♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

キリスト教で「ひっかかること」 その23 結局。。。

笑顔 これまで、キリスト教で「ひっかかること」につき22回連載で私の思いを書いてきた。苦難の中にあったからこそ、却って天地や人間を創造した神を想った創世記の記者たちのこと。祈りの中で神の声を聞いたと信じた人たちのこと。また、イエスという、その言動において大きな衝撃を残し、そして最後に十字架と復活で弟子たちを大きく変えた人のこと。そのイエスを巡る聖書の記述からは、当時から復活を疑う人間と信じて生きた人間の両方がいたことが窺われること。そして、この世の不幸・不条理の中にも神の愛を見る信仰のこと。また「罪」と「行い」をめぐる大きな誤解のこと。最後に「終末・再臨」につき書いてきた。

落ち込み 各個所で、人間からすると色々ひっかかることがあると書いてきた。ところが、このように「ひっかかること」に対して、理屈ではすっきりした解決は与えられない。考えれば考えるほど、却って疑いが深まり、もっと複雑な疑問になってしまうだけである。そもそも、幾らイエスが「神をお父ちゃんと思いなさい」といっても、元々神は人間には計り知れない存在だ。人間の理屈はもっぱら人間のレベルでしか通用しない。だから人間の理屈で神を理解しようとするのは、いわば地中に住む小さな蟻が、自分の触角に触れるものだけから、宇宙を論じようとしているようなものだ。

日の出 もし、神から人間レベルにも届くメッセージのようなものが全くなければ、地中の蟻と同じく、神を想うすべもないことになる。しかし、連載の冒頭に書いたように、人類の今もっているものの中で、一つには聖書というものがある。しかし、それも当時の人を介して書かれたものだから、外国語混じりのラジオのようであったり、音がかすれて大事なメッセージが完全に聞き取れないものかも知れない。また、全て人間が製作した人為的な放送で、神の心など、その何処にも含まれてないと言う人がいても理屈では反論できないものだ。

まる このように、信じる、信じないは、相手が神だから難しい。しかし、相手が人間なら、信じるかどうかは自分でも決められるだろう。愛する家族や友人については、どこまでも信じようとすることが出来る。その場合、相手が信じるに足る存在であることの確証を得たから信じるわけではない。とにかく、理屈ではなく、心で信じる。イエスが「神はお父ちゃんのようなもの」と言ったのは、そういうことかも知れない。遠い存在で人間の触角と理屈だけでは分からないかも知れない。それでも、お父ちゃんに対するように心で信じなさいと言っているのだと思う。聖書というちょっと完全には聞き取れない放送は、今もそのことを私たちに語りかけている。

はてな ここからの問題は、私たち一人ひとりとして、さあどう考えるかだ。どこかで理屈ではなく「自分の生き方としてどうなのか」ということを決める必要が出てくる。キリスト教が一番いいかどうかは知らないが、キリスト教については、近くのキリスト教の教会に行ってみて、ナマの聖書の言葉が語られるのに触れ、信じて生きている人に触れ、それで、自分はどう生きるかを決めればよい。

ダメ その上で、やっぱり信じない人生もあろう。その人生は理屈的には分かりにくさはない。理屈に合わないことは信じないのだから。しかし、神などはいないという立場で生きることから、物質の法則と偶然だけが支配する世界で、人間の力のみで生きる人生になる。そして“万一”神が結局いた場合は、神の愛の手を振り払って背を向けたことにもなるが、そういうことはまずないと割り切ることになる。

電球 一方信じる人生は、理屈では疑問もあり得ることを、信じる方に賭けるのだから、少なくとも、はたから見ると相当愚かしく見える。しかし、「偶然」に振り回され一喜一憂せざるを得ないこの世にあって、理屈も疑いも越えて目に見えない愛に身を委ねる人生になる。

笑い 人生の究極の選択肢はこの2つの中にあると思う。多分、その中間でなんとなく生きる人も多いと思う。別に両端の純粋形でないとダメというわけでもない。それぞれの人生だ。今回の私の連載が、それぞれの人の生き方を考える参考になったなら幸いである。そして、ここまで読んでくれたあなたに感謝しつつ、あなたの人生が素晴らしいものになるように祈りたい。にっこり  Nat

