♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

神は妄想? その4

アウト 次にRD氏は、神が人間の祈りに耳を傾け、この世に必要な介入も行う、そのような存在であるという仮説が中々実証されない好例として、祈りの効果の実験について触れている。彼によると、古くはダーウィンの従兄弟が祈りの効果を統計的に試験して、統計的な差はないとの結果を得ているらしい。また2006年にアメリカで大々的に行われた実験の話しが出てくる。祈りの効果を信じる心臓医のベンソン博士の下で行われた実験だ。テンプルトン財団がスポンサーになり240万ドルの資金を出したそうだ。実験の内容は、心臓のバイパス手術を受けた多くの患者の中から乱数表で皆に祈ってもらえる患者と、そうでない患者を選ぶ。そしてアメリカの3つの教会の代表が祈る役割をした。回りの多くの人の嘲笑にも拘わらず、長期間をかけて多くの患者を対象に実験は行われた。しかし、結局、祈りの有無は、手術の結果の良し悪しに統計的な差を生じなかったという。

びっくり この結果に対して、英オックスフォード大学の神学者が、次のように反論したらしい。
(1)神は正しい理由で捧げられた祈りに対してしか応えない。乱数表で患者を振り分けるような祈りには応えない。神はお見通しなのである。
(2)神は病いの苦しみを、試練として敢えて与えることもあるのだ。
(3)神が自分の存在を例証したいと望むなら、このような実験で僅かな統計的な差をつけるより、もっと良い方法を選ぶ筈である。

また別の神学者は、神の業は超自然的なものゆえ、このような自然科学的実験の及ぶ範囲を超えたものであるとして、例により「科学は科学、神は神」という“棲み分け”で済ませているらしい。

これらの神学者の反論に対してRDは、まず(1)(2)(3)には、「まるで茶番」として呆れ返る。そしてまた、「神は科学の実験を超えている」説には、もし実験で差が出ていれば間違いなく「それこそ神の証拠!」と言っていたであろうに、失敗したら「あれは関係ない」と無視するのであれば、それは神学者の御都合主義である、として強く批判する。

にっこり さて、この大変面白い話と論議に対して、私はどう思うかを次回述べよう。Nat

神は妄想? その3

怒り RD氏は「科学は科学、神学は神学」という主張に立脚した“ごまかし”を激しく批判している。即ち、神学者・宗教家の多くは、「神の存在については、科学では永遠にあるともないとも立証できない」という「不可知論」に立脚した上で、神の存在を科学とは別の真理として説くのである。RDに言わせると、もし神があると信じるなら、今は未だ存在を立証できていなくても、いつの日かその存在に迫れるかも知れないとして、科学的にも探求しようとして然るべきではないかということになる。それなのに、「科学の世界とは別」と言いつつ、恰も神学者には科学を超えて神の存在が分かるかのように説く。そして、そういう神学者に、「神が存在しそうだと思えるどのような実証的根拠があるのか?」と尋ねても、「そういう自然科学的アプローチとは別の世界」と逃げられてしまう。これがRDの憤慨だ。

まる 我々クリスチャンも、「神があるかないかは、科学では、証明も否定もできない。ただただ信仰の問題である」というようなことを良く言う。それはその通りであるが、卑しくもRDのような科学者が真剣に神の存在と科学の関係を問う時、我々は思考停止しているかのごとく「神は人間には不可知なのです」と言うだけでいいのか?私にも疑問がある。

流れ星 もし神が、宇宙の哲理のようなもので、遠くにあって、我々とは無縁な存在であれば、原理的にも永遠に不可知であろう。しかし、クリスチャンの信じる神、イエスの証しした神は「愛の神」だ。人間を愛し、人間に係わりを持ち続ける神だ。とすれば、確かにRDの言うように、いつか、その存在のヒントになるものを掴む可能性があるかも知れないと考える方が、むしろ健全であろう。ここからRDは「しかし、そのようなヒントは今のところ全く見あたらないし、誰も提示し得てない」という否定的方向に進むのである。

笑顔 一方、私が思うに、前にも書いた米国モンロー研究所方式での変性意識(肉体を離れた意識の状態)の状態で体験されるという、我々の自身の意識を遥かに越えた上位の知性の存在。単に幻覚と言う向きもあろうが、一旦そういうものを真剣に探求してみる中から、やはり「愛の神」の存在がありそうということが実証的に示される可能性は未だ否定できないように思う。(注:モンロー研究所のことは、特に坂本政道氏の著作「死後体験」シリーズに詳しい。坂本氏自身が、とてつもなく大きな愛の存在に何度も出会っていると書かれている。)要するに、人間の脳の意識を超えた領域に神的な意識が存在することを、人間が体験的に垣間見ることが、もしかしたら、あり得るかも知れないという訳だ。だから「不可知論」でつっぱねるだけでは能がないかも知れないと思う次第。この点、RD博士と一度話しがしてみたいとも思う。RD博士はその著作の論述から、そういうことに対しても頭ごなしで幻覚だと決め付けるような人ではないように思うから。むしろ彼の言うように、世の神学者たちは、「科学は科学、神学は神学」と線を引き過ぎて、そこで思考や探求や議論を停止させてしまっているようにも思う。

ウインク ついでに、ちょっと「神学」という学問について、私の思っていることを、一言いわせてもらう。もしRDに納得してもらえるような自然科学としての神学があり得るとすると、それは仮説実証的なものになるので、上記のモンロー研究所の体験などを実証的に調査・研究するようなものになろう。しかし、今、大学の学科として存在する神学は、神そのものの学問ではない。正確に言うと、人類が神のことをどう考えてきたかという、神に対する人間の思いを体系化したものである。それは立派な学問であるが、人文科学である。神そのものを解析したものではない。神は、理科の実験で解剖される蛙ではないのだから。しかし、恰も、神学が、神に関する絶対的真理を、神から啓示的に授かったものであるかのように権威付けて言う時、確かにそれはRDの批判して止まないドグマになってしまうと思う。神学は、神への人間の思いを体系化する重要な学問の一つではあろうが、信仰にとって必須なものではない。音楽の理論が分からなくても、音楽を愛することができるのに似ている。 Nat

神は妄想? その2

怒り リチャード・ドーキンス(RD)が目の敵にしている人たちは、必ずしも、キリスト教なりイスラム教を信じて生きている普通の人たちではない。彼の敵は、神学者や、創造論者(進化を否定する論陣を張る人たち)など、尤もらしい立論を主張する宗教関係者である。RDからすると普通の信者は、このような宗教関係者の誤った教えに染まってしまっている“犠牲者”のようなものということだろう。彼は、特に子どもたちに小さい頃から、このようなマインドコントロールすることのもたらす害悪を、人類にとっての大きな問題として憂慮しているのである。

怒る 彼の本「神は妄想」の中で最初に批判されるのは、例えばカトリックで、神に連なる、9つの位階に配置された天使など、神の世界の“細部”につき、恰も見てきたように権威的に説く宗教家である。確かに、世界のどの主なる宗教でも、時代を経て継承されていく中で、このように細部の体系までが整備される傾向にある。これはそれにのめり込む人には詳しくて尤もらしくていいのだろうが、そもそも疑いをもって聞いている人には、堪らない悪趣味な話にしか聞こえまい。“霊界”を経験した人で、霊界には層があるという人が多いので、実際に霊能者等には9つの層などということが体験されるのかも知れないが、RD同様、私もそういう話ばかり強調されると着いていけない。

アウト しかし、彼がもっと本質的に批判するのは、「科学は科学、神学は神学」という主張なのである。この点を次回述べる。 Nat

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