♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2010年08月

日本はこのまま貧しい国に?

 日本はかつて国民一人あたりの所得で、世界1,2位を争う豊かな国になっていた。ところが、国民あたり所得で、1996年から2001年まではの4~6位をうろうろし、バブルが弾けた後の2002年以降は下落の一途。2007年には23位にまで落ちた。国民一人あたり所得の実数を見ると、日本はここ10数年の間ずっと3万数千ドルと横ばいだ。その間に、アメリカは2万4000ドルから4万4000ドルに、イギリスで1万9000ドルが4万ドルに、韓国も7000ドルが1万8000ドルにと、各国は皆所得を伸ばしてきている。ドルと円の為替レートはこの間、概ね100~120円で上下しているだけだから余り関係ない。要するに日本だけが、世界各国が毎年豊かになるのから取り残されているということだ。

 そして、国民の中で貧困者が結構多い。OECD諸国の中で見ると、貧困率(国民の収入の中央値の半分以下の収入の人の割合)は、OECD平均が10.6%なのに対し、日本は14.9%と高い。西欧各国では10%以下だ。日本より貧困率が高いのは、アメリカの17.1%(言うまでもなく多数の黒人、ヒスパニック低所得者がいる)とメキシコ18.4%、トルコの17.5%だけだ。しかも、日本における貧困者は増える一方なのである。それが最も良く分るのが、生活保護を受けている世帯数の推移だろう。1980年には75万世帯であったのが、1992年には59万世帯にまで減っていた。ところがその辺から「失われた10年」あるいは「失われた20年」が始まり、そのため2004年には100万世帯を突破。今では130万世帯にまでなっている。典型的には収入が200万円ちょっとしかない人たちが生活保護を受けるが、実際にはそういう世帯は230万あって、そのうち130万世帯が実際に生活保護を受けているという。これらの人たちの多くは、単身の老齢者、あるいは母子家庭である。そして、彼ら・彼女らの自殺率は年間1万人に6人で、通常の倍である。

 1990年ごろから、日本はダメになっていった。元気がなくなったのだ。その間、同じような島国で経済成熟国のイギリスは、国家的な成長戦略の推進により、前述の通り国民所得を倍以上にしてきた。日本だけが成長戦略ないまま老衰の一途を辿ってきている。長く続いた自民党政権でも成長戦略を掲げてはきた。しかし、成長戦略は、既存体系の合理化・再編および規制緩和を伴うので、旧態依然たる「抵抗勢力」への政治的配慮をせざるを得なかった自民党には何も出来なかった。そのアンチテーゼを掲げた小泉政権が色々着手したが、「格差拡大」しただけとの偏見の中で終了した。(2009年5月の当ブログ「規制緩和はもうやめか?」をご参照。)

 次に今回登場の民主党。もしかしたら、これはもっと成長戦略が出来ないかも知れない。国家の成長戦略は産業を活性化することを意味する。そうなると、勢い企業の活性化になる。そういうテーマは、民主党からすると、とかく「自民党的」だということで基本的にはイヤなのだろう。そこで、エコ・介護などの「地球や人にやさしい」イメージの分野だけに絞って産業・企業の成長戦略を描こうとする。しかもいわゆる「供給サイド」(企業サイド)の施策は企業(資本家??)への支援みたいなので避ける。そして消費者サイドへの後押し(エコする人へのバラマキ)、あるいは介護士などの個人への所得補填などを中心に政策展開しようとする。それは病人に喩えると一時的にホルモンドリンクとか麻薬を飲ませることに近く、全く体質改造にはならない。今回の緊急経済政策でも、民主党政権が一番気にする雇用問題。これに対処する根本的な施策は、産業・企業の活性化なのだが、民主党政権は失業者への補填といった方向にのみ動く。本当は、失業者保護をしつつ、その間に産業そのものの再活性化を図らねばならない。(私の意見の具体的な内容は2009年5月の規制緩和のブログご参照。)

 私は、このところ一貫して民主党に投票している。別に民主党の方が自民党より優れているとは思わない。それは、日本が健全な二大政党制に進むためだ。また、日本の活性化のため、自民党時代とは異なる官僚との関係を構築してほしいとも思う。しかし、昨今の経済戦略論議を見ていると、民主党に票を入れた者としてはイライラが高まる。日本だけが、世界の中で沈没している現実から余りにも遊離しているからだ。 国民としては暫く様子見るしかないが。      Nat 

 