キリスト教で「ひっかかること」 その22

本 いよいよ最後にもう一つ、聖書を読んで大いに「ひっかかること」が残っている。それは、「終末」とか「最後の審判」とか「キリストの再臨」といわれていることだ。

流れ星 「終末」「最後の審判」というのは、旧約聖書にも出て来るユダヤの世界観だ。この世は、最後には終末に向かう。終末には天変地異が起こり、多くの人が滅んだり、逆にそれまでに死んだ者も一旦皆生き返り、その上で神に繋がる者のみが残される。このような世界観は、仏教の末法思想にも通じるし、ゾロアスター教にもあるらしい。結構、人類が共通して描いてきたイメージのようだ。新約聖書で登場するイエスも、このことに度々触れている。「終わりの時には天変地異が起こり、悪の人間がはびこる。そこに救世主が現れ、選ばれた者を集める」と。しかも、イエスの登場が、このような終わりの時が実際に始まってきているというムードを高めた。

拍手 そこで、イエスの死後、残された弟子たちの間に、イエスの言っていた終わりの時が間もなく来る、その時イエスが再び戻ってきて選ばれた者を集めるとの期待と緊張感が広がった。しかし、それ以後、10年経っても、50年経っても、100年経ってもその時は来なかった。しかし、このイエス・キリストの再臨信仰は、根強く中世にも続き、この世が苦しければ苦しいほど「早く、終わりの時にして、イエス・キリストよ、戻ってきてください」という祈りが継続したのである。

星 そうやって2000年経った。現代の人は「終わりの時」、「キリストの再臨」に対し、どう言っているのだろう。まず、一般の人からすると、そういう話はただただ恐ろしく、一人ひとりの心や人生の問題からはかけ離れた、映画「ハルマゲドン」(最終戦争)のような話しにしか聞こえない。一方で、クリスチャンの間では、言葉どおり「まだ、いつか来るはずだ」と思う人もいれば、「あれは昔の人の世界観だから、今や聖書の終末の話しは余り着目しなくていい」と勝手に取捨選択する人もいる。また、「実はその時はイエスと共にもう来たのであって、幾ら待ってももう来ない」という解釈をする神学者(バルト)もいる。それくらい、このことはすっきりした答えの出にくいテーマである。なにせ、将来の話しだから、議論しても正解が出ない。案外明日突然そうなるかも知れないし、永遠に来ないかも知れない。明日を知らない人間には議論する根拠が全くないテーマなのだ。

笑い そこで私は言う。イエスが我々に語ろうとしたことは、本当にこの世の終わりのことであろうか?イエスはこうも言っている。「その日、その時は、だれも知らない。ただ、父だけがご存じである。(中略)だから目を覚ましていなさい。(中略)人の子(注:救世主)は思いがけない時に来るからである。」思うに、イエスのポイントは、終わりの時という将来のことにはない。終わりの時は何時のことか分からない。しかし、いつそれが来てもいいように、「今」あなたは眼を覚まし、「今」神と繋がって生きるのだと、「今」のこの瞬間の、神と人のあるべき関係を語っているのである。

OK これは、そのままイエスと人とのあるべき関係をも指し示す。イエスは復活の姿を40日間見せたが、その後は目には見えなくなった。しかし、「終わりの時には戻ってくる。その時は、いつか分からない。だから目を覚ましていなさい」とイエスは言ったのだ。私はこれは、今にも戻ってきそうなくらい、なまなましく我々の直ぐ傍にいる、だから何時もそういう気持ちでいなさいということだと思っている。今か今かというくらいに、2000年の間、常にイエスは臨場感をもって我々と共にいたのである。だから「今にも終わりの時」というのは「永遠の今」なのである。

びっくり だから、終末の中身を議論したり時期を予測したり、そういうことは本当にはあるとかないとか議論しても、全く得る所はない。人には知るよしもない。そこに本当のポイントもない。自分が生きている間に「その時」が来るか来ないかも気にしないでよい。唯一思うべきは、イエスによって指し示された、神と人間の「永遠の今」の緊張関係。そしてイエス自身が今にも戻って来そうな「永遠の今」。それを想って生きる時、我々の人生の一瞬一瞬が光り輝くということだと思う。 これが私の「終わりの時」観である。
Nat

