先週の日曜、私の行っている教会で、色々な話し合いをした。その中で、クリスチャンは「お金」というものにどういうスタンスを持って生きるべきかも話した。
割と多かった意見は「お金そのものは罪とか善とか言うことはなくて、それをどう使おうとするかによって、お金の意味が変わってくる」といった考え方だ。要は「クリスチャンも、大いにお金を儲けてもいいけど、それを、然るべく、教会への献金とか、可哀想な人に寄付するとか、そういうことに振り向けるなら結構だ」というようなことだろう。
でも、そういうことだけだろうか?なんとなく、違う気もした。
6月25日の私のBlog記事「人はお金のみにて生きるものにあらず」で書いたが、先ずは「神さまは私たちがお金を必要としていることを痛いほどご存知で必要なお金は神さまがちゃんと下さる」ということを、ひたすらに信じきれるかどうかだ。そして、その神さまに、必要だと思うお金のことは祈る。主の祈りの「今日のパンを今日お与えください」と同じように「神さまお金が要ります」と祈ればいい。そして、自分で稼ぐなり、誰かがくれるなりして手に入ったお金のことを、本当に神さまが下さったと信じて感謝する。このような、信仰こそが、先ず問われているのだと思う。そのお金で教会に献金するにしろ、おいしいラーメンを食べに行くにしろ「自分で稼いだ自分のお金を自分がどう使おうと自分の勝手」と思ってやるのか、「神さまが与えて下さったお金」としてそうするのか、この「心」の有無が問われるのであって、お金の使途が問われるのではないと思う。使途を決めるのも「心」なのだから。 Nat
割と多かった意見は「お金そのものは罪とか善とか言うことはなくて、それをどう使おうとするかによって、お金の意味が変わってくる」といった考え方だ。要は「クリスチャンも、大いにお金を儲けてもいいけど、それを、然るべく、教会への献金とか、可哀想な人に寄付するとか、そういうことに振り向けるなら結構だ」というようなことだろう。
でも、そういうことだけだろうか?なんとなく、違う気もした。
6月25日の私のBlog記事「人はお金のみにて生きるものにあらず」で書いたが、先ずは「神さまは私たちがお金を必要としていることを痛いほどご存知で必要なお金は神さまがちゃんと下さる」ということを、ひたすらに信じきれるかどうかだ。そして、その神さまに、必要だと思うお金のことは祈る。主の祈りの「今日のパンを今日お与えください」と同じように「神さまお金が要ります」と祈ればいい。そして、自分で稼ぐなり、誰かがくれるなりして手に入ったお金のことを、本当に神さまが下さったと信じて感謝する。このような、信仰こそが、先ず問われているのだと思う。そのお金で教会に献金するにしろ、おいしいラーメンを食べに行くにしろ「自分で稼いだ自分のお金を自分がどう使おうと自分の勝手」と思ってやるのか、「神さまが与えて下さったお金」としてそうするのか、この「心」の有無が問われるのであって、お金の使途が問われるのではないと思う。使途を決めるのも「心」なのだから。 Nat