 追記: 以上のことを書いたら、民主党の代表選で菅と小沢が対決するというニュースが入ってきた。どちらの政策論が、私の思う対応に近いだろうか? 私の考えでの日本を救うための道は、2009年5月の規制緩和の9回連続記事で述べた通り、国内のサービス市場、特に医療、教育、また行政サービスという改革の進まない分野、あとは介護・福祉、そしてちょっと飛ぶが出版といった分野で、業態改革と規制緩和を組み合わせて進めること。もう一つは、2010年の1月の「日本って何だ?」で書いたとおり、メーカー型の日本企業の将来のために「国際的に異民族と一緒に仕事ができる人材を教育すること」である。前者のサービス市場の改革・規制緩和は菅も小沢もそれに関連する鋭い提案はない。ただ改革の抵抗勢力になるのは、利権擁護の既存業者と官僚だから、官僚への依存度を下げるという小沢の方がやや近いかも知れない。後者の国際人材教育だが、小沢の政策には教育が入るらしい。内容が違うかも知れぬが、国際人材も入る期待が少しある。といっても私には投票権はない。見守ろう。 Nat

死んだらどうなる? またまたこの話 その2

 前回、前世からの生まれ変わりの記憶のある人が多い中国奥地の村の話を書いた。そこの聞き取り調査の結果、人間(あるいは生物)は生まれる前に、前世からのたましいが吹き込まれること。また、前世であるスープを飲むと、前世の記憶は消去され、全く新しくやり直しになること等を書いた。

 命にたましいが吹き込まれるということは、人類が大昔から抱いてきたイメージではないだろうか。聖書の最初の創世記の部分でも、最初の人アダムは、まず土・塵で形を作られ、その後にその鼻に神から命の息を吹き込まれて生きるものとなった。また、新約聖書に出てくる、イエスが死人に呼びかけ蘇生させた話や、使徒たちの時代にもペテロが二階から落ちて死んだ若者に呼びかけて蘇生させた話がある。これも、一旦、何らかの理由で死に、たましいが体を離れた後、そのたましいが呼び戻され再び体に入ると、命が戻るという仕組みになっているのではないか。そうとも思える。

 前にこのブログで書いたが、唯物論的な生物学者は、生物はDNA等の仕組みで出来たたんぱく質の精巧なロボットと言う。本当にそうであろうか? 精巧なロボットは、外からたましいを吹き込まれて始めて生きる命となるのではないか? もし将来、たんぱく質の合成で人工的に生命体と同様の物体を作れたとしよう。生物と同じく食物を採りこみ、複製も作り出して増殖もする、そういう物体。そういう物体は作れると思う。ところが、もしかしたらそういうものが出来たら、天然の生物でなくても出来た瞬間に、前世を終えたたましいが格好の乗り物として乗り込んでくるかも知れないとも思う。天然の生き物の体にしろ、人工の生き物の体にしろ、物質としてのハードウェアだけでは命にならない。どこからか「たましい」なるものが、ソフトウェアのインストールのように注入されて初めて命となるのではないか? それでたましいが入った人工のたんぱく質の物体が、ちゃんと命として動き出す。またそれが高等生物レベルの物体であれば、ちゃんと「意識」も生じる。私は前から、結構本気でそういう仮説を持っているが、今回の森田氏の、生まれ変わりの村に関する本で、そういう意を強くした次第である。

 しかし今回の本で知ったことで、私としては悩ましいことがある。それは、例のスープだ。私が死んだとき、私のたましいがあの世に行き、そこでスープに出会ったらどうしようか? スープを飲むと前世の記憶は消去される。大半の人はスープを飲むから、生まれ変わっても前世の記憶がない。しかしスープを飲まないと、生まれ変わった後も前世の記憶が残る。スープを飲んで前世の記憶が消えるということは、今の私のこの意識も思い出も消滅する、つまり「私は終わる」ということにならないか? 生まれ変わっても、別の意識になるだけなら、それはもはや「私」ではないだろう。それならスープを飲まずに、私の記憶を保持しようか? しかし、生まれ変わりの村の人の話を読むと、必ずしもそれが幸せでもないらしい。私は男だが、今度は女になり、意識が混乱する可能性もある。また折角残した前世のことを思い出すと、病気になるというから、本来あまり思い出さないようにできているのかも知れない。とすると、やはり大多数の人のように、スープを飲み、一回前世はご破算にしておくのが正解か? でも、それでは「私」はそこで終わってしまう。その場合、イエスキリストが証しした、死んだ後も「私」は神の愛の中に永遠にあるということと、その一旦「私は終わる」ということとどういう関係にあるのか? という具合に、このスープのことが、非常に悩ましい。

