♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2010年04月

政府の巨額債務はやっぱり問題なのか? その2

  カリスマ評論家の間違っている二つ目は、政府が巨額債務を何年かして国民に返さねばならないと想定していることだ。政府借入れがどんどん増えると、これはダメ。しまいには国民の余りのお金を越えて、外国人のお金にまで手を出すことになるからだ。しかし今のように、国民の「余りのお金」の余裕がまだ200兆円もあって、それを外国に貸しているくらいだから、政府借入れがこれ以上大きく増えない限り、それで問題ない。返さなくてもいい。極端には、800兆円の政府借入れが永遠にそのままでも大した問題ではない。所詮、国民の余りのお金は国債に回るしかないのだから。代々の国民が受け継いでいくのでもいい。よく「後世に政府の借金を残すのか?」などというが、残すのは政府借金だけではない。国債という資産も子孫に引き継がれる。

 

 実は、これが問題にならない背景には、日本の金利が非常に低いことがある。国債でも1%くらいの金利だから、800兆円でも金利は8兆円だ。元本を返さなくても、この金利だけを毎年払えれば、それで雪だるまのサラ金地獄にはならない。外国では金利が高く、すぐ雪だるまになる。そしてなぜ日本では金利が低いかというと、結局、日本の国民のお金が日本国内で余っているからだ。ということで、800兆円をずっと返さなくても問題はないのである。

 

 というわけで、金利の8兆円だけを負担すればいい。しかし、それは結局誰が負担しているのだろう? 勿論、直接的には政府が税金から払っているのだが、その税金は国民から来る。とすると、国民が国民に8兆円の金利を払っていることになる。自分で自分に? 違う。800兆円の借金は、実質的には、お金の足らない国民がお金の余った国民から借りているに等しい。その間に入っている政府は単に、公共の仕組みである。つまり政府のサービスは国民みんなが受けるのだが、政府がサービスを継続するのに必要な資金を税金と国民からの借金で賄っている。ところが、国民の中にはこの借金に応じることの出来ない、お金のない人も多い。だからお金のある国民が纏めて政府にお金を貸してあげている。その分、お金のない国民の払った税金が金利として、お金を貸している国民に回っている形になる。ということで、800兆円はお金のない国民の、お金のある国民からの借金と同じことである。私はそう考える。

 

 そうやって、この国が回っている。しかしこの「持てる国民の受ける、ねたましいような金利収入」も所詮1%だ。かわいいもんだし、少しは金利がかかるので当然といえば当然だ。だからそれも、とりたてて怒るようなことでもない。以上のとおり、国債問題は特に問題ではないということになる。私はカリスマ評論家ではないが、無名の私の評論ではそうなるのだ。 違うかしら?  Nat

●コメントを頂いたので、念のため追記する。上記の通り、800兆円の債務そのものが即問題ではない。繰り返しになるが、それ以上どんどん増えないのであれば、まだ国内の資金の余り200兆円があるから大丈夫だ。ところが、実際には、基礎的財政収支(いわゆるPB;国債など借金関係の収支を除外した、通常の収入と通常の収支のバランス)が去年度で13兆円の赤字、今年は33兆円の赤字にまで増えている点が問題だ。PB赤字の額は、とりも直さず、政府債務がその分増えるということだ。仮に毎年30兆円のPB赤字が生じると、200兆円の国内資金の余りは7年で食いつぶされる。そこからは、海外からの借金に依存するという大問題の世界に突入する。だから、政府の債務の問題は、800兆円の債務のストックが問題というよりも、フローの方のPBの大幅赤字が続きそうな点にある。PB赤字も一時的ならば、余りの資金がまだ200兆円あるので、それほど問題じゃない。特に大不況などの年に10兆円、20兆円単位でカンフル剤を打つのはいい。しかしそれは、一時的カンフル剤と経済の活性化諸施策とを併せて、その後の年にはPBを黒字に持っていけることが前提になる。毎年、カンフル剤しかないのであれば、麻薬中毒患者と同じである。だから某評論家の言う800兆円が問題なのではない。PBの継続的赤字こそが問題なのである。 以上、補足です。Nat

●もう一点、追加の補足: 今日(4/29)の日経新聞に載っていたことだが、S&Pの米代表に言わせると、日本は老齢化で1400兆円の金融資産を食い潰していくので、国債の国内消化が将来的には難しくなっていくという。 なるほど。もしそうなら、誰か専門家に、どの程度のペースで食いつぶしが進むのか、200兆円の余りがいつごろ消えるのかを教えてほしいものだ。  Nat


