♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

米軍基地のことをどう考えるか?番外編(アフガニスタン)

笑顔 米軍基地、或いは日本が米軍にどこまで着いていくのか?の問題は、「その?」で終わりにしようと思ったが、折しも参議院でのテロ対策特別措置法の延長の問題が大きく出てきているので、最後にもう一言。

テレビ 昨日の報道で、参議院で同法延長に反対する予定の民主党の見解では、?米国のアフガニスタン戦争は「米国の戦争」であって、国連の平和活動ではない。?米国の戦争の応援をすることは、集団的自衛権の行使を禁じている日本憲法に違反するので出来ない、こういう考えだとされている。

びっくり 良く知らなかったが、アフガニスタンにおける国際社会の武力行使について、国連が公認しているISAF(International Security Assistance Force;国際治安支援部隊)というのと、米や英が独自に自衛権行使として行っているOEF(Operation Enduring Freedom)の2つがあって、日本が給油しているのはOEFの艦隊に対してであるということのようだ。調べて見ると、確かに、国連決議としては、テロの翌日の2001年9月12日にテロを満場一致で非難した1368号決議、更に、同年12月20日にはISAFで暫定政権下での治安維持することを含む1386号決議が出ている。そして、このISAFが今でもNATO主導で続行されている。一方、米英主導のOEFは、要するに米国を攻撃したテロリストを壊滅する為に、米国自身が自衛権行使として行うものである。英国はこれに集団的自衛権で参加しているし、その後、仏・独など、そして日本もこれに参加して現在に至っている。

びっくりびっくり 民主党の小沢代表の言う「OEFは国連決議を受けていない米国独自の戦争」という解釈が正しいかどうか、少し調べて見ると、確かにISAFとは異なり、国連決議でOEFを承認したものはない。では一定の根拠があるとすれば何か? まず、最初の国連決議1368号の前文に「個別的或いは集団的な自衛権が当然の権利としてあることに鑑み」という文が入っている点だ。これから、米国がアフガニスタンのテロリストに対して自衛権行使するのは当然だとの解釈が出来ると言う。更にこの3月に出た1746号決議では「ISAFやOEFを含む国際的支援」と書かれており、明らかに国連としてOEFも容認、あるいは正当視していると思われる文がある。

びっくりびっくりびっくり ということから、日本が給油支援している対象の米英OEFが、国連とは無関係に勝手に米英がやっているものか?というと、それこそ「ビミョー」だ。確かに国連の明確な手続きの有無を重視し、明確に手続きのある国際支援活動にのみ参加するというケジメも一つの考えだろう。しかし、前に書いた通り、そもそも国連安保理事会は余り機能していない。武力行使については、意見が分かれるので、イラクの時もそうであったが、明確な武力行使決議は通らないまま、「ビミョー」な決議を拡大解釈して、“正義の味方”の有志連合で動くというのが現状である。

OK そこで、?米国中心の有志連合に日本として求められれば原則全部付き合うのか、?日本として納得できる米国の行動にのみ付き合うのか、?米国に着いていく図式をこの際もう辞めて、国連の活動にのみ乗るのか。この3つのどれにするかが問われているものだ。    
?の「原則全部付き合う」は米国とギスギスしないで済むが、日本としての主体性が余りにもないことになる。
?の「個別判断」は、米国のすることに、毎回、日本としてその是非の判断を突きつけるのだから、相当の覚悟が要るし、度々米国との間でギスギスするだろう。それなら、これまでの日米同盟は一旦なしとして是々非々的な関係に限定しようという話に繋がるとも思われる。
?の「国連主義」は、国連では結局武力行使型の決議はされないので、治安維持活動への参加と文民による支援や資金援助に限られることになろう。つまり米国流の「必要なら武力行使して自国と世界の安全を保つ」という動きには実質一切参加しないことになる。日米同盟は破棄に向かい、国のあり方を大きく転換することになるのではないか。
?も?も、前に書いた通り、米国にさほど依存しないで日本の防衛は自ら行う体制に転換するか、それとも徹底非武装・無抵抗の理想主義を本当にやるかのどちらかに向かわざるを得ない。もしそのどちらも嫌なら、結局、?の「原則米国フォロー」で、時々少し意見を言ってみる程度に収まらざるを得ないと思われるのである。

にっこりそういう目で、今後、国会で展開される議論を見守りたい。  Nat
 

米軍基地のことをどう考えるか? その10

笑顔 みんなで横須賀に行ってきた。軍港めぐりの船で米海軍と自衛隊の軍艦などを見た。あいにく、米海軍の最大の軍艦である、空母キティーホークとその取り巻きの軍艦の群れが「お出かけ」中で不在であったので、米軍の軍艦についてはいつもより小数のものしか見られなかったが、自衛隊の軍艦のロケット砲などの装備も含めてまじかに見ることが出来た。

笑い 見てから、若い人たちと、こういう軍艦も利用して武力行使することの是非や、今、問題にもなっている、自衛隊の海外での米軍支援の是非についても話し合った。話し合いの参加者をジャンケンなどで敢えて2つの組に分け、片方が「武力行使もやむないことあり」、もう片方は「どういう場合も避けたい」という立場として、自分の入った方の組の立場になったつもりで、頭を絞るというやり方で模擬討論会をした。これは、元々各人が思い込みを含めて考えていた立場を一旦忘れて、色々な意見があり得るということを経験しながら、改めて自分の考えを持ってくれればという趣旨だ。

