これまで、キリスト教で「ひっかかること」につき22回連載で私の思いを書いてきた。苦難の中にあったからこそ、却って天地や人間を創造した神を想った創世記の記者たちのこと。祈りの中で神の声を聞いたと信じた人たちのこと。また、イエスという、その言動において大きな衝撃を残し、そして最後に十字架と復活で弟子たちを大きく変えた人のこと。そのイエスを巡る聖書の記述からは、当時から復活を疑う人間と信じて生きた人間の両方がいたことが窺われること。そして、この世の不幸・不条理の中にも神の愛を見る信仰のこと。また「罪」と「行い」をめぐる大きな誤解のこと。最後に「終末・再臨」につき書いてきた。
各個所で、人間からすると色々ひっかかることがあると書いてきた。ところが、このように「ひっかかること」に対して、理屈ではすっきりした解決は与えられない。考えれば考えるほど、却って疑いが深まり、もっと複雑な疑問になってしまうだけである。そもそも、幾らイエスが「神をお父ちゃんと思いなさい」といっても、元々神は人間には計り知れない存在だ。人間の理屈はもっぱら人間のレベルでしか通用しない。だから人間の理屈で神を理解しようとするのは、いわば地中に住む小さな蟻が、自分の触角に触れるものだけから、宇宙を論じようとしているようなものだ。
もし、神から人間レベルにも届くメッセージのようなものが全くなければ、地中の蟻と同じく、神を想うすべもないことになる。しかし、連載の冒頭に書いたように、人類の今もっているものの中で、一つには聖書というものがある。しかし、それも当時の人を介して書かれたものだから、外国語混じりのラジオのようであったり、音がかすれて大事なメッセージが完全に聞き取れないものかも知れない。また、全て人間が製作した人為的な放送で、神の心など、その何処にも含まれてないと言う人がいても理屈では反論できないものだ。
このように、信じる、信じないは、相手が神だから難しい。しかし、相手が人間なら、信じるかどうかは自分でも決められるだろう。愛する家族や友人については、どこまでも信じようとすることが出来る。その場合、相手が信じるに足る存在であることの確証を得たから信じるわけではない。とにかく、理屈ではなく、心で信じる。イエスが「神はお父ちゃんのようなもの」と言ったのは、そういうことかも知れない。遠い存在で人間の触角と理屈だけでは分からないかも知れない。それでも、お父ちゃんに対するように心で信じなさいと言っているのだと思う。聖書というちょっと完全には聞き取れない放送は、今もそのことを私たちに語りかけている。
ここからの問題は、私たち一人ひとりとして、さあどう考えるかだ。どこかで理屈ではなく「自分の生き方としてどうなのか」ということを決める必要が出てくる。キリスト教が一番いいかどうかは知らないが、キリスト教については、近くのキリスト教の教会に行ってみて、ナマの聖書の言葉が語られるのに触れ、信じて生きている人に触れ、それで、自分はどう生きるかを決めればよい。
その上で、やっぱり信じない人生もあろう。その人生は理屈的には分かりにくさはない。理屈に合わないことは信じないのだから。しかし、神などはいないという立場で生きることから、物質の法則と偶然だけが支配する世界で、人間の力のみで生きる人生になる。そして“万一”神が結局いた場合は、神の愛の手を振り払って背を向けたことにもなるが、そういうことはまずないと割り切ることになる。
一方信じる人生は、理屈では疑問もあり得ることを、信じる方に賭けるのだから、少なくとも、はたから見ると相当愚かしく見える。しかし、「偶然」に振り回され一喜一憂せざるを得ないこの世にあって、理屈も疑いも越えて目に見えない愛に身を委ねる人生になる。
人生の究極の選択肢はこの2つの中にあると思う。多分、その中間でなんとなく生きる人も多いと思う。別に両端の純粋形でないとダメというわけでもない。それぞれの人生だ。今回の私の連載が、それぞれの人の生き方を考える参考になったなら幸いである。そして、ここまで読んでくれたあなたに感謝しつつ、あなたの人生が素晴らしいものになるように祈りたい。 Nat
各個所で、人間からすると色々ひっかかることがあると書いてきた。ところが、このように「ひっかかること」に対して、理屈ではすっきりした解決は与えられない。考えれば考えるほど、却って疑いが深まり、もっと複雑な疑問になってしまうだけである。そもそも、幾らイエスが「神をお父ちゃんと思いなさい」といっても、元々神は人間には計り知れない存在だ。人間の理屈はもっぱら人間のレベルでしか通用しない。だから人間の理屈で神を理解しようとするのは、いわば地中に住む小さな蟻が、自分の触角に触れるものだけから、宇宙を論じようとしているようなものだ。
もし、神から人間レベルにも届くメッセージのようなものが全くなければ、地中の蟻と同じく、神を想うすべもないことになる。しかし、連載の冒頭に書いたように、人類の今もっているものの中で、一つには聖書というものがある。しかし、それも当時の人を介して書かれたものだから、外国語混じりのラジオのようであったり、音がかすれて大事なメッセージが完全に聞き取れないものかも知れない。また、全て人間が製作した人為的な放送で、神の心など、その何処にも含まれてないと言う人がいても理屈では反論できないものだ。
このように、信じる、信じないは、相手が神だから難しい。しかし、相手が人間なら、信じるかどうかは自分でも決められるだろう。愛する家族や友人については、どこまでも信じようとすることが出来る。その場合、相手が信じるに足る存在であることの確証を得たから信じるわけではない。とにかく、理屈ではなく、心で信じる。イエスが「神はお父ちゃんのようなもの」と言ったのは、そういうことかも知れない。遠い存在で人間の触角と理屈だけでは分からないかも知れない。それでも、お父ちゃんに対するように心で信じなさいと言っているのだと思う。聖書というちょっと完全には聞き取れない放送は、今もそのことを私たちに語りかけている。
ここからの問題は、私たち一人ひとりとして、さあどう考えるかだ。どこかで理屈ではなく「自分の生き方としてどうなのか」ということを決める必要が出てくる。キリスト教が一番いいかどうかは知らないが、キリスト教については、近くのキリスト教の教会に行ってみて、ナマの聖書の言葉が語られるのに触れ、信じて生きている人に触れ、それで、自分はどう生きるかを決めればよい。
その上で、やっぱり信じない人生もあろう。その人生は理屈的には分かりにくさはない。理屈に合わないことは信じないのだから。しかし、神などはいないという立場で生きることから、物質の法則と偶然だけが支配する世界で、人間の力のみで生きる人生になる。そして“万一”神が結局いた場合は、神の愛の手を振り払って背を向けたことにもなるが、そういうことはまずないと割り切ることになる。
一方信じる人生は、理屈では疑問もあり得ることを、信じる方に賭けるのだから、少なくとも、はたから見ると相当愚かしく見える。しかし、「偶然」に振り回され一喜一憂せざるを得ないこの世にあって、理屈も疑いも越えて目に見えない愛に身を委ねる人生になる。
人生の究極の選択肢はこの2つの中にあると思う。多分、その中間でなんとなく生きる人も多いと思う。別に両端の純粋形でないとダメというわけでもない。それぞれの人生だ。今回の私の連載が、それぞれの人の生き方を考える参考になったなら幸いである。そして、ここまで読んでくれたあなたに感謝しつつ、あなたの人生が素晴らしいものになるように祈りたい。 Nat