政府の巨額債務はやっぱり問題なのか? その1

2009年9月16日・17日の当ブログで「日本政府の巨額債務は問題なのか;その1、その2」と題して、日本政府の800兆円の“巨額債務”について書いた。簡単に言うと、日本政府の持つ借金から金融資産を引いた純借入れ額が約500兆円。同じく企業の純借入れが300兆円。つまり国と企業が合計800兆円を借りている。誰から借りているかというと、それは国民からだ。国民は金融資産を1400兆円持っているが、400兆円借入れもあり、純金融資産は1000兆円だ。そこから国と企業に800兆円貸している。そして残りの200兆円はアメリカ等の外国に貸している。というわけで国の中でうまく回っている。外国から巨額のお金を借りている国に比べれば問題は少ない。そして、むしろ問題は、国が500兆円も純借入れして、要らない橋や道路や、役人の給料に無駄な投入していることの方だと書いた。

 

しかし「国民の保有の資産が国に回っているだけだから問題ない」というロジックには、常に、それはまやかしとかいった反論が出て来る。先日も夕刊紙の一つに某カリスマ評論家みたいな人の意見で、「国の借金は国の借金。国民の資産とは別もの。国のグロスの借金800兆円は、毎年10兆円ずつ返しても100年かかる。しかも政府は毎年10兆円も返せない。もう破綻だ。」というような論旨が載っていて、一見もっとも風に聞こえた。

それで、私の小さな頭の中で、本当はどうなんだろう?と、もう一回考え直してみた。

 

簡単にするため、政府が800兆円を国債などで国民から借りているとしよう。実際には多くの国民は銀行などに預金しているだけだったりするが、その銀行などが結局国債を買っている。だから基本構図としては、国民が政府に800兆円貸していると思えばいい。そして国民が政府に、税金払う以外にも800兆円の資金を貸して、それでもって政府からサービスを得たり、政府の作る道路などを利用しているということだ。私は、問題の本質は、その政府のサービスとか施設などが、国民が本当に求めているものになっているかという点にあると言っている。

 

しかし、カリスマ評論家氏は、まず政府が国民自身から借りていても借金は借金、だから問題と言っている。しかし日本国民が自分のお金を運用する場合、為替リスクとか外国は不慣れとかもあるので、圧倒的に日本国内での運用が主になる。そして日本国内で安全に運用となると、銀行預金(そこから結局国債に化けるが)か直接国債を買うかのどちらかだ。つまり、国民のお金の余りは、どうやっても政府の国債になるしかない。それでも足りなくて、外国人からのお金まで借りると、これは大変。外国人のお金は逃げるのも早いからだ。ということで、安定的な日本の国民のお金の範囲で政府が借りている分には、国民自身が政府を動かしているだけだから基本構図は悪くない。

 

次に、カリスマ評論家の間違いの二つ目を次回に。  Nat

またまた進化の謎・・ その2

 ある時、ある生物の種が、一定の方向に一斉に変異するとして、その背景に想定し得る仕組みは何か? 一つの説はウイルス説。日本人が言い出した説らしい。つまりトカゲの例で言うと、ある時、トカゲの手に羽根を生やすという遺伝子を含んだウイルスがある種のトカゲを襲い、多くが感染。それでその子どもに羽根の生えたトカゲが多数発生というシナリオだ。なるほど、この説では、一匹のトカゲだけが突然変異するのではなく、多数が一斉に変異する説明にはなる。しかし、進化の背景となったようなウイルス事例はまだ全く発見されてないというし、余り支持もされてないようだ。私としても、これは思いつきのような気がする。

          

一方、進化、遺伝子の研究の最先端分野では、私のイメージしている「生物の遺伝子の中に内包されている何らかの一斉進化への仕組み」につながる可能性のある話もあるようだ。まず、ポリジーン。犬にはチワワからセントバーナードまで非常に幅がある。しかし、同じ犬なので交配が可能だ。チワワとセントバーナードのような体の大きさや、バランスの差異を、主に環境適応によって生み出す遺伝子がポリジーンらしい。環境からの圧力が高まると、まずはポリジーンの働きで、背が伸びるとか、色が黒くなるとか、そういう程度の差の形質変化が種全体に発生する。そして、そのような形質変化はちゃんと遺伝する。京大で50年間にわたり1400世代のショウジョウバエを代々暗闇で飼育し、暗闇に適応する形質変化(毛が伸びるとか、嗅覚反応が鋭くなるとか)が起きることを確認しているという。それがポリジーンの仕組みだろう。

 

