前回、その2で、聖書の天地創造物語は生物の発生の経緯に関する「事実認識」を述べたものではなく、神が人間に注いだ想いに関する著者の「信仰告白」であると書いた。生物の発生経緯に関する「事実認識」に迫ろうとする進化論と、「神の想い」に迫ろうとする信仰告白としての創世記とは、別種の事柄に迫ろうとしたものであることになる。では、この進化論と、そのような神への信仰とは両立するのであろうか?
先ず進化論だが、進化論に挑戦した学者の最大の動機は何か? 彼らも、いや彼らこそ、生物や生命の不思議さに対する畏敬・驚き・感激を最も強く感じた人たちに違いない。何故、生物はこのように精巧な仕組みなのか? しかも、それが単細胞から進化して発生してきたとしたら、その進化の経緯や仕組みは一体どうなっているのか? 彼らは、この疑問に取りつかれた人たちである。その答えとして「神のみ業」である、とだけしか言わなければ、学者としては失格であろう。進化論学者や生物学者の中にも多数のクリスチャンがいるだろうが、彼らとて、神が単に“魔法”で生物を生み出し、進化させたわけではないことを知っているからだ。神の偉大さを思えば思うほど、神が実際にはどのような驚くべき仕組みで生命を創り、進化を起こしたかを知りたくなるのだ。偉大なマジシャンの手品の種明かしを知りたくなるのと同じだ。そして、その仕組みは、「神」という主語を極力使わないで、自然界を支配する法則だけで、どこまで説明できるかが彼らの勝負なのである。
このように学者が考える進化論は、私の感じでは、大きく分けて二つの派に分かれる。生物というのは、無機物とは違う原理で進化していると考える、いわば“有機物派”。そして、どこまでも、生物を高級な無機物のロボットと看做して、無機物と共通の原理で進化していることを説明しようとする“無機物派”だ。有機物派は、とにかく生物には、進化しようとする何かが内部に秘められているとする。トカゲは飛ぼうとして羽根を生やして鳥に進化したというのだ。京大の今西錦司先生は、フィールドで生物を観察してきた立場から、とにかく生物とはそういうものだと言い切る。しかし、その「生物に内在する、進化させる何か」を探して生物を分子レベルにまで分解して調べても、なかなか、その「何か」は見つからない。
だから無機物派は、遺伝子の偶然の変化がその「何か」であって、トカゲの中で偶然に体から羽根状のものが生えた変なトカゲが発生して、偶々空を飛べて生存に都合が良かったから繁栄し、鳥になったと説明する。今では有機物派は少数派だ。有機物派は雰囲気としては分かりやすいが、「何か」が分からない所が欠点。一方、無機物派は結局、大事なところを「偶然」で済ます所が欠点。小進化の説明には向いていても、鳥の発生のような大進化は偶然だけでは無理がある。実は、生命の発生も、無機物派は、複数のアミノ酸や酵素が偶然に寄り集まってーーといった、またしても「偶然」で済ますのだ。このように、実は、生命に関する科学は、はっきり言ってまだ全く遅れている。結局、何故、空を飛ぶトカゲである鳥が出来たのかの説明は十分出来ていない。
しかし、ここで、「そりゃ見ろ、だから神さまが鳥を創ったのだ」などと言っても何も進歩しない。信仰の問題として、神さまが鳥を創ったと信じるのは、信じる人の勝手であるし、意味としては、全くその通りであろう。しかし、神が、どうやって鳥を創られたのかを知りたい人もいるのだ。だから、遺伝子の分子を細かく研究したり、化石を並べてみたりして、「うーん」とうなっているのが現状である。
ここからはちょっとオカルト風に聞こえるかも知れないが、生命が発する「気」(一種の電磁波)といったまだ未解明のものの科学的研究も進んでいない。私の直感だが、生物の「気」の研究あたりが、進化論の行き詰まりを打破する新しい科学を生むような気もする。
この記事における私の結論: 神さまの創られた自然も命も生物も、まだまだ神秘に包まれている。進化論などの科学は、まだ神秘に肉薄努力中に過ぎない。神への信仰と、科学の進歩は、勿論、矛盾なんかしない。両立する。というか、科学はまだ進歩し切れていない。最後は「偶然」で済ませるしかないレベルだから、科学は、信仰の根拠を否定するものを提示していないのだ。もし仮に科学がこの世の法則や仕組みを全て解明できたとしても、最後に残る問題は、では、その法則と仕組みは、どうやって出来たのか?ということだ。この世の法則と仕組みを創ったもの、それを「神」というしかない。そして、次なる問題は、その「神」は人間から遠い存在か、人間に近い存在かだ。ここから信仰の世界が始まる。
