♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2012年06月

食品中の放射能 - どこまで気にする?

 昨年3月の福島原発事故から1年以上経つが、いまだに、福島周辺や東北の産物は敬遠されるようだ。事故から暫く、食品中の許容放射能量につき混乱していたが、今年の41日に政府から新基準が出て、基準問題は一応落ち着いた。新基準は、年間の被爆量を1ミリシーベルト以下に抑えられるように、食品1Kgあたりのセシウムを100ベクレル以内(乳幼児用は50ベクレル以内)に引き下げて定めたものだ。年間の1ミリシーベルトは、病院で一回のCT受けて被爆する6ミリシーベルトの6分の1だ。 

 世界の標準的な食品基準が1000ベクレルだから、日本のこの新基準は、福島事故で神経質になっている日本国民の心理を勘案して、かなり低い数字にしたものと理解される。しかも、新基準の発表後、スーパーなどでは更に自主的に50ベクレルを基準にして、仕入れ品を制限するのが標準になったので、我々がス-パーなどで食べ物を買っている限り、国際基準のまさに20分の1の非常に低い数字のものになっていると考えていいのではないかと思う。また、そもそも50ベクレル以下で20くらいにまでなると、放射能測定機器で検知できないレベルに近づく。 

それでは、このように50ベクレル以下の食品で国民として本当に安心になったかというとどうだろう? 先般、テレビ報道にあった話だが、とある小売店で、測定出来ないくらいの6ベクレルもの低い数字であることを確認したハンバーグを「放射性セシウム6ベクレル/Kg」として表示したところ、売れなかったらしい。これは、明らかにその小売店の表示の稚拙さである。バカ正直に表示するとしても、「このハンバーグは、放射性セシウム政府基準値である100ベクレル/Kgに比べて、6ベクレル/Kgとほぼゼロです。」くらいに言わないと意味が分からない。消費者はそもそも「完璧にゼロ!」を求めているのだろうから。 

 ということで、この「セシウム完璧ゼロ」を求めるべきかどうかに移るが、神経質に追及すると、西日本の産物だったりして、セシウム・ゼロ(10ベクレルとか以下で検知不能)の食物も見つかるだろう。 しかし、セシウムをゼロにして、どれだけ意味があるかの議論で必ず出てくるのが、カリウム40だ。カリウム40は自然界に広く存在する放射性物質で、通常の食品に、セシウムの放射能に換算して典型的には60ベクレル/Kgくらい入っている。我々は毎日1Kgくらいの食物を食べるので、毎日60ベクレルくらいは取り込んでいることになり、我々の体中に3000ベクレルくらいが蓄積している。カリウム40もセシウムも放射する放射線はベータ線(電子線)なので、体への影響は同じ。つまり、もともと我々の体はカリウム40からのベータ線を3000ベクレルくらい体内で受けていてもおかしくならないように出来ているのだ。とすると、ここで、同じベータ線を出すセシウムを、セシウム・ゼロ食品に拘って抑えこんだところで、我々の体の受けるベータ線の違いは誤差の範囲でほぼ全く違いはないことになる。また、たとえ、稀に検査漏れで150ベクレルくらいの野菜などを食べてしまったとしても、その同じ検査漏れの野菜をわざわざ毎日選んで、200日間くらい食べ続けないと、年間の被爆目途1ミリシーベルトにまで達さない。ということから、1ミリシーベルトの被爆をしないより被爆しようとするほうが難しいくらいだと思う。 

 以上の理由で、私自身は、食品中のセシウムのことは全く気にせずに暮らすことにしている。しかし、以上は理屈の世界の話だ。そもそも、我々には、セシウムもカリウム40も良く分からない物質だ。ベータ線も分からない。シーベルトとかベクレルも分からない。というように、放射能の話は特殊な世界の話だ。どんなに理屈で説明されても、どこか不安が残る。福島でドーンと爆発したのだから、何か大変恐ろしいものが世にはびこったという恐れが強く残る。しかも、放射能は目には見えない。影響も30年くらいして初めて出るとも言う。となると、世の母たちが、念のために、わが子の為にセシウム・ゼロ食品を探そうとすることは理解できる。理屈じゃない。わが子への「思い」の問題だろう。      Nat

消費税増税―やっぱり順序が違う!! 

