♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

進化論と神さま-その3

笑顔  前回、その2で、聖書の天地創造物語は生物の発生の経緯に関する「事実認識」を述べたものではなく、神が人間に注いだ想いに関する著者の「信仰告白」であると書いた。生物の発生経緯に関する「事実認識」に迫ろうとする進化論と、「神の想い」に迫ろうとする信仰告白としての創世記とは、別種の事柄に迫ろうとしたものであることになる。では、この進化論と、そのような神への信仰とは両立するのであろうか?

ニワトリ 先ず進化論だが、進化論に挑戦した学者の最大の動機は何か? 彼らも、いや彼らこそ、生物や生命の不思議さに対する畏敬・驚き・感激を最も強く感じた人たちに違いない。何故、生物はこのように精巧な仕組みなのか? しかも、それが単細胞から進化して発生してきたとしたら、その進化の経緯や仕組みは一体どうなっているのか? 彼らは、この疑問に取りつかれた人たちである。その答えとして「神のみ業」である、とだけしか言わなければ、学者としては失格であろう。進化論学者や生物学者の中にも多数のクリスチャンがいるだろうが、彼らとて、神が単に“魔法”で生物を生み出し、進化させたわけではないことを知っているからだ。神の偉大さを思えば思うほど、神が実際にはどのような驚くべき仕組みで生命を創り、進化を起こしたかを知りたくなるのだ。偉大なマジシャンの手品の種明かしを知りたくなるのと同じだ。そして、その仕組みは、「神」という主語を極力使わないで、自然界を支配する法則だけで、どこまで説明できるかが彼らの勝負なのである。

熱帯魚 このように学者が考える進化論は、私の感じでは、大きく分けて二つの派に分かれる。生物というのは、無機物とは違う原理で進化していると考える、いわば“有機物派”。そして、どこまでも、生物を高級な無機物のロボットと看做して、無機物と共通の原理で進化していることを説明しようとする“無機物派”だ。有機物派は、とにかく生物には、進化しようとする何かが内部に秘められているとする。トカゲは飛ぼうとして羽根を生やして鳥に進化したというのだ。京大の今西錦司先生は、フィールドで生物を観察してきた立場から、とにかく生物とはそういうものだと言い切る。しかし、その「生物に内在する、進化させる何か」を探して生物を分子レベルにまで分解して調べても、なかなか、その「何か」は見つからない。

ヒヨコ だから無機物派は、遺伝子の偶然の変化がその「何か」であって、トカゲの中で偶然に体から羽根状のものが生えた変なトカゲが発生して、偶々空を飛べて生存に都合が良かったから繁栄し、鳥になったと説明する。今では有機物派は少数派だ。有機物派は雰囲気としては分かりやすいが、「何か」が分からない所が欠点。一方、無機物派は結局、大事なところを「偶然」で済ます所が欠点。小進化の説明には向いていても、鳥の発生のような大進化は偶然だけでは無理がある。実は、生命の発生も、無機物派は、複数のアミノ酸や酵素が偶然に寄り集まってーーといった、またしても「偶然」で済ますのだ。このように、実は、生命に関する科学は、はっきり言ってまだ全く遅れている。結局、何故、空を飛ぶトカゲである鳥が出来たのかの説明は十分出来ていない。

怒り しかし、ここで、「そりゃ見ろ、だから神さまが鳥を創ったのだ」などと言っても何も進歩しない。信仰の問題として、神さまが鳥を創ったと信じるのは、信じる人の勝手であるし、意味としては、全くその通りであろう。しかし、神が、どうやって鳥を創られたのかを知りたい人もいるのだ。だから、遺伝子の分子を細かく研究したり、化石を並べてみたりして、「うーん」とうなっているのが現状である。

ドキドキ大 ここからはちょっとオカルト風に聞こえるかも知れないが、生命が発する「気」(一種の電磁波)といったまだ未解明のものの科学的研究も進んでいない。私の直感だが、生物の「気」の研究あたりが、進化論の行き詰まりを打破する新しい科学を生むような気もする。

