♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

「たましい」って何?-その2

笑顔 前回の記事で、臨死体験や死後体験のことにも少し触れた。特に臨死体験は、欧米では事例の調査・研究が進んでいる。

笑い 臨死体験って、皆さんご存知ですよね。そう、実際、一回ドキドキ大心臓が停止して、死亡通告された人困ったが、結局、何かの拍子で心臓が再度鼓動し出して蘇生した時の体験のことだ。この体験をした人の多くが共通して経験していることは:?まず心臓停止の瞬間に、すーっと体から自分が抜け出る、?暫く、自分の死体やその周りにいる家族や医師・看護婦を天井のあたりから眺めている時間がある、?その後、暗いトンネルのような所に吸い込まれて、?最後には明るい光が見えてきて、神か仏か菩薩のようなものに出会った感じがして、?そこから、突然、またこの世に逆流して体に再度戻ると、心臓が動き出し、意識が回復した。―――― というようなことだ。

本 幾つかの書物で、この臨死体験の色々な事例を読んだが、面白いのは、上記?の「自分を見つめている時間」だ。自分の死体の上で無き悲しむお母さんの頭の上の方が結構髪が薄くなっているのが見えた。後で、蘇生してから実際のお母さんの頭の上を見てみると、やっぱり髪が薄かった。或いは、もっと面白いのは、病院の外壁の窓の縁の上に誰かが運動靴を置いていたのが、死体から抜けていく時に見えた。蘇生後、気になって看護婦に窓から体を乗り出して見てもらい、本当に運動靴が置いてあるかチェックしたら、確かに置いてあった。――― といった体験が報告されていることだ。

学校 ?の体からすーっと抜け出るとか、?のトンネルに吸い込まれるなどの体験は、臨死体験を単に脳の化学反応で説明しようとする学者の説でも多少は説明できる。即ち、死に際し、脳が特殊な物質を分泌してそのような妄想が意識されるという説だ。(もっとも、心臓停止の数日前から既に脳が機能停止し意識がなくなっているケースでも、死ぬ瞬間だけ、このような臨死体験が意識されるらしい。特殊な物質が出ても、脳の機能停止していては、そんな体験を感じられないはずと思うので、私はこの説は全く説得力がないと思っているが。)しかし、いずれにせよ、この説では、お母さんの髪とか、窓の外の靴とかは説明できない。ただし、懐疑的学者は、こういうのは全て創作・作り話と切り捨てるわけだが。

びっくり また、体から自分がすーっと抜ける体験は、実は、臨死でなくても、結構体験されている。有名なのが、米の女優のシャーリー・マックレーン。Out on a limb という著書に、自分の意識が体を抜け出て、宇宙にまで行った体験が書かれている。最近は、元ソニーの研究者だった人が『死後体験』という本をシリーズで出している。アメリカのモンロー研究所の音楽テープを聴いていると、意識が体から離脱できるらしく、その体験を詳しく報告している。

笑顔 このように、「たましい」=「超意識」の肉体離脱の話はこの世に多い。しかし、我々普通の人間には、どこまでが本当で、どこまでがウソかが分からない。前にも言った通り、学者が真面目に研究してくれないからだ。しかし、一つ言えることは、そういったことがこの世に実際にあったほうが、この世はよっぽど面白く深くなると思う。意識が脳の電気化学反応の所産だけであるという人生観・世界観を持って生きている人と、そうでない世界があるかも知れないと思って生きている人。貴方はどちらの人になって生きますか?  Nat

「たましい」って何?

笑顔 私は中学の頃から、意識って何なんだということが気になってしかたがなかった。意識が脳の働きなら、死んで脳の機能が停止した時、意識も消え失せることになる。では、人はどうして「たましい」などということを言うのだろう。人が「たましい」という時、脳の意識を超えて、死んだ後も継続される「超意識」のようなものをイメージしているはずだ。

幽霊 学者の中でも、超科学のようなものを一切否定する人たちは、もっぱら「たましい」をも否定する。「脳が機能停止した後に、なんらかの意識のようなものが存在し続けるわけがないだろう!意識は脳の電気化学的反応の所産に過ぎないんだから」というわけだ。意識の仕組みを求めて、人間を切り刻んでいくと、脳神経とその電気化学反応に行き着く。だから意識は脳神経の電気化学反応そのものであるというわけだ。

パソコン しかし、これは、パソコンの仕組みを解明しようとして、パソコンを解体していくと、ついには半導体素子にまで行き着き「パソコンの仕組みは半導体素子の働きそのものである」といっているのと同じだ。パソコンのハードは確かに半導体素子の集積である。しかし、パソコンはOSという基本ソフトを入れて初めてコンピューターの働きをする。むしろ、パソコンの本質はOSをベースとするソフトにある。しかし、パソコンをバラバラに分解して研究してもOSを発見することは出来ない。OSはパソコンというハードの上にかぶせられているものだからだ。

びっくり 思い切って私の仮説を述べよう: 「たましい」という「超意識」があるとしても、人間が生きている間は、その超意識が、人間の肉体という物質を動かすことが出来る形態になるために、物質に乗せられる必要がある。だから、人に命が宿る時、あたかもパソコンにOSがインストールされるように、人間の脳の神経細胞というハードの上に「超意識」=「たましい」がインストールされる過程があるのではないかと思う。(ちなみに、こういう話に無理に聖書を当てはめる必要は全然ないが、たまたま、創世記の、神が最初の人アダムを創ったときの叙述が、「土の塵で作り」(肉体・ハード)、それに「命の息を吹き込まれた」(たましい・ソフト)とあるのが興味深い。)この「たましい」=「超意識」は、人間が生きている間は脳神経にネットワークを形成させ、その上に宿って、脳神経の電気化学反応を通して肉体にシグナルを送り、いわゆる通常の「意識」を起動している。しかし、死ぬ時は、古いパソコンからOSを抜き取るように、「超意識」=「たましい」が、脳神経網から、何らかのプロセスで抜け出るのではないだろうか。

