具体的にどのように神が導いてくれるのかまでは分からない。それでも神は祈る人間と共に居るのだ、と信じて生きるわけである。祈りはこのようなものだ。だから、もし誰かが、祈りの効果を自然科学的に検証したいという場合は、不断の祈りの結果、神がよりしっかり共に居て下さっているかどうかを検証することになる。そのような検証であれば、神学者の言うように「神は科学を超えているから原理的に言って永遠に検証できない」ということはないのではないか。私が超能力シリーズで書いたとおり、「気」や「超意識」等の科学が大きく進歩すれば、祈る者の回りにある「オーラ」的なものを検知するといった形で、「神共にいます」ことの検証が、いつの日か出来るかも知れないと思う。当分無理だろうが。
ということで、祈り=祈願ではないので、心臓手術への祈りの効果の実験は、祈りの本質とはかけ離れていると思う。しかし、実験した人がキリスト教サイドの医学者で、祈りの効果を検証しようとしてやったのだから、本質をついていないことに対し、無神論サイドのRD博士の責任はない。そこで一応、実験の“失敗”に対して反論した神学者の論点についてもコメントしておこう。
(1) の「祈りが正しい理由の場合にのみ神は応える」:多分言いたかったことは、祈る者はよく苦し紛れに身勝手な祈りをするが、神が祈られるままに言うことを聞いてくれる訳がない。神は、祈りをしっかり受けとめた上で、神の次元の意思でその人への愛の応答する、というようなことかと思う。(2) の「神は苦しみを試練として与えることもある」:これも上記の通り、苦しみから逃れようとして祈っても、必ずしも神は「はいはい」と即いいなりにはならない、神は神としての対応をする、という意味であろう。そういう風に言わないと誤解されやすいだろう。それ以下の神学者の反論へのコメントは略す。
それより、もう一度心臓手術の実験に戻ろう。確かに、我々も誰か病気の人のために篤く祈ることは多い。その祈りが聞かれるかどうか?超能力者ではない我々の祈りの「念」は微弱である。気功士の「気」や「念」のように直接病人に影響力を発揮できはしない。しかし、私の信じる所、我々の祈りが、相手への真剣な愛に満ちている時、少なくともその祈りは、神には強く達すると思う。しかも、大勢の仲間と一緒に祈る時、一人ひとりの微弱な「念」は束になって神に達する。神に達した我々の「念」は、光がレンズを収束させるように、強い神の念となって病人に達する。気や超意識の世界の科学的研究は遅れているので、まだこの辺は全くの想像上の仮説だ。しかし、気や超意識の世界の仕組み上、我々の祈りが、愛と仲間のパワーで捧げられる時、神を経由して病気の人に強く達するという構造になっている可能性は十分あるように思う。科学的検証をする場合は、斯かる仮説を前提にした検証をして欲しいものだ。愛を込め、皆で本当に祈る時、結果的に調べてくれれば有意差が出るかも知れないと思う。逆に言うと、乱数表で選んだ誰か分からない患者に祈りの念を送るというのでは、祈りにもならないと思うし、とても上記のような気の世界の仕組みに入り込んでいけるものにはなるまいと思う。
そういう訳で、実験をした心臓医のベンソン博士も、それを論評しているRD博士も、悪いが、空回りで、時間の無駄をしたように思う。 Nat
まず、少なくともクリスチャンの祈りは祈願と同じではない。なぜ祈るのかと言えば、願いごとがあるというよりも、神との絶え間ないコミュニケーションで、神と繋がっていようとするからだ。親子の会話でも、子は親に頼みごとばかりはしない。同様に我々は神に悲鳴も上げ、疑問を発し、愚痴もこぼし、そしておおいに感謝もする。神の愛、あるいは気功的に言えば「神の気」としっかり繋がり、いわば神と共に生きているようにしたい。それにより、我々の人生の中で具体的にどのように神が導いてくれるのかまでは分からない。それでも神は祈る人間と共に居るのだ、と信じて生きるわけである。祈りはこのようなものだ。だから、もし誰かが、祈りの効果を自然科学的に検証したいという場合は、不断の祈りの結果、神がよりしっかり共に居て下さっているかどうかを検証することになる。そのような検証であれば、神学者の言うように「神は科学を超えているから原理的に言って永遠に検証できない」ということはないのではないか。私が超能力シリーズで書いたとおり、「気」や「超意識」等の科学が大きく進歩すれば、祈る者の回りにある「オーラ」的なものを検知するといった形で、「神共にいます」ことの検証が、いつの日か出来るかも知れないと思う。当分無理だろうが。
ということで、祈り=祈願ではないので、心臓手術への祈りの効果の実験は、祈りの本質とはかけ離れていると思う。しかし、実験した人がキリスト教サイドの医学者で、祈りの効果を検証しようとしてやったのだから、本質をついていないことに対し、無神論サイドのRD博士の責任はない。そこで一応、実験の“失敗”に対して反論した神学者の論点についてもコメントしておこう。
(1) の「祈りが正しい理由の場合にのみ神は応える」:多分言いたかったことは、祈る者はよく苦し紛れに身勝手な祈りをするが、神が祈られるままに言うことを聞いてくれる訳がない。神は、祈りをしっかり受けとめた上で、神の次元の意思でその人への愛の応答する、というようなことかと思う。(2) の「神は苦しみを試練として与えることもある」:これも上記の通り、苦しみから逃れようとして祈っても、必ずしも神は「はいはい」と即いいなりにはならない、神は神としての対応をする、という意味であろう。そういう風に言わないと誤解されやすいだろう。それ以下の神学者の反論へのコメントは略す。
それより、もう一度心臓手術の実験に戻ろう。確かに、我々も誰か病気の人のために篤く祈ることは多い。その祈りが聞かれるかどうか?超能力者ではない我々の祈りの「念」は微弱である。気功士の「気」や「念」のように直接病人に影響力を発揮できはしない。しかし、私の信じる所、我々の祈りが、相手への真剣な愛に満ちている時、少なくともその祈りは、神には強く達すると思う。しかも、大勢の仲間と一緒に祈る時、一人ひとりの微弱な「念」は束になって神に達する。神に達した我々の「念」は、光がレンズを収束させるように、強い神の念となって病人に達する。気や超意識の世界の科学的研究は遅れているので、まだこの辺は全くの想像上の仮説だ。しかし、気や超意識の世界の仕組み上、我々の祈りが、愛と仲間のパワーで捧げられる時、神を経由して病気の人に強く達するという構造になっている可能性は十分あるように思う。科学的検証をする場合は、斯かる仮説を前提にした検証をして欲しいものだ。愛を込め、皆で本当に祈る時、結果的に調べてくれれば有意差が出るかも知れないと思う。逆に言うと、乱数表で選んだ誰か分からない患者に祈りの念を送るというのでは、祈りにもならないと思うし、とても上記のような気の世界の仕組みに入り込んでいけるものにはなるまいと思う。
そういう訳で、実験をした心臓医のベンソン博士も、それを論評しているRD博士も、悪いが、空回りで、時間の無駄をしたように思う。 Nat