♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

信じる人、信じない人 その2

まず「信じない人」に口火を切ってもらおう。

信じない人ダメ曰く:
『昔の人は、雷や地震などが神の業と思ったかもしれないけれど、今やそれの仕組みは全部科学的に解明されてしまったよ。神や霊があると思うのは素敵だろうが、もうその証拠としての雷や地震は証拠でなくなった。この世のどこに神の証拠がある?残念ながら、結局、物しかないよ。物のどこを裏返しても神などいない。また霊は、人間が死んだ後も残るものとしてもし本当にあればいいが、肉体の脳が死んだあと、ふわふわと漂うような霊がどうやって存在し得るの? 霊って物質? 物質なら、なぜ補足されないの? 物質でないとすると、物質でないものが、どうやって意識を持つの? そんなことは科学的にあり得ない。人間の、はかない願望だよ。』

信じる人で、ちょっと“科学的な人”まる曰く:
『確かに、科学を知った現代の我々にとって、雷も人知を超えたものじゃなく、蛍光灯と同じく電気の作用と理解しているよ。それでも、雷がどこに落ちるか、蛍光灯がいつ切れるか、科学は「“偶然”そこに落ちた」、「“偶然”今切れた」としか言えないでしょ。“偶然”を支配する“何か”があるかどうかは、科学を超えた人間の想いの世界だと思う。また、霊は、確かに生きている間は、意識が脳神経の働きによって支えられているのはその通りだけど、死んで脳が機能停止した後に、意識がまた別の形に移るかどうかについては、脳神経を幾ら分析しても全く分からないよ。別次元の話だから。』

信じない人ダメ  『何?別次元って。どうして、そういう風に物質の向こうに何か知らないものがある、死んだ後に何か知らない世界があるって思うの? 何を根拠に?』

信じる人 まる 『人類は、昔から、直感というか、第六感で、そういう世界のあることを感じてきたと思うんだよ。そして、中には特別に霊感の鋭い人がいて、そういう世界に通じて、普通の人に対する手引きをしてきた。そう人たちが人類の歴史上の色々な文化・文明・宗教に多く登場していると思う。』

信じない人ダメ 『現代でも超能力とか言われる人は、調べてみたら、結構イカサマだったりしたじゃない。』

信じる人まる 『イカサマもいれば、ホンモノもいるんじゃない。 君は、自分の親とかが死んだら、もうたましいも何もなくなり永遠に消滅したと思っているの?』

信じない人ダメ 『だから言った通りさあ、僕だって死んだ人のたましいが消滅しないでどこかにいればいいと思うよ。でも、そういう人間の願いが、あの世とか、たましいというような、空想の世界を生んだんじゃない。科学的に把握できる物質の世界の向こうに、知らない世界があるってのは、夢としてはいいけど、残念ながら夢だよ。現実には物質の世界でしかないよ。でもそういう、はかない命だからこそ、生きている間だけの命を大切に生きるのさ。』

信じる人まる 『この世は、あの世で天国に行くための準備期間とかいった教えは、この世に苦しい奴隷なんかが多かった時代には、慰めでそういうこと言ったかもしれないけど、それは多分違うよ。次の世があっても、今の命が大切なのは君と同じだよ。でも、今のこの命が、はかなく消滅するだけのものじゃなくて、根っこで永遠のものと繋がっていると信じて生きるのと、そうじゃないとのじゃ、だいぶ違ってくるよ。』

信じない人ダメ 『どうも、そういう「次の世」とか、「永遠のもの」とか、文学的、少女趣味的で、僕はいやだな。』

このように、こういう議論は、もし上記のように冷静に出来ても、結構永遠の平行線で、差は埋まらないと思われる。この差は何のなのか? それを次回に。Nat

信じる人、信じない人 その1

笑顔 世の中の人を二種類に分けるやり方は色々ある。男と女。いい人と悪い人。好きなタイプの人と嫌いなタイプの人。金持ちと貧乏人。右翼と左翼、等など。しかし、私からすると、もう一つある。それは神的なものや霊的なものを信じる人と信じない人だ。

メモ 日本人へのアンケートで「あなたは宗教を信じていますか?」と聞くと3分の2位の人が「いいえ」と答える。しかし、「死んだおばあちゃんが、今も自分を見守ってくれている」とか、「神的なもの、霊的なものがどこかにあるような気がする」という意識まで含めると、実に日本人の8割がそちらの部類になるようだ。つまり、「特定の宗教組織に属しているという状態は嫌だ」、でも「何か目に見える物質を越えるものがあるように思う」という人は結構多いということだ。そこで割合は分からないが、日本人の一種類は「神的・霊的なものはある」派、もう一種類は「それは幻想、物質しかない」派だと考えよう。

OK 思うに、「何かある」派と、「それはない」派の境界線近くに結構大勢の人がいる。その人たちは、多分、境界線の左右を揺れ動く人か、そもそも、そのどちらも全く考えない人だ。私自身の経験でも、夜に一杯飲みながらそういう話になると、案外境界線の近くの人が多く、確信を持ってどちらかを主張する人はなかなかいない。しかし、中には多分、しっかりどちらかの確信を持っている人も、少なからずおられる筈だ。

笑い 私が関心があるのは、そのような確信を持った「神・霊派」と「物質派」が冷静に話し合ったらどういうことになるかだ。通常、そのような人たちは、冷静には語り合えない。相手が何故そのように“間違ったこと”を確信しているか、お互いに理解できないからだ。
そして往々にしてムキになり、感情的になる。しかし、そもそもこの話は、理屈や証拠で立証されるテーマではないので、論破タイプの議論には適しない。むしろ、お互いに相手の立場を深く理解するための対話が出来れば、それは大変意味があるのではないか。そこで、今回は、この紙面上で、模擬的にお互いの思いを対話させることを試みてみたい。にっこり  Nat

                         

ラーメンはなぜうまい?