びっくり この記事における私の結論: 神さまの創られた自然も命も生物も、まだまだ神秘に包まれている。進化論などの科学は、まだ神秘に肉薄努力中に過ぎない。神への信仰と、科学の進歩は、勿論、矛盾なんかしない。両立する。というか、科学はまだ進歩し切れていない。最後は「偶然」で済ませるしかないレベルだから、科学は、信仰の根拠を否定するものを提示していないのだ。もし仮に科学がこの世の法則や仕組みを全て解明できたとしても、最後に残る問題は、では、その法則と仕組みは、どうやって出来たのか?ということだ。この世の法則と仕組みを創ったもの、それを「神」というしかない。そして、次なる問題は、その「神」は人間から遠い存在か、人間に近い存在かだ。ここから信仰の世界が始まる。

笑い 敬虔なクリスチャンでもあったニュートンは、晩年、自分を真理の大海の浜辺で真理のかけらの小さな砂粒を拾っている赤子のようなものだと言った。神の創られた天地は、それほど広く深く大きいのである。  Nat

進化論と神さま - その2

笑顔 進化論を肯定するということは、旧約聖書の天地創造物語は一種の「神話」だと看做すことになるのだろうか。天地創造物語を「神話」と看做すなら、イエスキリストの十字架の物語についてはどうだろう? その後の、弟子たちが力に満たされて伝道を始めていく物語についてはどうだろう? それも「神話」というのか? 天地創造だけを「神話」とし、イエスや弟子たちの物語は「事実」とするなら、その根拠は何か?

初心者 私も、まだ、これらの問いへの答えを模索している途中かも知れない。でも、今の考えを書かせてもらう。まず、私が聖書という書物をどう思っているかだ。聖書を書き編纂したのは人間である。だから、聖書の文章はすべて人間の書いた文章である。人間として明確な意識を持って書くべきことを書いたのだ。しかし、その人たちに、そういう文章を書き、編纂しようという強い思いを起こさせたのは神だと私は信じている。だから、一つ一つの文そのものは「人間の文章」であっても、その奥に、神の心がある。「人間の文章」と「その奥にある神の心」。教会ではこれを併せて全体として「み言葉」と言っている。「人間の文章」そのものが字句通り「神の心」ではないのだ。人間に「人間の文章」を書こうとする心を持たせたのが「神の心」なのである。だから、聖書の言葉で都合のいいものを「神の文章」、都合の悪いものを「人間の文章」として選別するのではない。字句そのものは全て「人間の文章」、しかしその全ての奥には「神の心」があると言っているものだ。

本 だから、私にとって、天地創造物語も、イエスの十字架の物語も、弟子たちの伝道物語も、文章そのものは、一義的には「人間の文章」なのである。書いた人間の、その当時の知識や時代背景が、当然そのまま反映されている「人間の文章」である。しかし、繰り返すが、その人間がわざわざ後世の人にどうしても伝えたいと強く思った、その強い思いの背景にこそ神の心があると信じられるのである。

山 天地創造。神がこの世を創った。いや、むしろ、この世を創った大元(おおもと)のことを人は「神」と呼んだ。そして、その神がこの世に命を創られた。神は創られた命を愛し、放ってはおかれなかった。この信仰こそが、旧約聖書を書いた人の人生を捉え、魂を揺さぶった喜びの思いであったのだ。天地創造を書いた創世記、その後の時代の出エジプト記。神がこの世と命を創り、今もその命を愛し育んでくださっていると信じた古代の人たちの心の躍動が伝わってくるではないか。私は、その人たちと同じものを感じ、受けとめ、同じように心の躍動を感じつつ生きたい。その、聖書が私の心に訴えかけてくるものこそを、神の働きかけとして受けとめ、信じて生きたいのである。

太陽 旧約聖書の創世記の文章では、天地創造の5日目に神は生き物を創り、そして6日目に人を創ったとある。この「5日目」とか「6日目」というような、人間が表現として使った字句そのものに拘る必要があるだろうか。著者の人間が強く感じたことは、神さまが天地を創り、その後、命を地上に創り、そして最後に神が最も愛する存在として人を創ったということである。このように神が人に注いだ特別の想いを信じて、このことを書いたのである。

