♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2011年05月

東北復興資金 ― 政府がお金を印刷するのは本当に悪いのか?

 東北の復興を、消費税アップなどの増税なしでやろうという主張が結構ある。その具体的方法として出てくる一つが「政府がお札を刷る」ことだろう。しかし、これには直ぐ「それは禁じ手でしょう!」という反論が出る。今回、本当に禁じ手なのかどうかにつき、議論を整理してみたい。 

 よく政治家が言うのが「復興国債の日銀引き受け」であるが、その前に、もっと期待したいのは、政府自身が必要な金額の紙幣を発行することだろう。東北の復興や福島原発関係で政府が負担する金額の合計を仮に20兆円としようか。そのお金を、政府が紙幣を印刷して作り出すのである。今回は、あったものが津波等で吹っ飛んだのだから、それの復興にも「無から有を創る政府紙幣発行」、これが非常に適すると思う。しかし、この政府紙幣構想には、すぐ専門家みたいな人がいちゃもんをつける。私は専門家でないが、よくよく考えると専門家のいちゃもんは案外ピンとこない気がする。 

まず、政府紙幣発行は、結局、復興国債を出して、それを日銀に引き受けさせるのと同じという人がいる。更に、復興国債を普通に市場に発行し、市場に流通するようになった復興国債を日銀が買い取り吸収するのとも実質同じだから、今まで日銀でやっていることと結局余り変わらないという論もある。しかし、私はそういう見方にピンと来ない。国債の日銀引き受けは、もしその国債が無利子で永久債(永遠に返済しないでいい国債)であれば、政府紙幣と同じになる。しかし実際にはそうならないだろうから、結局、政府が返済せねばならない国債残高を増加させてしまう。市場に出してあとで日銀が吸収するのも同じ。結局、国の借金の相手が政府子会社の日銀であっても、これ以上増えすぎると懸念のある国債残高が大きく増えることには変わりない。国際的にも、「あれは東北復興の分増えただけ」といっても、結局、人の目につくのは膨れ上がった国債残高である。それこそ、日本の国債の信任の低下につながりかねない。その点、政府紙幣は国債残高を増やさない。政府として、誰にも返す必要のないお金だ。自分で印刷したお金だから。これほど分かりやすい話はない。 

次に、政府がお金を印刷したりすると、超インフレを惹き起こすという、いつも出てくる意見がある。これは、多くの場合その通りだ。しかし、今の日本はそもそも超デフレだ。需要に対して供給力が大きく余ってしまっている。その受給ギャップは40兆円くらいあると言われる。最近、東北地震でサプライチェーン・供給が制約されているといっても需給ギャップはまだまだ大きく残っている。東北復興に必要なお金を20兆円として、それをもし3年でやれば、一年には7兆円だ。一年に7兆円のお金を政府が印刷して使っても、まだ需給ギャップは大きく残る。少なくともマクロ的には。だからマクロ的にはインフレは起きない。デフレが緩和されて丁度いい位だろう。 
最後に、政府紙幣発行や、国債の日銀引き受けは、一度やると、クセになって際限なくやる、明治以来の過ちを繰り返すな!との意見も強い。しかし、そもそもどちらにしても制度的に簡単には出来ない。政府紙幣印刷なんてのは特別法制で初めて出来る。ところが、今回は1000年に一回の大地震・大津波、人類初の同時多発原発事故ではないか。これを例外に出来なくて、何を例外に出来るというのだろうか? 絶対今回だけということに出来る客観的条件が十分整っているではないか。だから、今回だけはお札を印刷すればいいのだ。 

 以上、「政府がお金を印刷すること」への、3つのよくある否定的意見につき、少なくとも私にはピンと来ないということを書いた。どうだろう? 私が良く理解してないだけであろうか? どう考えても、今回はお札を印刷して直ぐに東北復興、原発被害に取り組むべきと思う。その方が非常に分かりやすいでしょ?   Nat

進化の話しのまたまた続き その2

 428日に、このテーマのその1を書いた。池田清彦先生の進化論の考えは、私の発想に非常に近い。古くはベルグソン、そして日本の誇る人類学者であった今西錦司先生の主張におおいに影響された私の進化論イメージ。ネオ・ダーウィニズム学派の、DNAの突然変異と自然淘汰だけで説明する、単純馬鹿的な進化論は絶対に間違いとしか思えなかった私の進化論イメージ。それを大いにサポートするのが池田先生の論述だ。

