世界人口70億人中のキリスト教は23億人で3割、イスラムが16億人2割強。そして最大のキリスト教国であるアメリカでは今でも約7割がキリスト教である。

 一方、日本人は宗教を聞かれると、約7割が「無宗教」に印をつける。仏教につける人も3分の1位はいる。残りの数%が「他宗教」で、キリスト教は約1%に過ぎない。アジアの中で欧米の植民地にならなかったタイの場合もキリスト教は1%弱。世界の中で、日本とタイは極端にキリスト教比率の少ない国である。しかも、日本にキリスト教が伝来したのは16世紀からだから、最近まで来なかったイスラム教が日本で流行らないのとは訳が違って、ホンモノの「超不振」と言えよう。また明治以来、欧米文化の取り入れ気運となり、学校もミッション系は多いし、結婚式はキリスト教式などと、文化的には一部定着してはいるが、信仰としては極端にマイナーである。

 その理由は何か? 私の考えを書いておきたい。

【1】まず、日本人の7割が「無宗教」と印をつけ、これは世界的には驚かれる。外国では何かの宗教であるのが普通で、「無宗教」というと、積極的無神論かと思われるからだ。しかし実際には日本人で「無神論」は少なく、7割の無宗教者も、多くは正月に、あるいは受験などの前には神社仏閣には詣る。また仏壇を持っていたり、親族の墓も仏式で管理していたりもする。「死んだおばあちゃんが見守ってくれている」等と、中国由来の「祖先教」的な面もある。しかし、どこかの宗教組織に属しているかという意味では「無宗教」である。その意味では日本は、北朝鮮の7割と並んで、世界で一番の「無宗教国」でもある。

つまり、日本の長い歴史の中で、多神教的かつ神仏混交のオープンかつマイルドな宗教マインドが醸成された中で、特定の(特に一神教的な)宗教組織・教理に“属する”センスが希薄なのである。尤も、徳川の時代に、統治の手段として民は皆どこかのお寺に属するのはあったし地方では檀家制度も残っているが、それは本質的には統治の問題であり、宗教組織への自発的所属とは別問題であろう。斯くして日本は世界最大の「宗教無所属」の国なのである。

【2】しかし、そういう中でも、個々人が宗教的な思いに惹かれ、あるいは霊性に目覚めて宗教組織・運動に属そうという向きも3割くらいはいるわけである。しかし、それはキリスト教ではない。理由が三つあると思う。

(1)法華経の圧倒的な吸引力: 日本の最大の仏教宗派は浄土真宗(700万人)だが浄土真宗は、法華経のような強烈な特定のお経を持っていない。念仏を唱えるのが主だからだ。これに対し、法華経を奉ずる日蓮宗は300万人だが、法華経をベースとする近代宗教組織としては、圧倒的に創価学会(800万人)、そして、立正佼成会(280万人)、顕正会(170万人)、霊友会(140万人)と、合計で1400万人近くもいる。法華経はそれ自体が「摩訶不思議な霊的パワー」を持つお経とされる。それに連なることで、霊的な現象も多発すると信じられる。つまり、霊的な信仰を求める場合、日本では法華経が突出的に強いのである。そして創価学会を筆頭に、家族単位で宣教する。そして各家で大事に守ってきている仏壇も、創価学会の型はあるが仏壇としては維持出来る。伝統仏教のお墓も特に排除されないようだ。斯くして日本の仏教の文化をベースに、法華経系宗教は、一般的な神社仏閣詣り以上の何か霊的な救いを求める人の心にミートし、日本の家族に浸透してきたのである。

これに対し、キリスト教は、ミッション系学校で特に個々人への感化を残してきたし、教会学校に子どもを惹きつけ、これまた個々人に一定の影響を及ぼしてきたが、先祖代々の仏壇やお墓を守る日本の「家」にはなかなか入り込めない、外来宗教に留まってきている。

この為、若い頃、ミッションスクールや教会学校で触れたというキリスト教シンパは結構いるが、クリスチャンにはならないのである。

(2)明治以降のキリスト教の知性主義: 明治以降、キリスト教は鹿鳴館を筆頭とする「倣うべき欧米先進文化」の一部であったし、戦後は古い日本を脱する舶来アメリカ文化の一部であった。そこで、英語兼聖書教室などもあった通り、「先進文化・教養」的な導入のされ方となり、かつ、教える米英の教師も専らインテリであった。そこで、明治の頃の一部を除き、クリスチャンになる人もインテリ(かつ、悪くいうと西洋かぶれ)という傾向が強かった。いきおい、その信じる内容も知的なバイアスがあり、法華経の投げかけるような「霊的パワー」の要素は乏しいのが、日本のキリスト教なのである。