 お釈迦様が輪廻転生(永遠の生まれ変わり)が人間の苦しみだといったように、むしろ折角死んで平安にあの世にいる(仏教的に言う「成仏」した)なら、生まれ変わりなどせず、ずっと平安の中にいるほうがいい気がする。生まれ変わりの村の人は皆、あの世で一年くらいしたら、突然生まれ変わったという。私はむしろ、生まれ変わらないためのスープがあれば、それを飲みたいものだ・・・とか色々思う。

 でも本当に死んだら、スープに出会うのか? 確たる証拠もない。生まれ変わりの村の人は皆スープを飲まなかったと証言しているが、それはその村の「スープの伝承」を皆が共有しているからそう言うだけかも知れない。といったことを考えていると、分らなくなる。そこで、いつもの私のお得意の結論に戻る。「死んだ後のことは、結局分らない。たましいが肉体を離れて別の世に行くことを示唆する様々な報告はある。だから、多分そういうことなんだろうと思っておくのも良かろう。しかし、その後スープがどうのとか、その先のことを含めて実際どうなるかは、結局死んでみないと分らない。しかし、『死すらも私から神の愛を引き離すことは出来ない』という聖書の言葉を信じ、とにかく神の愛の中にあり続けることだけは信じて死のう。そして、スープのことはその時に考えよう。神の愛さえあれば、スープのことはどっちでも良さそうだから。」ということだ。というのが、今回の結論です。  Nat


死んだらどうなる? またまたこの話

 20079月のこのブログで「死んだらどうなる?」につきシリーズで書いた。そして、20104月には「あの世」について書いた。今回もその続きだ。 

 森田健氏の「生まれ変わりの村①」を読んだ。森田氏は富士通にもいたコンピューター技術者で、今は通信ソフトの会社の社長でもあるが、不思議現象の研究もしている。中国奥地のある村では前世からの生まれ変わりの自覚のある人が非常に多いが、それを森田氏が調査したのがこの本だ。 

 死んであの世に行くと、多くの人が経験することが一つあるという。あの世で喉の渇きを覚えていると、スープを配っている所に出て、多くの死んだ人がスープに群がるのを見るらしい。そこでそのスープを飲んでしまうと、前世の記憶は消去され、新しく赤ちゃんにたましいとして送り込まれても、前のことは何も覚えておらず、普通の新しい人生としてやり直しが始まるという。ところが、その村ではそのスープの話が行き渡っていて、死んだ人の多くがスープを飲まないようにするという。そのため、死後の世界に半年から1年いた後、ある時突然、たましいが赤ちゃんに送りこまれるのを経験し、そういう記憶が残ったままになるというのだ。 

 84人の生まれ変わりの証言から、共通のパターンを見ると: まず面白いのは、多くの人が赤ちゃんに送り込まれた瞬間、自分の手が突然小さくなって、なんだ?と驚き、気がつくと自分が赤ちゃんになっているという。皆が、手が小さくなったことを語るから面白い。また、もう一つの共通点は、前世のことを思いだして人にその話をすると、必ず病気になるということだ。今の体に馴染んでいるたましいが、前世の体のことを思い起こすと、今の体から少し引きはがされるのであろうか?そのため、体の「気」が弱くなるのだろうか? 森田氏は少なくとも本の①では、病気の理由の解説をされていないが、もし、たましいが体から少し引きはがされるので病気になるのだとすると、非常に面白い。また、赤ちゃんに入るタイミングだが、精子と卵子の結合の瞬間ではなく、もっと育って、一定の形になってからだという。その段階にならないと、たましいが乗れないからだろうか。 

 それで思う。私たちは、DNAなどの仕組みで出来た精巧なハードウェアの肉体に、ソフトウェアのようなたましいがとりついたものなのであろうか? 人の体に悪霊がとりついておかしくなるという話がある。悪霊が取り付くのなら、私たちの普通のたましいが死んだあと一旦自分の体から離れて、これから生まれる赤ちゃんの体に“とりつく”ことはあり得るかも知れない。たましいも、悪霊も、この世で物体として活動をするためには、体というハードウェアにインストールされる必要があるということなのか。そして、ハードウェアが最終的に終わりになる(= 死ぬ)と、ソフトであるたましいは体を抜けて、一旦死後の世界に移行するということか。 