学校 以上のようなことを言うと、Nat は頭がおかしいのではないか、と思われるかも知れない。しかし、本当かどうかは知らないが、人間の死の瞬間に、「たましい」か、「気」のようなものが抜け出ていると思われるという物理学的な実験もあるし、極めて軽微だが、体重が微細に減少するという報告もある。そもそも、通常の学者は、人間を切り刻んでハードの細かい部品を研究している生物学者や医学者か、今度はモノを離れて思索にふける哲学者のどちらかに偏っていて、「たましい」等の仮説に対して、真面目に科学的に取り組む学者は少ないのだ。たとえいても異端扱いされてしまう。だから、「たましい」の抜けるというような現象が本当にあるのかないのか、あるとすればその仕組みは何かというようなことには、今の科学は対応できていない。最も重要なテーマなのに。

宇宙人 また、臨死体験・死後体験の報告や、輪廻転生の報告も極めて多いが、これまた、いわゆる科学者は研究することを忌避している。これまた異端視されるのが怖いか、或いは、はなからそんなことはあり得ないという本来の科学者らしからぬ狭い了見になっているからだ。

学校 科学がこのように進歩が遅いので、人間は、いまだに太古の昔と変わらず、感覚的に「たましい」のようなものがあるのでは---という茫漠とした想いのまま放置されている。統計上、日本人の約8割は、どちらかというとこのような想いを持っている。そして、私は、その仕組みとして、「たましい」が脳にインストールされるという仮説を提示している。誰か、心ある科学者が是非、この仮説の研究をして欲しい。2つ前の記事に書いたとおり、もし私が10兆円を手にしたら、当然この研究を始めるのだが。。。 誰か私に10兆円くれない? Nat

才能は“持ち逃げ”していいか?

笑顔 はっきり言って、私の本業であるビジネスでも、余業の音楽でも、生まれつきの才能がほぼ95%であると思うことが多い。勿論、努力は圧倒的に必要だ。しかし、才能がある人は努力してもどんどん報いられるから余計に努力する。才能のない人はなかなか報いられないから途中で挫折して努力を止めてしまう。だから、結局、人間、生まれつきの才能が殆どであると言えなくもない。

学校 しかし、学校の先生は教育的配慮から「生まれつきだけじゃない。その後の努力だ。天才だって、その陰には大変な努力がある。」と「努力」を強調する。まさか「本当は殆どは生まれつきなんだけどね。。」なんて本音は、小声でも言えない。

はてな 何故言えないのか? 言うと「努力」が虚しくなるからだけではない。それは、生まれつきの実力差が、人の運命や境遇を、余りにも大きく左右してしまっている現実に関して、やり場のない「不公平感」のようなものを感じているからではないだろうか。一人一人を神が創ったとしたら、何故、こんなに差をつけたのか?何故こんなに不公平なほどの差を?これは深い疑問であろう。

本 これに対して、読者の皆さんは、聖書・キリスト教は何と答えるとお思いであろうか。前に、生まれつき目の見えない人について、イエスが驚くべき説明をしたことを書いた。生まれつきの能力差と、その意味について、これまた、イエスは驚くべき真理を説いている: 生まれつき能力の差は大きい。3人いれば、5対2対1くらいの差がある。「5」に相当する大きな才能を与えられている人は、神さまから、ビジネスの大きな“元手”(資本金)を預かった部下のようなもの。それだけ大きく運用し、大きなリターンをお返しする期待もあるし、大変重い重い使命もある。一方、生まれつき能力が僅かな人もいる。「1」の人だ。その人は僅か「1」だけの元手だけを預かっているのだから、それなりの運用で僅かなリターンをお返しすればよく、使命は軽く楽に出来ているのだ。重要なことは、能力・才能は、神さまが人間に贈与したものではなく、人間に委嘱している・預けているものだ、という理解だ。才能豊かな人も、その才能は、自分の「私物」ではないということだ。私物ではないので、自分だけの幸せの為にその才能を使い、才能の成果を「持ち逃げ」することは、神さまの「み心」ではないということだ。才能の成果は神にお返しするのである。(聖書の「マタイによる福音書25:14―30」のお話をご覧あれ。)

走る この世のビジネスで実力主義は当然であろう。たとえ能力差が実は殆どが生まれつきの差であっても、能力の高いものが、より難しい仕事に就くのは極めて合理的である。神から預かっている才能の大きい人は、運用責任も大きいからだ。しかし、そのことは、その才能の大きい人が、そうでない人よりも、圧倒的に幸せになる権利があることを意味してはいない。責任の高い仕事はリスクも高く、それなりの報酬・収入があるのは合理的である。しかし、単に生まれつきの才能がゆえにその人は「王さま」のような生活が出来、単に生まれつき才能が乏しい人は「極貧」の苦しみを与えられるというなら、そんな世の仕組みはおかしいということだろう。才能は、神からの「預かりもの」なのだから。

ダメ ビジネス界で、実力に拠らずみな「悪平等」の人事・収入というような会社は、申し訳ないが、消えるしかなかろう。しかし、大半が生まれつきの差である才能で、待遇に差が有り過ぎるシステムも人を生かさないと思う。なんと言っても、才能は「預かりもの」なんだから。 Nat
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