キリスト教で「ひっかかること」 その21

笑顔 前回「罪」について書いたが、キリスト教の言う「罪」への疑問と共に、よくある疑問はクリスチャンの行ないについてだ。要するに、「あれでもあの人はクリスチャンか」というひっかかりである。

はてな そういう疑問を持つ人の「典型的クリスチャン像」とはどういうものだろう?愛の香りを放ち、全身から神の高潔さがにじみ出ていたりするイメージであろうか。それはイエス・キリストには望めるかも知れないが、現実に皆さんが出会うクリスチャンは、私のような普通のオッサンでしかなかったりする。

ウインク 私は、出会った人に自分がクリスチャンであることを語る時、よく「私はね、罪深いからクリスチャンをやっているんですよ」という。それは全くその通りなのだが、そう言うと「えっ?Natさん。そんなに罪深いんですか?」と吹き出しながら聞かれて、話が弾むのである。でも確かにそういう自己紹介をせねばならないほど、クリスチャンというと「品行方正」と同義語であるかのような固定観念があるようだ。日本ではアメリカのピューリタンとか禁欲主義のイメージが強いのであろうか。

落ち込み そしてこれは、キリスト教そのものへの先入観でもある。ある人が私の教会に初めて来て、私に「キリスト教はイエスの説いた倫理体系ですよね」と言うので、私は「それ全然違いますけど。。。」と言ったら、その人は大変驚いていた。そもそも「キリスト教」という言葉がまずいのだろうが、実はキリスト教はキリストの説いた(倫理的生き方の)「教え」ではない。イエス・キリストそのものを「信じること」といった方がいい。そしてイエスは、人を縛り付けていたユダヤ教の律法から人間を解放し、神の愛の原点に立ち返ることを、身をもって示したのである。

ハート だから、キリスト教もクリスチャンも目指しているものは、神の愛を信じ切って生きることに尽きる。決して正しい人として生まれたわけでない我々。ほっておくと弱く、ずるく、とかく自分本位になる私たち。そのような私たちを丸ごとそのまま愛してくれるお父ちゃんのような神を知って、それを信じ、それに突き動かされて生きる人に変わるということだ。今「突き動かされる」と書いた。そうなのだ。信じた者は結果的に、神の愛に突き動かされる。その結果、前よりも少しずつでも愛の人になっていく。今いる処はまだまだ道半ばでも、方向は間違いなく神の愛の方に少しずつ歩んでいるということだ。私などは、人から見ると、どうみても愛の人には見えないのではなかろうか。しかし、もし信じて生きるNatになっていなかったら、今の私とは相当違う別のNatであっただろう。しかも、信じた分、少しは神の愛の方向に向かって変わったのではないかしらと思う。しかし、人はそのような私の長い時間の中での変化や成長を知るよしもない。だから、今のNatを見て“クリスチャンらしい”とか“らしくない”とかいうことになる。しょうがない。まあ、そもそも人に良く見られるためにやっているのではないし、信じたことの自然な結果として、ゆっくりとした成長でも成長すれば嬉しく思う。

悲しい もう一つ、このこととの関連で、時々「懺悔(ざんげ)」について聞かれる。私たちのプロテスタントの教会では、カトリックのような懺悔儀式は殆どないが、懺悔ということは大事なことだと思っている。この懺悔について時に一般の人から皮肉的に聞かれる。「クリスチャンは、悪いことをしても、日曜に教会で懺悔したら、罪が帳消しになって、また悪いこと出来るのですか?」と。もし帳消しにしてもらえることを当てにして悪いことをするなら、少しも懺悔してないことになる。懺悔は、自己嫌悪しつつも神さまの前に自分をさらけ出し、こんな私でも愛して下さいますかと聞く祈りだ。だから、毎回毎回、一切進歩のない懺悔はあり得ないと思う。かといって一回懺悔の気持ちを持ったら二度と同じあやまちを繰り返さないほど強くもない。しかし一歩づつでも前に進みたいものだ。先に書いたとおり、信じるということは、結果として神さまの方向へ一歩一歩近づいていくことなのだから。にっこり   Nat
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