本年4月に、標記のテーマで、その(1)~(3)を、ここに書いた。(リンクは以下。)

http://iamnat.dreamlog.jp/archives/52036984.html

 要約して言うと、現代日本で圧倒的に信者を伸ばしている法華経系新宗教(創価学会、立正佼成会、顕正会、霊友会)が霊的なパワーにも踏み込みつつ、かつ日本の「家」に入り込んで教勢を増やしてきたのに対し、イ)戦後のキリスト教は知的に偏してしまったこと、ロ)「家」とは別個に日曜の教会という敷居の高いように感じられる活動を中心としつつ、結果的にはそこに閉じこもった嫌いがあること、ハ)そして、法華経系の「イメージ神様」である観音様と違い、歴史上の存在でもある実にリアルな「人間の神」であるイエス・キリストという最大のポイントを、現代人に効果的に活かしきれていないことが、前回までの私の意見だ。 

 この最後のハ)に関連。「なぜキリスト教が流行らないのか」の追記を、その(4)としてここに書かせて頂く。それは、他の人も言っていることだが、「罪の意識を一旦植え付けて、その上でそれを消す」ということを、必要以上にやろうとする点である。 

◍ キリスト教は、その母体であるユダヤ教の聖典でもある旧約聖書の最初にあるのだが、アダムとエバが禁断の木の実を食べてしまうという罪を犯したことが、この世での人間存在の原点であるという、いわゆる「原罪」論に基づいている。つまり、人間は生まれてきた時から、そのままでは、神を裏切り、神から離れて自分勝手に生きようとしてしまい兼ねない罪深い存在だが、だからこそ、そこに救いの手を差し伸べてくださる神の愛に目覚め、新しく生まれ変わって生きる人生に導かれましょうという話だ。しかし、ルース・ベネディクトの主張のように、欧米人は、「神の前にはみな罪人」と思える伝統があるかも知れないが、日本人は「人に悪く思われる」ことを嫌う「恥の文化」であり、そもそも「他人の目から」ではない「神の目から見た罪」という概念がない。むしろ、本来ピュアな我々のたましいが、悪霊・死霊で、外から「穢れる」のを嫌い、神社等で浄めを求めることはあっても、最初から自分が「穢れている」等という発想はあり得ないのだ。 

◍ 従って、そこに無理に、「あなたも罪びと」と説いて見ても、はなから違和感があるのみで、次の話に進む前に立ち去られてしまうのである。しかも、無理に「罪人」であると教えても、その上で「しかし、そんな貴方も神の愛で許されます」というのでは、まるでマッチポンプみたいな印象すらする。 

◍ 私は、日本人に対しては、無理に「あなたは罪びと」と「教えよう」とし過ぎることはないと思っている。新約聖書も、ユダヤ教の原罪の流れを汲みながらも、全く新しい息吹が吹き込まれているのだ。生まれつき目の見えない人がいた。弟子たちがイエスに尋ねた。「この人が、生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯したからか、両親が罪を犯したからでしょうか?」と。イエスは驚くべき答えをしている。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」といって、その人の目を開けたのである。勿論、ユダヤの社会の中で、その目の見えない人は、生まれてからずっと「罰当たり者」と言われ続けてきたことの痛みをよくよくご存じのイエスだから、もはや、改めて「あなたは罪びと、でも今許される」とは言わなかったのだ。むしろ、その人のこれまでの辛い人生の重荷をそのまま受けとめ、「そのままの貴方が、今、神の奇跡の愛の業に与ろうとしているのだ!」と宣言されたのである。 

◍ 私は、ある意味で、日本文化の中の日本人に対しても、これでいいと思っている。皆、大なり小なり、自分が狭い心の持ち主であり、神に褒められる存在でないことは分かっている。しかし、そのような自分の「罪」を何とかして神に許されたいと思っている日本人は少ないだろう。それより、今の人生・生活の重荷、閉塞感等に苛まれているのである。それが自分の「罪」の罰かどうか分からないが、兎に角、何かにすがって生きたい思いはある。ここで、法華経系宗教の場合は観音様をお薦めするのだろうが、キリスト教会は、「イエス・キリストこそが、あなたの神さまとして、そのままのあなたを、そのままで受け入れ愛し、そして恵みの人生に導いて下さるのです」とシンプルに語り掛ければいいと思う。 何も、そこで「あなたはそもそも罪深い存在」という「原罪」を強調することはない。

◍ しかし、キリスト教は、原罪に加えてそれに関連するもう一つ難しい話がある。イエス・キリストは、我々の「罪」を代わりに背負い、犠牲となり十字架につき、我らの罪を贖い、そして復活により、罪の永遠の赦しを証ししたという、「十字架の贖罪」理解である。勿論、これは、その当時の初代クリスチャンが、伝統的なユダヤの「神への贖いの生贄」文化をベースに、結局はそういう風に理解するようになり、そう聖書に書いたことだから、それはそれで、信仰に生きる中では、共有すべき非常に重要な点ではある。しかし、私が教会で小さな子たちに話する時には、「イエスの贖罪の十字架」を語るよりも、聖書の福音書に書かれてあるとおりの「事実」で語ることのほうが多い。「イエスさまはあれだけ優しかったのに、皆に虐められて十字架で殺されました。だけど、神さまの力で復活されました。そんなイエス様こそ、皆の神さまなんですよ。」って。大人にも、殆ど、まずはこれでいいと思う。私たちの信仰は、とどのつまりは、「イエス・キリストこそは私の神さま。そのままの私を愛して、人生を共に歩んで下さる。」という点に尽きるのだから。 

 ということで、キリスト教が、無理に教条主義的に、日本人に「原罪」を押し付け、「キリストの十字架の贖罪神学」を説き、それを信じて喜びましょうという時、むしろ聞く人を遠ざけてしまい兼ねないのである。私は「イエスは私の罪の為に十字架について下さった」とちゃんと信じているし、キリストを信じて生きようかと思って下さる方には、そのことも伝えたい。しかし、そのことを最初から一方的に教条的に押し付けるのではなく、先ずは、もっとシンプルに「信じて生きる喜び」を語ることから始めたいと思う次第なのである。  Nat