敬虔なクリスチャンでもあったニュートンは、晩年、自分を真理の大海の浜辺で真理のかけらの小さな砂粒を拾っている赤子のようなものだと言った。神の創られた天地は、それほど広く深く大きいのである。 Nat
先ず進化論だが、進化論に挑戦した学者の最大の動機は何か? 彼らも、いや彼らこそ、生物や生命の不思議さに対する畏敬・驚き・感激を最も強く感じた人たちに違いない。何故、生物はこのように精巧な仕組みなのか? しかも、それが単細胞から進化して発生してきたとしたら、その進化の経緯や仕組みは一体どうなっているのか? 彼らは、この疑問に取りつかれた人たちである。その答えとして「神のみ業」である、とだけしか言わなければ、学者としては失格であろう。進化論学者や生物学者の中にも多数のクリスチャンがいるだろうが、彼らとて、神が単に“魔法”で生物を生み出し、進化させたわけではないことを知っているからだ。神の偉大さを思えば思うほど、神が実際にはどのような驚くべき仕組みで生命を創り、進化を起こしたかを知りたくなるのだ。偉大なマジシャンの手品の種明かしを知りたくなるのと同じだ。そして、その仕組みは、「神」という主語を極力使わないで、自然界を支配する法則だけで、どこまで説明できるかが彼らの勝負なのである。
このように学者が考える進化論は、私の感じでは、大きく分けて二つの派に分かれる。生物というのは、無機物とは違う原理で進化していると考える、いわば“有機物派”。そして、どこまでも、生物を高級な無機物のロボットと看做して、無機物と共通の原理で進化していることを説明しようとする“無機物派”だ。有機物派は、とにかく生物には、進化しようとする何かが内部に秘められているとする。トカゲは飛ぼうとして羽根を生やして鳥に進化したというのだ。京大の今西錦司先生は、フィールドで生物を観察してきた立場から、とにかく生物とはそういうものだと言い切る。しかし、その「生物に内在する、進化させる何か」を探して生物を分子レベルにまで分解して調べても、なかなか、その「何か」は見つからない。
だから無機物派は、遺伝子の偶然の変化がその「何か」であって、トカゲの中で偶然に体から羽根状のものが生えた変なトカゲが発生して、偶々空を飛べて生存に都合が良かったから繁栄し、鳥になったと説明する。今では有機物派は少数派だ。有機物派は雰囲気としては分かりやすいが、「何か」が分からない所が欠点。一方、無機物派は結局、大事なところを「偶然」で済ます所が欠点。小進化の説明には向いていても、鳥の発生のような大進化は偶然だけでは無理がある。実は、生命の発生も、無機物派は、複数のアミノ酸や酵素が偶然に寄り集まってーーといった、またしても「偶然」で済ますのだ。このように、実は、生命に関する科学は、はっきり言ってまだ全く遅れている。結局、何故、空を飛ぶトカゲである鳥が出来たのかの説明は十分出来ていない。
しかし、ここで、「そりゃ見ろ、だから神さまが鳥を創ったのだ」などと言っても何も進歩しない。信仰の問題として、神さまが鳥を創ったと信じるのは、信じる人の勝手であるし、意味としては、全くその通りであろう。しかし、神が、どうやって鳥を創られたのかを知りたい人もいるのだ。だから、遺伝子の分子を細かく研究したり、化石を並べてみたりして、「うーん」とうなっているのが現状である。
ここからはちょっとオカルト風に聞こえるかも知れないが、生命が発する「気」(一種の電磁波)といったまだ未解明のものの科学的研究も進んでいない。私の直感だが、生物の「気」の研究あたりが、進化論の行き詰まりを打破する新しい科学を生むような気もする。
この記事における私の結論: 神さまの創られた自然も命も生物も、まだまだ神秘に包まれている。進化論などの科学は、まだ神秘に肉薄努力中に過ぎない。神への信仰と、科学の進歩は、勿論、矛盾なんかしない。両立する。というか、科学はまだ進歩し切れていない。最後は「偶然」で済ませるしかないレベルだから、科学は、信仰の根拠を否定するものを提示していないのだ。もし仮に科学がこの世の法則や仕組みを全て解明できたとしても、最後に残る問題は、では、その法則と仕組みは、どうやって出来たのか?ということだ。この世の法則と仕組みを創ったもの、それを「神」というしかない。そして、次なる問題は、その「神」は人間から遠い存在か、人間に近い存在かだ。ここから信仰の世界が始まる。
敬虔なクリスチャンでもあったニュートンは、晩年、自分を真理の大海の浜辺で真理のかけらの小さな砂粒を拾っている赤子のようなものだと言った。神の創られた天地は、それほど広く深く大きいのである。 Nat