しかもだ、環境からの圧力でポリジーンによる形質変化が起き、それが一定のレベルにまで高まると、今度は主遺伝子の突然変異を抑制していた仕組みが解除され、眠っていた上位の遺伝子群の覚醒による突然変異の加速へのスイッチが入るとも言う。つまり、生物の遺伝子の突然変異には抑制・加速の仕組みが内包されているらしいのだ。遺伝子のコピーのエラーによる偶然だけの突然変異ではないのだ。また、突然変異が眠っていた上位の遺伝子が働き出すことで変化が生じるとすると、偶然の1個体の奇形児というイメージではなく、種の中の多くの個体が一斉に同様の方向に変化する可能性もありそうだ。これだと、私のイメージにマッチする。ある環境の圧力の中にあったある種のトカゲの群れ全体が、ポリジーンの仕組みで、地上生活から空に脱出する方向での、何らかの形質変化を起こしつつあった。それが限界に達した時に、主遺伝子の突然変異を抑制していた仕組みが解除され、上位遺伝子の発露として多くの個体で羽根が発生、更に骨の中空の鳥に変化していった。一方、足にも変な羽根を生やすなど、間違えた方向に突然変異したグループもいたかも知れないが、それは直ぐに絶滅。足は短く縮めて、ちゃんと空を飛べるような突然変異を起こしたグループだけが、首尾よく鳥になった。そういうことではないか。

 

 ただ、ポリジーンとか突然変異の抑制・加速など、ちょっと聞きかじっただけで、私も関連の論述をちゃんとは読めてない。だから、はやとちり、勘違いかも知れない。しかし、個体の偶然の突然変異だけで済ませる単純馬鹿的な進化論よりは、私の直感に合う。誰か、もう少し専門的に知っている人は解説してほしい。

 

 それにしても、眠っていた上位遺伝子が覚醒すると、なぜ哺乳類にも精密光学機器のような眼球が発生、そして頭足類のタコにも同様の眼球が発生したのか? 上位遺伝子中に眼球の原型的設計図が隠されていたということか? そんなことは有り得るのか?いよいよ謎は深まる。いっそのこと、生物には最初から「intelligent design」になるような働きかけがあるという、宗教っぽい説明に傾きたくもなる。前に書いたが、生物に作用する何らかの未発見の「場」(電磁場のようなもの)があるとか、そういう仮説も思い浮かべてしまう。私の生きている間には解明されないのだろうか。   Nat

またまた進化の謎・・ その1

 これまでも何度か、進化の仕組みに関する謎について書いてきた。200953日からのシリーズ「なかなか進歩しない進化論 その1~4」などだ。私が、単純なる突然変異と自然淘汰だけの説明に納得行かないことを、つらつらと書いてきた。

 

 もう一回、簡単に書くと、例えば小恐竜(ここでは単純にトカゲといおう)に羽根が生え、骨格が中空で軽くなって、遂には空を飛ぶ鳥に進化した経緯の説明だ。単純な進化論では、ある一匹のトカゲが偶然にちょっと羽っぽいトカゲに突然変異、そしてその子孫が増えて、更に、その中の一匹が偶然に中空の骨に突然変異。それの子孫が増えて、ついには空にはばたいた。すると都合がいいので、多数の群れになり鳥になった・・というわけだ。

 

 私がおかしいと言い続けているのは、このような「一匹」、つまり一つの「個体」だけに偶然突然変異が起こっても、それ以上の広がりに繋がらず、ましてやそのトカゲの子孫が鳥にまで進化することなどはないということだ。手に少し羽根が生えている変なトカゲが1匹登場しても、それだけでは有利でも何でもない。だから、そのトカゲが他より多くの子孫を残せる保証はない。更に、その子孫の中から流線形の大きな羽根を生やすという更なる突然変異が具合よく発生する確率は低い。そもそも羽根っぽい奴はそいつの兄弟姉妹しかいないので、羽根っぽい奴ら同士で交配するには近親相姦しかない。また、たとえ大きな流線型の羽根を生やせたとしても、骨が重いとまだ空は飛べないから、生存有利でもない。むしろ大きな羽根が邪魔になるだけだ。そこから中空の骨の突然変異のやつがまた1匹偶然に発生し、そいつが上手く子孫を増やせたら初めて鳥になるかも知れないということだ。個体への偶然の突然変異の更なる偶然の集積だけでは、どうしても進化は説明出来ない。突然変異は自然界では突然、偶然に起きるだけだから、研究が難しい。人工的にX線なんか照射して無理に起こして調べるくらいが精々出来ることだ。だから、その集積の集積で鳥にまで至るかどうかは、科学者としても「何百万年もの間には数学的にあり得るかも・・・」と呟くのが精々であろう。しかし、私は先ずあり得ないと思っている。

 

