人間はよく笑う。この「笑い」って、いったい何なのか? この問いは簡単そうでいて、なかなか難しい。大昔のギリシャの大哲学者のプラトンも考察をしているし、近代でもフランスの哲学者のベルグソンなんかは「笑いについて」という題で本を一冊書いているくらいだ。
人間はどういう時に笑うか?それは何かが「おかしい」時だ。では「おかしい」ことってどういうこと?おかしいこととは「普通でないこと」か。でも、普通でない変わったことや異常なことは何でもおかしいかというと必ずしもそうではない。雨の中を骨だけになった傘をさして歩いている人がいたら滑稽でおかしい。笑える。普通でないし変だから。でも鉄の板で出来た傘をさしていたら、非常に変わっているがそれをおかしいと思って笑う人は少ないだろう。とすると、何か変わっていても合理性があれば「なるほど」と思えて笑いは誘わない。逆にいうと、理にかなわない変わったものがおかしいということか。これは正解に近い。
しかし、たとえば「歳をとってくると集まって出る話はまずは体の調子のことだよね」という一言は、そこにいる人の笑いを誘う。歳をとると体の話をするということは、普通だし、合理性もある。それでも、それは笑いを生む。自分もそうだという思いがある分、苦笑になるが。でも笑いは笑いだ。
この二つの例を考えながら、ベルグソンの説を借用して、正解と思うことを言おう。おかしいということは、まず人間がからむ。無機物で妙な形をしているものなどは、変な人間を想起させたりしない限り、直接笑いを誘わない。人間が「本来的な型」や「あり方」から、不完全な形、スムーズじゃない形に少しばかりずれているとおかしく、笑いを誘うのだ。あるいはそういう人間の状態を想起させる物などでもいい。「少しばかりずれている」といったが、大きくずれているのはダメだ。たとえば完全に病気になって寝ているというのは哀れであり、笑えない。しかし、3発連続で激しくくしゃみをするというのは、その人には申し訳ないが、ちゃんとした人間の状態からちょっとだけずれている点がおかしいので、周りの人の笑いを誘う。骨だけの傘をさして雨の中を歩くのも、本来のあり方から、不完全で欠陥のある方向に少しずれている点が笑える。傘がなくてずぶぬれになってしまっているのはもう余り笑えない。歳をとると体の話するのも、若いころのしっかりしていた状態から少しずれ始めている状態だから笑える。しかし全く衰弱して、よぼよぼになってしまっては笑えない。
どうして、少しダメな方向にずれているとおかしく笑いを誘うのか?どうも、それは人間が、まだ少しずれているだけなら、本来の状態に戻ろうとする存在だからだという。少しずれているのが自分にしろ、他人にしろ、「ちょっとずれてますよ!でもまだ戻れますよ」ということを心が意識する。ちょっとした警戒意識と共にまだ大丈夫という励ましのような気持ちがミックスしたもの、それが笑いなのだ。だから、笑いは人間が本来の型から大きく逸脱し過ぎないために獲得した心の反応だというのである。(ベルグソンを読んだのは大昔の学生のころだから、正確にそう書いてあったかは忘れたが、そんなことだったと思う。)
そんなことを一々考えていたら、笑えるものも笑えなくなるかも知れないけれど、「笑い」の中にも人間の命の不思議な仕組みが隠されていることが面白いと思う。世の中、面白いことでいっぱいだ。
でも、本当にベルグソンの説だけで笑いを全て説明できるのだろうか?もう少し考えてみたくなった。それはその2で。 Nat
人間はどういう時に笑うか?それは何かが「おかしい」時だ。では「おかしい」ことってどういうこと?おかしいこととは「普通でないこと」か。でも、普通でない変わったことや異常なことは何でもおかしいかというと必ずしもそうではない。雨の中を骨だけになった傘をさして歩いている人がいたら滑稽でおかしい。笑える。普通でないし変だから。でも鉄の板で出来た傘をさしていたら、非常に変わっているがそれをおかしいと思って笑う人は少ないだろう。とすると、何か変わっていても合理性があれば「なるほど」と思えて笑いは誘わない。逆にいうと、理にかなわない変わったものがおかしいということか。これは正解に近い。
しかし、たとえば「歳をとってくると集まって出る話はまずは体の調子のことだよね」という一言は、そこにいる人の笑いを誘う。歳をとると体の話をするということは、普通だし、合理性もある。それでも、それは笑いを生む。自分もそうだという思いがある分、苦笑になるが。でも笑いは笑いだ。
この二つの例を考えながら、ベルグソンの説を借用して、正解と思うことを言おう。おかしいということは、まず人間がからむ。無機物で妙な形をしているものなどは、変な人間を想起させたりしない限り、直接笑いを誘わない。人間が「本来的な型」や「あり方」から、不完全な形、スムーズじゃない形に少しばかりずれているとおかしく、笑いを誘うのだ。あるいはそういう人間の状態を想起させる物などでもいい。「少しばかりずれている」といったが、大きくずれているのはダメだ。たとえば完全に病気になって寝ているというのは哀れであり、笑えない。しかし、3発連続で激しくくしゃみをするというのは、その人には申し訳ないが、ちゃんとした人間の状態からちょっとだけずれている点がおかしいので、周りの人の笑いを誘う。骨だけの傘をさして雨の中を歩くのも、本来のあり方から、不完全で欠陥のある方向に少しずれている点が笑える。傘がなくてずぶぬれになってしまっているのはもう余り笑えない。歳をとると体の話するのも、若いころのしっかりしていた状態から少しずれ始めている状態だから笑える。しかし全く衰弱して、よぼよぼになってしまっては笑えない。
どうして、少しダメな方向にずれているとおかしく笑いを誘うのか?どうも、それは人間が、まだ少しずれているだけなら、本来の状態に戻ろうとする存在だからだという。少しずれているのが自分にしろ、他人にしろ、「ちょっとずれてますよ!でもまだ戻れますよ」ということを心が意識する。ちょっとした警戒意識と共にまだ大丈夫という励ましのような気持ちがミックスしたもの、それが笑いなのだ。だから、笑いは人間が本来の型から大きく逸脱し過ぎないために獲得した心の反応だというのである。(ベルグソンを読んだのは大昔の学生のころだから、正確にそう書いてあったかは忘れたが、そんなことだったと思う。)
そんなことを一々考えていたら、笑えるものも笑えなくなるかも知れないけれど、「笑い」の中にも人間の命の不思議な仕組みが隠されていることが面白いと思う。世の中、面白いことでいっぱいだ。
でも、本当にベルグソンの説だけで笑いを全て説明できるのだろうか?もう少し考えてみたくなった。それはその2で。 Nat