 野田首相の執念の消費税増税法案が、いよいよ大詰めだ。民主党内部だけでなく、我々国民の中でも、「今、増税」か、小沢氏のように「改革が先」かで、意見が分かれ得る問題だ。私自身は、これまで何度もここに書いてきたように、後者の「改革が先」論者である。思うに意見が分かれるのは、何といっても、国家の財政の緊迫度に対する認識の違いからだろう。 

 財務省を筆頭とする「まったなし」派は、もっぱら公的債務残高が日本はGDPの2倍で、イタリアが1.3倍、あのギリシャですら1.7倍であるのに、それよりひどいという点を強調する。あるいは「国民一人あたり700万円の債務」とかで皆を脅かす。しかし、私もそうだが、「まだ多少は時間がある」派は「日本は全然違う」という点に着眼する。当ブログで何回か詳しく主張してきたとおり、スペインの国債はその4-5割を海外の資金に依存しているから危ういのだが、日本の国債は日本の国民の持っている金融資産で支えられているのだ。国が借金を返すと元本も金利も国民に戻るので、それを又国債に再充当してもらう形で国は返済資金を調達できる。また、国民の金融資産で日本の国債に回す以上に余っている部分(約200兆円)は外国資産に回っているので、計算上は、毎年30兆円の国債増加であればあと6~7年の時間的余裕があることになる。それ以降は海外からの借り入れになるので、通常の他国に似た「次の危険領域段階」に入る。だから、それまでには、毎年の基礎的財政収支を均衡に近く改善する手を打つ必要がある。勿論、国民の老齢化で余剰金融資産はだんだん細る傾向にあるので、実際には、もう少し早目に手を打つ必要があろうが。 

 また、政府保有の非金融資産200兆円弱も、いざとなるとバッファーになる。道路など売れないという人がいるが、証券化など含めてやりようはあろう。 

 更に、これはどうして皆もっと言わないのかと思うが、日本の国債は、円という自国通貨建てなので、原理的にデフォルトし得ないのに近い。スペインの国債はスペイン政府のコントロールの中にはないユーロで発行されているからこそリスクが懸念されているのだ。日本政府は国債のデフォルトするくらいなら、間違いなく、日銀券か政府兌換券を発行して、返済用の円資金を作り出して返済する。年間20兆円程度なら、絶対ハイパーインフレなんかにはならない。
 
 海外から見た日本はそうなのだ。だから、海外からは、日本の国債は安心して買われる。 

 ということで、結論としては、増税による財政収支均衡化は4-5年以内くらいにやればいいと私は考えている。一方、支出の構造改革は時間がかかる。破綻してきている国民年金制度に替わる新しい年金制度、高齢者にも応分の負担をしてもらう介護・健康保険制度や年金課税制度、薬漬け・検査漬けの悪しき医療の現状の改革等などだ。また、若い人の租税負担能力、保険や年金料負担能力が落ちているのは、根本的に昔の若者に比べて収入が減少してしまっているからだが、それは取りも直さず日本の企業の利益力が落ちているからだ。そこでビジネスの収益力を上げる国策が求められる。法人税の引き下げが一つ。また、ビジネスの収益力が低いのは企業プレーヤーの数が多すぎるからだ。その背景には日本の文化もあるが、何とか制度・仕組の改善でM&Aによる統合を大きく促進必要もある。国と地方の関係も然り。こういう改革は増税以上に政治の力と時間が必要なことだ。そのためにも「黒船」的な国民的危機感がないと進まない。 

 私が増税を先にしてはいけないと強調しているのは、ここに理由がある。財務省は増税先行を叫ぶが、増税で財政収支が改善すると、危機意識が遠のき、ただでさえ難しい上記のような構造改革はいよいよなされなくなるのは火の目を見るより明らかである。絶対に財務省に増税を食い逃げされるだけだ。構造改革には34年かかる。まず、野田首相の言うように、もし財政逼迫の危機感があるなら、増税先行ではなく、今こそ先に、苦しい構造改革に突き進むべきである。それが出来ても、なお、基礎財政収支に相当大きな赤字はなお残るだろう。その時こそ、「やむなし」で増税をする。消費税だけなく、資産税やタバコ税などを組み合わせた方法でだ。 

 このように、構造改革は3-4年の苦しい戦いになるが、増税はその気になれば1年でも出来る。1年で出来るから、財務省がまず今増税を先にして自分が楽になろうとしているのだが、それでは論理が逆。直ぐに出来るものは一番最後でいいのだ。前述のとおり、それを逆にすると、構造改革は絶対されない。それどころか、既に自民党の新マニフェストに盛り込まれたとおり、公共工事が大々的に復活するのが落ちだ。その結果、結局、日本もギリシャのような国になってしまう。私はそれを言っている。  Nat

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