 一方、京大の故今西錦司先生もはっきりしている。生物の進化が偶然に生まれた“奇形児”の一匹に拠るなんてのはあり得ないという立場だ。彼のイメージでは「ある時、ある種のトカゲの群れは一斉に鳥になっていった」ということになる。種全体、群れ全体がある方向に一斉に進化していくという話は、より直感に合致する。しかし、その仕組みを今西先生も説明していないし、それだけでは「生物というのは、そのように不思議な進化力を持っているのです」等という神秘的な話に終始してしまう。科学にならない。

 

 私は20095月のブログで、環境が作用すると、生物の遺伝子の中に内包されている、ある形質のパターンへの潜在的変異性に一斉にスイッチが入る、そのような仕組みが遺伝子の中に組み込まれていないだろうか?との仮説を述べた。ところが、最近、このことの答えになるかも知れない話しが新しい研究の中にあることを知った。そこで、そのことを。(次回のその2に続く。) Nat

 

 

怒りとは何か?

 笑い、泣きとくると次は「怒り(いかり)」だろう。

 

 笑い、泣きと大きく違うのは、怒りは動物にも幅広く見られるもので、比較的原始的なルーツの感情のようだ。動物の場合、ある欲求に基づく行動を阻害された場合に起こると説明されている。そして、人間の場合、更にそれが発達して、自分が何らかの危険にさらされたという意識が怒りを生むとされている。しかし私はこの「危険」説はぴんと来ない。アフリカでライオンが私の近くで私をにらみつけたとして、私としては自分の身に危険が迫ったと認識するだろうが、その時に怒りの感情がわくだろうか? 恐怖ばかりで怒りは殆どないはずだ。私の感じでは、怒りは人間の自我、つまり心の拠り所を侵害された時の反応ではないかと思う。電車に乗る時にきちんと列を作って乗ることが社会として大事だという価値観をずっと守ってきた人にとって、列の後ろから割り込まれると、自分の価値観を侵害・否定された気がするから怒りが湧く。自分に危険が差し迫るからではなく、実質的には危険がなくても、簡単にいうと「自分を否定された」と思ったら怒るのである。そういう意味では「自我意識に危機感がある場合」と解釈すればいいのではないか。

 

笑い、泣きと同様に、怒りの身体的な側面だが、ものの本によると、そのような状態に対して戦うとか一気に逃げるとかの瞬発的な対抗行動をとるのに必要なアドレナリン的なものが、怒ることによって体の中に分泌される、そういうその瞬間だけの効果が一つ。もう一つは、状況に対抗するための緊張状態を維持するモードにするという、時間的に持続する効果があるらしい。この怒りっぽいモードの持続こそが、怒りが集積し、「考えれば考えるほど・・」という形で段々余計に不愉快になり、余計に腹立たしくなる理由のようだ。いずれにせよ、このような怒りの効果は動物も同様だから、涙ほどの不可思議な面はなさそうだ。

 

もう一つ、笑いや泣きと違い、怒りにだけ特有のことは、それが基本的に否定的な感情とされることだ。義憤というのもあるが、基本的には怒りは、人への憎しみとなり、争い・殺害などに繋がる「悪い心」とされる。従って、怒りについて書かれているものの大半は「どうやって怒りを鎮めるか」についてだ。笑い、泣きを鎮める方法というのは殆ど議論されないが、怒りはとにかくコントロールすべきものとされる。いわば動物的なものというわけだ。でも、怒りの鎮め方については、インターネットでも「怒りを鎮める10の方法」とかいった記事がやたらとある。気晴らしをして忘れるとか、相手の人のことを哀れな奴だか愚かな奴だとして自分と同列には置かないとか、宇宙の大きさの中でちんまいちんまいと唱えるとか・・・色々あるが、悪いが余り興味が湧かない。

 

勿論、私も怒る。無我の境地に達さない限り、人は怒る。しかし私が思うに、それをどうやって鎮めるかというハウツーよりも大事なことがあると思う。それは、自分が怒ったとき、自我構造の中のいったい何が侵害されたと思ったのか、それを内省的に見つめてみることだ。つまり、怒りは自分の心の構造を浮き彫りにしてくれる道しるべであると思う。例えば「君は奥さんのいいなりだ!」と言われて逆上する人は、自分の心の中に奥さんに対抗して自分の男ぶりを無理にでも誇示しようという戦いをずっとしてきている人、それによって何とか微妙に自我が保たれているという人だろう。自分が何で激しく怒るのかを知ることによって、自分の心の構造を良く知ることが出来るのである。その結果、あくまでもその結果だが、怒りは、怒っている自分を見つめることで比較的コントロールできるようになっていくようにも思う。

 

ということで、怒りは余り話として面白くない。笑いと泣きの方がはるかに面白い。今度、このブログでこの続きを書くときは、笑いか泣きに限ることとしよう。その方が楽しいから。ハイ。 Nat

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