 ネオ・ダーウィニズムでは、個別のDNAの分子が偶然の突然変異をして、身体の形質がちょっと変わるとして、偶々それが環境に適していると子孫が増えて、更に、またその方向に突然変異が子孫に累積すると、いつか別の種になると考える。進化の方向を決めるのは、偶然の突然変異ではなく、結果的な自然淘汰というわけだ。しかし、池田先生は言う。環境の大きな変化等の中で、個々の遺伝子の組み合わせで出来ている遺伝子システム全体が変わる。しかも、ある部分だけが変わるとは限らず、小恐竜が鳥になったように、羽根が生えるのと、骨が中空になるという「組み合わせ進化」が一気に同時にシステム内に起こるという。しかも、個々の個体の多くが一斉に変わる。今西先生が主張したことだ。つまり、生物はまず突然バーンと大きく進化するのだ。ネオ・ダーウィニズムのように微細な進化が長い間に偶然蓄積して次第に別の種になるのではない。一気に別の種が出来る。そして、進化した結果の形態が、もし環境に適応していれば、より発展するのは間違いない。しかし、環境には中立的な、例えば、単にある図柄のマークが羽根に出来るといった進化の場合でも、それが残る可能性があるということだ。しかし、その1にも書いたとおり、池田先生は、何故生物の遺伝子システムがある時、ある進化をするのかは未だ分からないという。 

 ここで、ややキリスト教原理主義者的な人で、科学とも調和も図ろうという人は、それを「Intelligent designだ。神様が生物をデザインして進化させている」というのだろう。そうやって簡単に「神様」で済まそうとするから、それへの反発を生じ、ネオ・ダーウィニズムの人たちのような逆の極端が生まれる。「神の手」が直接、生命を含めた物質に働くというのでは科学にならない。その通りだ。そこで、ネオ・ダーウィニズムの学者は、生命を分子レベルにまで切り刻んで、分子の動きで全て説明しようとする。それができれば、「神の手」は使わなくても、生命の説明が出来ると期待する。しかも不幸なことに、現代の学者の多くは非常に分野が狭く、電子顕微鏡レベルで遺伝子の分子レベルの研究する人は、生きた自然での生物を研究しない。化石上の実際の生物の進化の道筋で、ネオ・ダーウィニズムの理屈で説明できにくいものは敢えて突っ込んで調べたがらない。むしろ、ひどい場合は、ネオ・ダーウィニズムの理屈を数学的シミュレーションに持ち込み、偶然変化の集積でも何万年もかかれば、別の種にたどり着くなどという数学的計算までしてしまう。学者も万能ではないので、進化の数学モデルを始めてしまうと、それでもっともらしい論文を書かざるを得なくなる。数学モデルをしながら、実際のアフリカの森の中の生物の研究をするなんて人は滅多にいない。だから、進化論も狭い狭い偏った理論になる。池田先生は、そういう中で非常に幅広い視野で見ていると思う。それでも進化の根本原理が未だ分からないという。

ああ、早く、生物の進化の根本原理が知りたい。私が死ぬまでに・・・  Nat

 

自粛って何だったのか?

 震災直後に「自粛」が一気に広まった。テレビの商品宣伝の広告は消え、アホ馬鹿番組も消えた。そして花見も自粛したほうがいい、飲み会も旅行も自粛・・という具合だ。この日本人の自粛ムードも、震災1ヶ月経過したあたりから、そろそろ自粛疲れも生じ、また日本や日本経済を活性化するため「自粛はもう自粛」などとも言われるようになった。412日には文化庁長官がわざわざ、文化芸術活動に自粛が拡がっていることへの懸念の声明まで出した。連休前には待ちきれない消費者が一斉に自粛を解き、レジャー活動に復帰した。 

  ということで、「自粛」は大体終わった今、一体「自粛」って何だったのか?と振り返ってみたい。海外のニュースで、震災後の日本人が自粛していることに興味を持って報道している。英語のニュースで「自粛」をなんと表現しているかというと、面白いことに「jishukuと書いているのが結構ある。津波が英語でもtsunamiになったのと似ている。勿論、jishukuの意味として「collective self-restraints」との説明がつく。ここで目につくのが「collective」という修飾語だ。「self-restraints」では、ある個人が自分の考えや信念で自己抑制する意味にしかならない。そこに「collective」をつけないと説明にならない点に、日本人の自粛の本質が現れている。 

 つまり、日本人の自粛は、個々人の自発的な抑制ではないのだ。横を見回して、他人の目を気にして抑制する。集団からの有形無形の圧力で抑制させられるのだ。震災直後のライブの実行等に対して、脅迫的な書き込みなどが相次いだという。自粛ではなく、集団圧力での「他粛」ですらある。しかし日本人はそういう集団からの圧力で一斉に同じ行動をすることに、文化的に慣れている。だから、概ね強い反発も違和感もない。だから「自粛を求める」などという英語にしたら意味不明の表現にも変に思わない。まさに、その点が、海外から見たらちょっと変なのだ。だから、奇異(と若干の敬意)の眼差しで見られ、報道されたのである。 

もっとも自粛の最中にも、自粛への圧力に反発する意見等もあった。しかし、反発のつぶやきをしても、自分だけは自粛等しないといって突出行動を採るのは、日本人として勇気がいる。いい悪いは別にしても、それが日本文化である。 海外でも有名になった日本人のjishuku暫く、そんな言葉で日本が報道されなくても済む、平安な日本であってほしいものだ。     Nat

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