 アメリカのプロテスタントの一番勢いのあるのが、Evangelists(福音主義)(トランプ大統領の支持層と重なる)であるが、これはBorn again(生まれかわり)の霊的経験、集団活動での霊的高まり等を重視する。この手のキリスト教は日本ではオカルト的とされ、殆ど流行らない。そして霊的なものを求める人は、専ら法華経に流れるのである。

(3)イエス・キリストに現れた神: 3つ目は、キリスト教の核心が躓きになるという点。どの宗教も、神という「目に見えず何処にいるかいないか全く不可知な存在」に想いを馳せる難しさがある。まず仏教だが、ゴータマ・ブッダ自身は、別に神を想定してはおらず、個々人が悟りを開き輪廻転生の苦しみから解脱することを説いたのだが、死後、次第に「釈迦」という「神」に変化していく。しかしイメージが難しいから、結局、仏像化した。イスラムは、神と直接交流が難しいので、モハメッドのような預言者が仲介することになる。これに対して、キリスト教の場合、イエス・キリストは仲介者ではなく、歴史上生きていた生身の人間イエスに、直接神が臨み十字架・復活の業を示した、つまり、ブッダのごとく後の世に次第に神格化したというのではなく、最初から「イエスこそ神であった」あるいは「イエスの十字架・復活にこそ神が具体的に決定的に顕現した」と信じられたのである。分かりにくい「神」が、「人」そのものとして顕現した分、強烈ではあるが、「神なのか人なのか分からない」不可思議さがあり、だからこそ、後の世でそれに関連「三位一体」の神学論争が展開される。日本人にとり一神教的な絶対神は元々馴染みが少ない。自然のどこにも満ち満ちる八百万の神、「死んだおばあゃんの魂も神さま」、そういう「神」の文化にあって、絶対的な一神が、しかも「人」となり給うたというのは、信じられれば強烈であるが、日本人の心情的にはなかなか難しい面があるのだ。

 このような理由で、キリスト教は日本ではマイナーである。しかし、上記の通り、「人間イエスに顕現した神」という、もし信じられれば強烈な力となる信仰を持って人生を送ることにした私としては、それが日本で、マイナーで終わっても仕方がないなどとは全く思っていない。

 では、「マイナー」を少しでも脱する鍵はどこにあるか?

●【1】皆の教会への印象:「キリスト教の教会は、極くマイナーな一部のマニアックなクリスチャンだけが集まり、礼拝でキリストを拝み、聖書を読んで、“クリスチャンらしい生き方”を探求している場所であろうが、自分らには関係ない。」--これが、悪循環の末、日本で教会が得た一般的イメージであろう。この悪循環を打破する必要がある。その為には、「教会って、案外、いいかも・・」というように、印象を改めてもらうための機会・場を増やすことだ。「日曜の礼拝に来ませんか?」は、教会が常に看板で掲げていることだが、「敷居の高そうな礼拝」「クリスチャンだけの聖書集会であろう礼拝」には行く気がしないというのだから、その看板だけでは悪循環が続くだけである。礼拝以外で、かつ単なる客寄せ興行でない、教会らしいものを持った場を、各教会が工夫していく必要がある。私の教会の場合、例として(まだ時々だが)金曜の夜に歌を中心とした特別の集まり(「えだフライデーナイト」)を行っている。歌はゴスペル・讃美歌に限らず、ポップス、皆で歌う懐かしの歌まである。しかし、全体として、キリストの“香り”を伝える暖かい集会として企画している。そこから礼拝の仲間になって行く人もいる。

●【2】 もう一つは、「霊的なこと」から「オカルト的」として逃げ過ぎないことだ。この点、昔の人類の方が下手に「科学」を過信していなかった分、素直に「霊的なこと」をも想定出出来ていた。しかし、現代の人類の相当部分の人は、なまじ少し「科学」を知っていると思う余り、「雷は電気現象であり、昔の人の思ったような神の怒りの業ではない」「同様に、物質の原理を超えた超常的な出来事は現代科学の時代にはあり得ない」と単純に断じてしまいがちだ。しかし、ここに何度も書いている通り「この世は我々の知る物質だけで出来ている」、「人間の命もNDAと脳神経で支えられたものに過ぎず、肉体・脳の死と共に意識も消える」といったような認識は、最先端の科学的には、それだけでは説明にならないことが分かってきているのだ。しかし、人類にとり、物質を超えた次元についての認識は極く少ししか進んでいない。せいぜい最先端の量子理論がその端緒を形成しているくらいだ。

