♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2015年03月

Natのした聖書からのお話: 十字架のイエス

 今朝の教会の、9時からの早い方の礼拝(お父さん・お母さんや一般成人中心のグループ)で、時節にふさわしく、十字架のイエスと、その傍らの十字架の別の死刑囚の話(ルカによる福音書2332節以降)を私が担当した。以下のようなお話: 

『 【ただあなた一人のために】

イエスはついに十字架に付けられた。その時、弟子たちは、既にちりちりばらばらに逃げてしまっていた。では十字架の周囲に居た人たちはどういう人か。まず野次馬の民衆。そして、議員たちが「本当に救世主なら、自分を救ってみよ!」とイエスを嘲け笑う。ローマ兵も同じく、イエスをからかう。その時、イエスの左右に、重罪を犯して、はりつけになった二人の死刑囚がいた、そのうちの一人も、調子を合わせて「自分と我々二人を救ってみろ!」と嘲るのだ。遠くに隠れて見ていた弟子たちも「あの神の子イエス先生だから、ここから何か奇跡的な業を起こすのだろうか」とか思いつつ、見ていたに違いない。このように、そこにいた人は誰も、イエスが誰のために何をしているのか理解していなかった。イエスが人々の罪を代わりに担い、代わりに十字架について死に、3日目に罪も死も克服して復活し、決定的な永遠の救いをもたらす為に、苦しい十字架刑の役を今担っている、、、ということを、誰も理解していなかったのである。

 ところが、そこに一人だけ違う人がいた。それは、もう片方の死刑囚だ。彼は、最初のの死刑囚に言う。「お前は神を恐れないのか。我々は自分のやったことの刑罰を受けているのだが、この方は何も悪いことをしていない。」そしてイエスに言った「あなたが御国にいらっしゃる時に、私のことを思い出してください。」イエスはこれに答えた「あなたは、今日私と一緒に楽園にいる」と。この死刑囚は重罪を犯し、死に瀕して、恐らく神の罰をひどく恐れながら、もはや自分には何も出来ない絶望の中にあったのではないか。しかし、彼は“地獄で仏”のようなイエスに会うのだ。その場に居合わせた全ての人がイエスを嘲る中で、絶望の中にあった重罪人の彼だけが、イエスを “自分のためにこそ、今一緒に十字架に付いてくれている救い主”と認めたのである。しかし、彼は自分には“救ってください”という資格が全くないことを自覚もしていた。だから彼は「せめて・・あなたが御国にいらっしゃる時、私はそこには居ないでしょうが、そんな私のことを、少しでも思い出してくださいませんか」と言った。何も誇れない、罪を自覚した人の追い詰められた一言。それは、その死刑囚の、悲しくも、最もひたむきな「イエスに対する信仰告白」であったのである。イエスは、それに対して「あなたは今、救われた。あなたの信仰告白があなたを救った。あなたは今日、私と一緒にパラダイスに行く。」と救いの宣言をされたのである。十字架のイエス、復活に向かうイエスに、世界で最初に信仰告白したのは、この重罪を犯した死刑囚であった。そして、十字架のイエス、復活に向かうイエスに最初に許されたのもこの人だ。この死刑囚こそ、世界で最初のクリスチャンである。

 日本の私たち。回りの多くの人は、この話の多くの民衆のように、十字架のイエスに無関心である。その中で、私たちは、偶然の計らいで教会に触れることとなり、主イエスに心で出会った。私たちは、この死刑囚のようには、死の直前に追い詰められてはいない。しかし、皆、狭い汚い心、どうしようもない弱さを持ち、人生の終わりには、この死刑囚と似たような所に向かっていく存在かも知れない。そのような私たちには、今、イエスの十字架が私たちにとり何なのかを問われていると思う。イエスの十字架は、ひとえに私のため、いや、この死刑囚が感じた通り、私一人のため、そしてそれは、私の狭く汚い心と弱さを十字架に付けて主の死と共に滅ぼし、主の復活と共に、私たちも新しい人生に生まれ変わるようにし、復活の主と共に新しい歩みを始めさせるためであるとしたらどうだろう。「私を思い出してください」と言った死刑囚のように、私たちも「こんな私ですが、どうか私を振り返り、私の人生を新しいものに変え、そして一緒に歩んでください」とひたむきに信仰告白することに招かれているのである。

 来週のイースター。今、この中にも、そのような信仰告白をし、洗礼を受けて、主と共に生きようとする人がおられる。その方に続き、あなたも、あなたも、「主よ、あなたは私のために、いや私一人のために十字架について下さったのですね。私と共に歩んでください。」と、心から信仰告白する者となろうではありませんか。 』 

・・・・以上でした。    Nat

またまた、「意識」、「心」とは何か???