びっくり やってみると、分かるのだが、「武力行使もやむない」組は、そうでない組から「そうやって武力を使い始めると、どうしてもそれがエスカレートしてしまい戦争に繋がる」と批判されると弱い。一方、「どういう場合も武力行使は避けたい」組は、反対の組から「でも、もしそうやって武力放棄しているのに、相手の国がそれにつけ込んで武力行使してきたら、そのまま皆で死ぬの?」と言われると弱い。ここで、討論は堂々巡りになる。

びっくりびっくり 米軍支援の方の議論も、片方が「米軍は町内会の会長さんみたいなもので、我々に多少個別の問題で意見があっても、概ね会長さんの提案に同調して付き合っていくことも必要では」というのに対し、「会長さんが言うことがおかしいと思えば付き合わないことも必要」と反論する。しかし、反論するほうも「では米軍の庇護を捨てて、日本をどう守るの?攻められたら、さっきの議論のように皆で死ぬの?」と言われてしまう。

笑顔 この模擬討論会を終えて感じた。「武力放棄」組は、どうしても実務論で負けがちである。当然だ。人間の「心」を信じる理想論だから。一方、「武力やむなし」組は「しょうがない」と言い続けているうちに、だんだん、武力行使の対象になる人たちの痛みも「しょうがないもの」として忘れたり無視したりする心の状態に陥りがちだ。これが、私が「その?」で言いたかったことなのだ。実務論上はぎりぎりの武力威嚇・武力行使もやむないこともある世の中だ。しかし、その時、武力の向けられる先にいる、一人ひとりの生身の人間の痛みに対する「心」を鈍くしては、絶対にいけない。一方、「心」を信じて理想論を唱える人は、日本を守るための実務論を唱える人たちの言うことにつき、よく理解しようとするマインドを持たないといけない。

にっこり この横須賀視察と模擬討論に参加した若い人たちが、そのように、実務的なしっかりした考えと、人に対する心とを併せ持ちつつ、平和をつくる次世代を担ってくれればいいなと思った。 Nat

米軍基地のことをどう考えるか? その9

笑顔 最後に一言。しかも私が一番重要と思っている一言を書く。

笑い これまで、安全保障の基本国策は、自立的防衛でも、米軍依存でも、完全非武装でもいいかも知れないと述べた。何故か? それは、基本国策が何であれ、その国策の真の意味を決定するのは、結局、人の心だと思うからだ。突然、私自身が精神論に戻ることになるが、これは一番大事だと思う。

はてな ユネスコ憲章の前文に有名な言葉がある。「戦争は人の心の中で生まれる。」私はこの言葉こそ、本当に人類の戦争の本質を表していると思う。戦争を始めてしまう「人の心」、そして戦禍を悲惨なものにする「人の心」とはどういうものだろう。それは「あいつら」という心だ。「あいつら、あんなに悪い奴らだ」「あいつらは、滅ぼされてしまってもしょうがない」「ざま見ろ、あいつらめ!」。自分たちの仲間のことは「俺たち」と思い、武力行使の対象になる人たちを「あの人たち」ではなく「あいつら」と思う。この心が、戦争という人殺しを正当化させ、ひどい場合は「聖戦」にまでしてしまうのである。

落ち込み 先に述べた通り、現在の国連などの国際紛争解決能力には大きな限界がある。そこで外交手段の尽きる局面では、ぎりぎりの選択としての武力行使已むなしということもあるかもしれない。しかし、実際に、銃撃・爆撃を決定する政治家も人間だし、銃の引き金を引くのも人間だ。どこかに「あいつらは価値の低い、死んだほうがいい奴らだ」という、蔑み、卑しむ気持ちがあって初めて、銃撃・爆撃への躊躇がなくなるというものではないかと思う。

テレビ 91年に米軍がイラクを空爆した報道映像で、トマホーク・ミサイルがイラクの町に命中するのを見て、私は思わず「やったあー!」と手を叩いてしまった。ゲームで勝った時のように。その瞬間に、私の心は、サダム・フセインが「クルド人のあいつらは、毒ガスで死なせてもしょうがない奴らなんだ!」と思ったその心と同じく、「イラクのサダム・フセインら、あいつらは、トマホークで死ねばいいんだ!」と、そういう心になっていたのだ。

落ち込み 繰り返しになるが、人類の現状では、ぎりぎりの已むない選択として、慎重に制御した形でながら、武力威嚇や武力行使せざるを得ないこともあろうと思う。しかし、自国の利益、或いは世界の平和を守るために、他国の人間の命を危険にさらさざるを得ない、そういう場合でも、いや、そういう場合だからこそなお更、人の心が問われる。「あいつら」という心でそれをしてしまうのか、それとも「神さま、人間の足りない知恵のため、武力行使せざるを得ないこの私たちをお許し下さい」と祈りながらするのと、そこに大違いがあると思う。言い換えれば、武力行使の対象に、もし仮に自分の家族が含まれていても、人類の平和のためには攻撃も已む得ないと思えるかどうかが問われると思うのだ。

笑顔 だから、もし日本が、自立的国防体制に進む場合でも、最低限の軍隊という場合でも、軍隊は人の命を殺す存在であること、我々はとかく、自分の仲間以外を「あいつら」と思う存在であるということを、痛みをもって心する必要がある。

にっこり では、そういう思いを持ちながら、まずは若い人と一緒に、横須賀の米軍基地を視察してこようと思う。 では又それから。   Nat
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