

(1)神は正しい理由で捧げられた祈りに対してしか応えない。乱数表で患者を振り分けるような祈りには応えない。神はお見通しなのである。
(2)神は病いの苦しみを、試練として敢えて与えることもあるのだ。
(3)神が自分の存在を例証したいと望むなら、このような実験で僅かな統計的な差をつけるより、もっと良い方法を選ぶ筈である。
また別の神学者は、神の業は超自然的なものゆえ、このような自然科学的実験の及ぶ範囲を超えたものであるとして、例により「科学は科学、神は神」という“棲み分け”で済ませているらしい。
これらの神学者の反論に対してRDは、まず(1)(2)(3)には、「まるで茶番」として呆れ返る。そしてまた、「神は科学の実験を超えている」説には、もし実験で差が出ていれば間違いなく「それこそ神の証拠!」と言っていたであろうに、失敗したら「あれは関係ない」と無視するのであれば、それは神学者の御都合主義である、として強く批判する。