 このブログで何度も書いてきたが、私は「意識」「心」という人類最大の謎を一生かけて考えている人間だ。
  何?それ?と思うだろうが、朝起きて脳が活動再開すると、また視覚・聴覚などが働き出すのは分かる。しかし、昨日までの「私」という意識が、昨日からの連続性で、また再開するのが不思議だ。記憶で繋がっているとしても、「同じ私」という明確な感覚は、それだけで説明できるのか?恰も、ビデオを途中で止めて、また翌日、途中から見ているのと同様だ。「脳のオーナー」としての「私」があって、脳が再開したビデオ画像を「私」が見るという構図の方が分かりやすい。また、視覚・聴覚等と「意識」とは同じでない。車を運転していて、「意識」は明日の仕事の事などを集中して考えているが、運転操作は、無意識でも視覚をフルに使って行われている。また、今からラーメンを食べるか、カレーを食べるかを決める「私の意識」。これは単に、脳神経がぐるぐると反応して答えを出しているだけか?とすると、全く同じ状況ではロボットのように同じ答えを出すということか?実際には、脳を使って「自由意志」で判断し結論を出す「脳のオーナー」のような「私」を想定した方が分かりやすい。しかし、それを科学しようとすると大問題が発生する。

  問題は、「脳のオーナー」のような「私」はどこに居るか?である。脳とは別に、その「オーナー」である「私」がいるとすると、どうしても霊魂のような非物質的なものを想定する方向に行ってしまう。しかし、まだ科学は霊魂を捉えていない。

  そこで、科学者は、「私」は、脳の中に存在するのではないかと考え、脳の中で「私」、「意識」の機能をしていそうな特定の部分を探す。しかし、見つからない。つまり、「私」という意識を生んでいそうな部分だけを麻酔させ、視覚・聴覚は活動中という「ロボット状態」を作ろうとするが、それが出来ないのだ。脳は全体として働いているだけで、脳の中に「私」がいるとしても、脳全体の機能としての「私」ということになる。ならば、「私」はもはや「脳のオーナー」ではなく、脳そのものになってしまう。とすると、一回眠って、脳の機能を中断した翌朝、「同じ私」から再開するのが謎めいてくる。また、脳という物質が「私」の全てを決めるなら、「自由意志」と思えたものは幻想になる。「私」は高級なロボットかゾンビになってしまう。デカルトは「我思うゆえに我あり」と言ったが、「我思えども、我なし」になる。

 だから、やっぱり、脳とは別に「私」がいるのではないかという仮説になり、「私」は時に脳から離れるのか(幽体離脱)とか、あるいは死後体験などはあるのかという話に繋がる。しかし、その分野の科学的検証は進んでいない。だから、結局、何も分からない。困った。これが、私が一生かけて考えている謎なのだ。    Nat

●3月26日追記:


  NHK番組「人が死ぬとき、心はどうなる?」、最終の三回目。今晩、出張から急いで戻り、何とか見た。
 
 臨死体験、つまり、死ぬ瞬間、体から自分が浮き上がり、天井から自分を見て、その後、神のような光に会うという、死にかけて行き返った人の共通の体験。これを脳神経科学的に研究すると、死ぬ瞬間、脳の中には大量のエンドルフィン(快感ホルモン)が放出されることが分かる。それと同様の状況を、普通の状態の人間の脳に人工的に作り出すと、脳の働きにより、死ぬ瞬間でない普通の脳でも、天井から自分を見る、光りに会うというような神秘体験を感じることが可能と言う。番組の中に出てきた脳神経学者が言っていた。「人間の脳が、死に臨んで、神秘体験に参加する仕組みを持っていることは明らかだ。」と。
 
 以上から、次の事は相当の確度で言える。(1)人は、死ぬ時、神秘体験をすると思われる。(2)脳には、その神秘体験を支える仕組みが備わっている。(3)今の所、その神秘体験が、脳の仕組みからの「錯覚」的なものに過ぎないのか、それとも、脳と「魂のような意識」との共同作業による、未解明の現象なのかは、まだ分からない。
 