ラーメン 私はとにかくラーメンが好きだ。と言うと、良く「どこかお勧めのお店ありますか?」と皆に聞かれるが、そういうものは全くない。別にマニアックにラーメン店を調べているわけではない。どこのラーメン屋でも、そこそこ美味しいと思う。とにかくラーメンというものが好きなだけだ。そこで、今回は、なぜラーメンというものが、かくも美味しいのか?或いは、少なくとも、我々日本人は何故ラーメンを特に美味しいと思うのか?この点につき、多分全く偏った理解を述べたい。違う点があれば、ぜひコメントで教えてほしい。

ラーメン ラーメンは「中華そば」とも言われる。そこで、まず中国の麺料理を考えてみる。みな御存知の通り、イタリアのスパゲッティ等の麺、日本のそば・うどん、全て源流は中国の麺だ。基本的には小麦粉を麺状にしたもので今や世界中にある。本家の中国の麺料理でも、いわゆる焼そば的なものもあるが、ラーメンを考える上で重要なのは、汁そば等の「茹で麺」形態だろう。中国の「茹で麺」の食べ方で一番庶民的なのは、多分茹でた麺に若干の青菜と具を載せて味噌をまぶしてぐちゃぐちゃと混ぜて食べるものではないか。これは、日本のラーメンとは大分違う。日本でも坦坦麺とか言って、辛子味噌味のひき肉をまぶすのがあるが、あれはラーメンとは違う。

ラーメン しかし中国でもラーメンに近いスープ麺は色々ある。中国では、鶏、豚、貝柱、干しエビ辺りからダシを取り、塩味を加えて、日本で言うタン麺の塩味スープに近いクリアなスープを作るのが基本だろう。これが日本のそば、うどん、そしてラーメンの原型だ。何時の時代か良くは調べていないが、恐らく江戸時代に、スープ麺という概念が日本に伝わった。日本では、そば・うどんという形でこれを発展させる。

ラーメン 本家の中国のスープ麺と比べて、そば・うどんの特徴は、まず日本人は麺の食感にこだわったことだろう。中国のスープ麺は、庶民料理の場合でも比較的「具」も多く、その分、麺の役割は相対的になる。だから中国の麺は、ぱさぱさ・ぼろぼろ麺だ。一方、日本では、それこそ、ご飯に梅干を載せて食べる民族だから、麺も、とにかく麺そのものを中心に食べる文化を育んだ。具の少ない分、「すうどん」・「かけそば」等で麺の食感にこだわったのである。これがラーメンにもつながっており、日本のラーメンは、つるつるとした滑らかな食感を厳しく追求している。これが、そば、うどんで鍛えた日本の「麺道」の延長線にある「ラーメンの特徴その1」である。

ラーメン 次にスープ。先に述べた通り、本家中国のスープは、鶏、豚、貝柱、干しエビ辺りからダシを取る。一方、日本のそば・うどんは、昆布、鰹節、煮干、干ししいたけを中心にしたダシで勝負した。日本で手に入りやすいダシの元に頼ったのである。西洋においては、そもそもダシという概念が乏しい中、日本では中国のダシという素晴らしい考えをを受け継ぎながらも、日本的な素材で日本のダシというものを発展させた。この日本のダシに、醤油という、これまた日本人のベイシックになった塩味系の調味料を加えたのが、日本のそば・うどんの汁だ。ラーメンの場合は、このそば・うどんの伝統と、中国のダシの素(鶏、豚、貝柱、干しエビ)の発想を柔軟に併せて、世の中でダシの素として美味いものは何でも総動員する方法を採ったのだ。店によって違うが、日本のダシの素、中国のダシの素に加えて、野菜からのダシも加え、何でもいい、美味いダシの素なら何でも検討するという姿勢で作られているのがラーメンのダシだ。要するに、中国発のダシという発想が、日本のダシに変身し、そして更にもう一度中国のダシの源流への復帰、プラス更に新しいダシ素材も追加する形で、まさに日本のラーメンにおいて、人類はダシというものを極めたのである。そして、これに塩味としては、醤油でも塩でもどちらでも良いという柔軟性を持った。ということで、こと「スープ道」に関しては、日本のラーメンが、ダシと塩味の組み合わせのバラエティーにおいて人類の最高点に達したといえるのではないか。これが「ラーメンの特徴その2」だ。

ラーメン 以上の通り、人類最高のスープ、その中に、多分食感という点でも人類最高レベルに高めた日本のラーメンの麺、これを合わせたものがラーメンなのだ。人類文化の最高傑作ともいえる。それがラーメンだ。一度海外に住んでみるがよい。日本のように、どこに行ってもラーメン屋があるという人類最上の幸せが、他国においては得られないことに気がつくはずだ。逆にいうと、日本に住んでいるということの重大な意味は、人類最上の料理形態であるラーメンにいつでもどこでも触れることが出来るということだと思う。

笑い だから、私は、特定の店にこだわらない。どこのラーメン屋も、人類最上のレベルで、その店なりの提案を提供してくれていると思う。だから、どこのラーメン屋でも、私はとにかくラーメンを食べるのが至上の喜びである。 Nat
記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

NAT

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