 その生まれ変わりの人の多い村で、死んだ人が覚えているあの世というのは、結構この世と似ているところのようだ。服も着ていたりする。毎日ご飯を食べるなどということはないみたいだが。また、地獄のような場所でもないし、ハスの花咲く極楽でもないらしい。死んだ親などにも会える。そして、何らかの仕組みで、突然別の人の赤ちゃん(特には牛のような動物)の体に送り込まれるという。送り込まれる先は選べない。元は男である人が、今度は女になったりもする。あの世で例のスープを飲まずに前世の記憶が残ると、女に生まれ直しても男の意識が残り、男を愛せなかったりもするらしい。もしかして、性の同一性障害の人は、前世で逆の性だった人かも知れない等と思ったりもする。私が思っただけのことだが。 

 ということで、森田氏の本は、私が前から描いている「肉体=ハード、たましい=ソフト」の構図に合致する新しい有力情報であると思った。 Nat

終戦65年 - 根深い心のへだたり その4

  前回「その3」で、敗戦国でありながら、むしろ自国の過去の為政者を恨み、対戦国を恨まないというのは、人類史上初めての事例ではないかということを書いた。もしそうであれば、日本人はそのことを大切にし、世界平和のためにユニークな役割を果す可能性があることを認識すべきであろう。

 日本には平和憲法がある。勿論、占領米軍が日本を去勢するために押し付けた憲法ではある。だからそれに反発し、作りなおしたいという意見もある。しかし結果的に、世界のなかで「国際紛争の解決手段としての戦争を永久に放棄する」と謳った憲法を擁する国は日本だけだ。そしてこれを支えているのが、その3で述べた通り「戦争はわが国の軍国主義の暴走が原因であり、二度とそうしたくない」という国民意識なのである。それは世界の中で、ある意味で超ナイーブであり、ある意味で超ユニークでもある。ということで、いまや、日本人は、よくも悪くも自国の憲法が超ナイーブでもあるが超ユニークでもあることを自覚するべきであろう。

  その後朝鮮戦争を契機とする極東情勢の変化を受け、日本にも自衛隊は出来たし、日米安保条約も出来、自衛隊は極東米軍の傘下に入って自衛をすることになっている。しかし、集団的自衛権はないとされるなど、憲法9条の「非戦主義」は貫かれている。ところが、近年には米国でも、そろそろ日本の自衛隊にもっと極東の防衛任務を負担させたいという思惑も出てきている一方、日本から憲法9条をなくすと日本が再軍備、核武装にまで走るという懸念もある。日本サイドでも、憲法9条の維持意見が大体3分の2あるが、そろそろ他の国同様の一人前の国防をとの意見もある。

  そこでだ、国民は若い人も含めて、みなそれぞれの意見を形成する必要がある。私はこの問題は、長い間いろいろ考え続けてきたが、結局、専守防衛にのみ徹するとの基本的な非戦主義は貫徹すべきという立場に落ち着いた。(2009913日の当ブログご参照。)ここで、今回言っておきたいことは次のことだ。日本が(純粋専守防衛以外の)戦力行使をしない「非戦主義」を貫くことの世界平和への意味は、「そういう国のあり方もある」という、世界への強いメッセージ効果だ。

  勿論、「非戦主義」といっても、実は米国の核の傘の下でのことだ。結局、米国の強大な戦力に依存して自分は戦わないで済むという、いわば「不純さ」ももった非戦主義だ。超純粋に「非戦主義」を貫こうとすると、結局、無防備・無抵抗、攻められたら、皆ただただ死ぬのみということになってしまう。本当は、そこまで徹底する非戦主義なら、世界へのメッセージ効果は絶大であろうと思う。しかし、そこまで極端なのは一国の政策とはなり得ない。だから、現実的には、米国の核の傘の下での限定的・条件的非戦主義になる。

  ここで大切なことは、日本人がまず、自分達は憲法で非戦主義をうたった、世界でも稀なる国家であることを改めて自覚することだ。その上で、海外に自衛隊派兵をしないことに関して、「憲法9条があるので、済みませんが派兵できません」というのではなく、「憲法9条で、永久に戦争を放棄したので、私たちには海外派兵ということがないのです。世界の平和維持のためには、派兵ではない別の形の貢献を十分します。」と、明確に言うことだ。本当は派兵してお付き合いしたいのに、憲法があるので、ゴメンなさい・・では、憲法を言い訳にしてサボろうとしているズルイ奴にしか聞こえない。自国の憲法に対する誇りも信念もない国に思われる。