 思うに、死に関する科学的研究からは、これ以上、余り解明されることはないように思う。むしろ未解明の大分野は、赤ちゃん・幼児の、生前記憶だろう。いわゆる、生まれ変わり問題だ。科学が霊魂を研究する場合、1)死ぬ瞬間、2)死んでからの時、3)次に生まれる時の3つの時があるとして、2)は原理的に研究不能だ。1)は大人で実験しやすい。それで上記のような研究が進んできている。しかし、実験や聞き取りの難しい赤ちゃん・幼児の3)(生まれ変わり)こそが、科学が大きく未着手になっている大分野であろう。私の生きている間の進展を期待したい。シンドイ話を一緒に読んでくれてありがとう。    Nat
 

戦争責任:ドイツは謝罪してなくても、日本は・・

 ドイツのメルケル首相来日で「ドイツのように日本も戦争の反省するべき」と言われている。

 日本が戦争を深く反省すべき点はその通りだ。しかし「ドイツのように」というのは、完全に誤りだろう。なぜなら、ドイツの巧みな世界の世論への働きかけで、多くの人が「ドイツは戦争反省をした」という認識になっているが、実際にはドイツは戦争責任を反省したことは全くなく、「ナチスのユダヤ人大量虐殺の罪」を反省しているだけだからだ。

 具体的には: 

1.ニュルンベルグ裁判でも、裁かれたのは、専ら、ナチスのホロコースト等「人道に対する罪」であって、ドイツ国防軍のポーランド侵略等、ドイツ国家の対外戦争については責任を問われていない。(そして、ソ連などにおけるドイツ占領地の資産をソ連等が没収した以外に、戦後、ドイツとして戦勝国に賠償金も払っていないし、講和条約も交わしていない。ひたすらに、ナチスのせいにし、ナチス被害者のドイツ国民個人に補償金を払っただけである。一つにはドイツが東西に分かれたこともあるが、ドイツは戦争責任そのものは何も負わないで終わりにした。・・・それを今、ギリシャに賠償金払えと迫られている。)

2.そして、ドイツの為政者は、全て「ナチスの罪が全て、ドイツは悪くない」との基本的立場で言動してきたのが歴史的事実であろう。
(1)アデナウアー首相の名誉回復宣言「陸・海・空で名誉ある戦いを繰り広げたわが民族のすべての兵士の功績を承認します。」
(2)ワルシャワ・ゲットーでブラント首相がひざまづいたのは「ナチスのユダヤ人迫害」についての謝罪であり、彼はドイツのポーランド侵攻等を一切謝罪していない。
(3)ヴァイツゼッガー大統領の有名な「我々全員が過去を引き受けねば」発言も政治家の美しい発言だが、その後に(ナチスのせいで)「ドイツ国民が虐げられた」とまで言っているのである。

 このようなドイツの政治家のパーフォーマンスに惑わされてはいけない。「ドイツのように戦争責任を反省すべき」というのは明かに誤りであり、実際は逆だ。我々はむしろ、「ドイツはナチスのせいだけにしてしまったが、日本は国全体一丸となりあの戦争を遂行したのだから、日本全体で悔い改める必要がある」というべきなのだ。ドイツがどういう政治パーフォマンスをしようが、それには関係なく、日本が中国等で1千万人以上の人を死に追いやったのは、神に対する大きな罪なのだから。 Nat

●付記: 
ついでに補足すると、ナチスの幹部は、皆、敗戦と共に逃げた。ドイツ国民からすると「ズルく悪い奴ら」にしやすい。ところが、日本の東条英喜以下の軍部首脳は逃げも隠れもしなかった。米軍の方針で日本国家・国民には賠償責任を負わせず、全てを軍部首脳(A級戦犯)に負わせることとなっても、従容として死刑判決を受けて死んで行った。軍部首脳も人間ゆえ、日本国家の為もあれば、軍部の歪んだ意地もあったから、「日本国民の”代表”で死刑になった」とばかりは言い切れない。しかし、日本人の心情の中に、ドイツがナチスだけを悪者にしたようには、A級戦犯の軍部首脳にだけ責任負わせきれないものがあるのも事実だ。安倍首相などの自民党右翼が、どうしてもA級戦犯を悪魔化し切れないのは、ここにその淵源がある。だから、この問題は難しいのだ。 Nat

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