斯かる中で、キリスト教は、法華経の示す摩訶不思議な世界の可能性につき、如何なる立場をとるべきであろうか。アメリカの福音主義派の中でも原理主義と言われる人たちは、聖書を完全に字句通り信じ、むしろ科学・進化論などを否定、現実の世で信仰により何でも起こり得ると信じる極端な立場である。一方、その反対の極端が、日本のインテリ層にもいる「聖書の奇跡も神話」「キリストの復活もクリスチャンの心の中で起こった想い」としてしまう考えである。実は遠藤周作さんはほぼそれであるが、そういう人たちの考え方は、『この世での霊的な現象は科学的にあり得ないだろうが、それでも、キリストの復活や奇跡を心の中で強く想うことで、人は変わっていく、それが結果的に、目に見えない「神からの力」である』とするものである。しかし、新約聖書の使徒言行録に記録された弟子たちの経験では、「心のありよう」以上に、強い「神からの霊の働きかけ」を体験しており、弟子たちにも「奇跡」は起きたことが書かれている。2000年前のことだから、今さら、どこまでが「脚色」であるかの立証のしようがない。しかし、迫害の中にあっても、自分たちの感じた「強い霊の力」を後世の人に必死に書き伝えようとした、そういう人たちがいたという事実は残ると思う。

 ということから、私は、アメリカの原理主義の人たちのように科学・進化論まで否定する極端である必要はないが、日本のインテリのように「心のありよう」だけに矮小化してしまうのも違うと思う。この世への神の力の働きかけの本質については、あるにしろ、ないにしろ、所詮、人類の物質科学の現状では何も分からないものである。従って、あとは信仰の問題として、「神の御業・霊の働き」は「人間の思う通りでもないし、図りも知れない形ではあるが、起こるべき時には起こり得る」と信じる生き方があると思っている。

 だから、教会の暦で聖霊降臨日といって、キリストの昇天後、弟子たちに約束された神の霊の力が降り注いだ日についても、日本では、その話はオカルト的として正面から言わずに済ませている人もいると思うが、私は自分の担当する子ども中心の教会部門で、「弟子たちを強く大きく変えるような、特別な神からの霊の力が注がれた」として、そのまま我々大人自身が強く信じて語ることにしている。

キリスト教も宗教であるからには、霊的なものを避け、全てを「心のありよう」に還元してしまうのではキリスト教ではなくなる。それでは強烈なパワーある法華経に全くかなわないまま、「一部のインテリの心のあり方」というだけの宗教になってしまうのであり、せいぜい1%以下の日本人の心しか捉えられないままで終わるのである。

●【3】 最後に、躓きにもなる「イエスキリストという人間にこそ神がなまなましく顕現した」ことについては、そのことこそが、他の宗教にない、キリスト教の決定的・核心的なことであり、法華経系宗教にはない圧倒的なことなのである。だから、これはむしろ大の大人である自分がそれを信じ切って生きていることを、 臆せずに堂々と語るべきであろう。それでこそ、法華経パワーに負けない強い力を持てると信じる次第。

  長くなったが、以上が、「なぜ日本ではキリスト教が流行らないのか?」「そして、それを変える鍵は何か?」に対する私の考えである。  (その(2)へ続く。)    Nat

  
追記(37日)

この記事を閲覧して下さる方が多いので、ついでに、以下、追記します。

.韓国では人口の3割程度ものキリスト教の人がいる。同じアジア極東の地域で、なぜこうも違うのか? 韓国は戦後、米国支配もあってキリスト教が増えたが、その同じ時期に日本では法華経系宗教が増えたのである。日本のキリスト教は、上に書いたとおり、インテリ系の「心のあり方」宗教の嫌いがあるが、韓国で流行っているキリスト教は霊的な高ぶり重視で、現生ご利益にも繋がる霊的な力への信仰の要素もあり、日本で法華経系宗教が人を惹きつけたことの丁度韓国版であると理解している。

.他にネットで見ていると、日本でキリスト教が流行らない理由で以下のことを書いているのもあるが、ちょっと違うと思う。

(1)江戸時代のキリスト教禁止以来の「外来邪教」感があるから?: 明治以降は、「邪教」感は一気に後退し、むしろ、舶来文化としてカッコいい感じも出てきた筈。しかし、本当の「信仰」にまで高まらない理由は、私が上記に書いたこと。

(2)キリスト教は他宗教に不寛容で厳しく排斥するが、その点が、神仏混交で寛容な日本人の心に合わないから?: 日本の教会、クリスチャンは、他宗教排斥型は少なく、さすが日本人だからむしろ寛容。むしろ、クリスチャンの人に「偽善」を感じる人の方が多かろう。それは、そう感じる人がキリスト教を理解していない場合と、そのクリスチャンがホンモノでなくて他人批判気質の狭量な人間である場合と、どちらかであろう。

(3)「善人は極楽、悪人は地獄」という日本人の伝統的考えに、キリスト教の「信じれば許される」が馴染まないから流行らない?: 日本最大の仏教宗派である浄土真宗が殆ど同じ信仰であり、この説は全く当たらないと思う。

                                  以上