  終戦65年。今改めて、日本は世界に類のない非戦主義の憲法を擁する国家であることを、若い人も含めて再認識すべきであろう。そして、世界に対して強いメッセージを発するのだ。と同時に、若い人はうんと世界に目を開き、世界に派兵以外の貢献をする、それに参加する気概をもって欲しい。 これが今回の私の当記事の結論的メッセージだ。 Nat

 

人気ブログランキングへ

終戦65年 - 根深い心のへだたり その3

 今回のテーマの「その1」「その2」で、日本人の意識と、中国・韓国、アメリカ人の意識の相違、そしてその相違の間の根深いへだたりについて書いてきた。 この「その3」では、そのようなそれぞれの相違がある中で、実は日本人の意識に、世界の中でも非常に特徴的なものがあること。そして、そこに世界の中でもユニークな、平和への道筋が秘められていることを述べて、今回の終戦65年ブログを終わりにしたい。

 こんにちの日本人の戦争に関する思いは、典型的には次のようなことではないか。

①「沖縄戦も悲惨であった。日本各地への大空襲も悲惨だった。特攻隊などに若い命を散らせたことも悲惨であった。そして、原爆は究極・極め付きの悲惨であった。戦後のシベリア抑留も悲惨であった。その一つひとつに、一人ひとりの失われた命や家族の深い悲しみがある。もう戦争は二度と起こってほしくない。これからの若い世代にそのことを伝え、二度とあの悲惨さを味わって欲しくない。」   

②「そんな悲惨な戦争を起こしたのは、日本が一時、軍国主義に走ったことが原因だ。当時日本が世界の中で追い込まれた状況を考えると、一部の日本の軍部首脳にすべての責任を負わせるのも酷だ。しかし多くの若い命まで巻き込んで、今からすると狂気のような戦争にすべての国民を追いやった日本の軍国主義は恐ろしい。」

③「今後は、二度と日本がそのような狂気の軍国主義に走らないようにしたい。そのためには、憲法改正も含めた様々な議論はあるが、日本が世界平和の中で果す役割があるはずだ。」

15日に放送されていた様々な番組も、基本的に上記のような、心情に基づいているものが多かった。

 さて、実はこのような日本人の心情は、世界の中で非常にユニークな、あるいは「超ナイーブ」、裏返すと「孤高」ですらある内容を持っていると思う。世界のどの国民・民族でも、自らの悲惨な戦争体験を「自国の上層部の暴走のゆえ」と、自省的に整理しているものはまずない。ドイツはなにやら大きな反省をしたようによく書かれているが、実はドイツは栄えあるドイツ国防軍のソ連などへの侵攻を反省したことはない。ただただ「狂気のヒットラー・ナチス」が国を過たせたと総括・反省しているだけである。いわばナチスを「とかげの尻尾切り」し、誇り高いドイツ民族のプライドは維持したのである。これに対し、前回書いたとおり、日本の右翼が「自虐的過ぎる」と批判するほど、日本人には「自分達の為政者が狂気に走り、韓国や中国大陸等を侵略、日本国民自身にも犠牲を強い、“皇国”のために、国内外の多くの人を不幸に追いやった」との、極めて「自己反省的」な総括がある。これは歴史的にも実にユニークである。通常、戦争に苦しんだ国は、自己否定・自己反省はしない。ただただ、敵陣や一部の軍部を非難し憎むだけである。そして機会あればリベンジ・・というのが通常である。ドイツは第一次世界大戦のリベンジで、第二次世界大戦を起こし、そしてナチスを悪者にして総括を終えた。つまり、理論的には「ドイツの第三次世界大戦でのリベンジ」は、まだありなのだ。

 これに対し、日本は違う。「一部の上層部の狂気」」と整理したところまではドイツと似ている。しかしドイツの場合、肝心のナチス軍部はみな私利私欲に満ち、降伏後逃げた。一方、日本の軍部は誰ひとり逃げず、みな東京裁判に従容として向かっていった。こういう日本人好みの潔さもあり、日本軍部の「罪」を日本国民みなが背負うという、世界でも類を見ない日本人の特異な心情が形成されたのである。日本人の心の中には、敵国に対して「広島などの原爆はちょっとやり過ぎではなかったか?」との思いはあっても、敵国英米や中国・韓国など相手国に対する怨念を抱える精神構造は殆どない。敗戦国で自国の過去の為政者を恨み、対戦国を恨まないというのは、これは人類初めてのことではないだろうか。この点、もっと強調されてもいいと思う。そして、ここから、日本の独自の平和路線の可能性が出てくる。それを次回、最後の「その4」で。      Nat

人気ブログランキングへ
記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

NAT

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