熱帯魚 生物の38億年の進化史上、人類(ホモ・サピエンス)が登場したのは最後の十数万年のことと思われる。しかし、創世記の著者が、人間だけは最後の6日目に創造されたと書いたのは、人類が進化の最後に登場したことを知っていて、そのことを言いたかったからではないだろう。著者は、神が人間を生物の中でも一番後に特別の想いを込めて創られたという信仰を述べているのだ。だから、この物語は所謂「神話」ではない。この物語は、「神の人間への愛」の信仰告白なのである。(その3へと続く。)  Nat

進化論と神さま ― その1

笑顔 この間、アメリカでは今でも人口の6割以上が進化論を否定し、聖書の天地創造物語を聖書の字句通り信じているとの調査結果の報道があった。アメリカでは進化論を教科書に載せることを禁止している州もあるようだし、また多くのイスラム諸国でも同様に進化論はご法度だ。このように、日本人の想像以上に、世界では、進化論を否定し「神による生物の創造」を信じている人口が多い。

笑い 実は私は大学の頃、進化論に魅せられ、可なりの数の進化論の書物を読み、その後もサイエンス誌で進化論特集が出ると買い漁って読んだものだ。小生にしても進化論学者にしても、関心事はもっぱら「進化があったかどうか」ではなく、進化があったことを大前提にした上での「進化の仕組み」である。ただし、私は、学生時代から「ダーウィンの自然淘汰説」+「突然変異説」だけでの説明(ネオ・ダーウィニズム)、つまり、ある生物のDNAの突然の“故障”で偶然に生まれた奇形児が偶々環境に合っていたらそれがはびこるのが進化だというような説明には納得しがたかった。むしろ、日本では京大の今西錦司先生、或は、古いがフランスの哲学者ベルグソンの主張のように、もう少し“生物固有の進化エネルギー”のようなものを認めないと説明に行き詰まると思っていた。例えば、タコの目と人の目の圧倒的な類似性を、偶然と環境による自然淘汰だけで説明するのは無理があるという具合だ。その後、だいぶ進化論と分子生物学が発展し、遺伝子の中に変化を進める為のプログラムが組み込まれていることの発見などもあり、進化論も単に「偶然の奇形児の生き残り」だけで説明する段階よりは進んできているようである。

本 本題に戻ろう。
 日本では、聖書の天地創造物語を字句通り信じているクリスチャンは殆どいないであろう。神が天地を創造し命を創ったということを、意味論としては「真理」であるとしつつ、その神が創った天地や命の仕組みを研究する科学は科学で、それとは別のことだと、案外すっきり割り切っている。特に矛盾がないかのようだ。しかし、一旦聖書を字句通り信じることを止め、もし意味のある部分のみを取り入れ始めると、人間的なご都合主義に流れる危険性を持っている。アメリカの聖書原理主義者たちはこの点を鋭く突いてくるのである。旧約聖書の天地創造物語が“神話”というなら、新約聖書のイエスキリストの生涯・刑死・復活も“神話”なのか? どういう基準でそうだとか、そうでない、という判断をしているのか? このように切り込んでくるのである。実は、これにしっかり答えられる日本のクリスチャンは少ないようにも思う。むしろ、日本人全体では、そもそも聖書全体を特に信じていない人が大多数だから、クリスチャンも、他の人から滅多にそんな切り込まれ方はしない。だから、逆にそういう切り込まれ方には弱いのではないか。

びっくり しかし、その大多数の日本人に、信じていることをしっかり伝える為にも、この辺のことは曖昧にしない方がいい。我々が、聖書というものをどう考えているのか、神の天地創造の何をどう信じているのか、イエスキリストの生死の何をどう信じているのか、今一度、自分の中で反芻する必要があると思う。「進化論と神さま」は、その為のよいキッカケではないか。 (続きは「その?」で)    Nat

記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

NAT

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