♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

神さまってホントにいるの? その5

笑顔 その?で、私が結局神さまを信じて生きることになったのは、同じく信じて生き、信じて死んだ親父からの「連鎖反応」だと書いた。そして、このような連鎖反応は、ずっと昔にまで遡る。キリスト教の場合は、2000年前のイスラエルが連鎖反応の「震源地」。そこでは一体何があったのか?

笑い その頃のイスラエルでは、殆どの人がユダヤ教、或いは周辺部に行くとバール神への信仰という世界。だから「神さまってホントにいるの?」と、表だっていう人は少なかったはずだ。むしろ、「どの神?」そして「その神はあなたとどういう関係にあるの?」が問われていたと思う。しかし、実は「本当に神さまはいて、この私を顧みて下さっているのだろうか?」との深い疑問、深い絶望に囚われていた人は、下層階級を中心に大勢いたのである。このような人達の中から、人との出会いの中で「神」を感じ・信じた人達が登場するのである。これが、私がここに書いている「震源地イスラエルで起こった連鎖反応の出発点」なのである。

キラキラ それはイエスという人との出会いであった。

悲しい ここにある女がいた。若い頃から病気でずっと出血が止まらず、効かない治療に全財産を使い果たしてしまったばかりか、皆から病気なのは「罪で穢れているから」と蔑まされてきた女性。体も心も財産も全て限界に達していた彼女は、群集に紛れて後ろからそっとイエスの衣に触れる。イエスは自分から力が出て行くのを感じた。その瞬間、彼女の病気は癒される。しかし、癒しはそこで留まらない。立ち止まったイエスは、振り返り、自分に触れた女性を探すのである。そして女性を見つめながら「あなたは罪で穢れてなんかいない。むしろあなたの信仰があなたを救ったのだよ」と優しく語りかけ、その女性の心も魂も完全に癒すのである。「こんな不条理な世に神などいるのか」と思っていたこの女性は、この出来事により“活ける神”に出会ったのである。イエスが「神そのもの」かどうかは分からない。しかし、その力において、その愛において、まさに「神に繋がっている」としか思えない人に出会ったのである。

泣く  しかし、そのように力と愛に満ちたイエスが、何故か突然、無抵抗に逮捕され、そのまま十字架で刑死してしまう。周囲にいた弟子たちは落胆し恐れ逃げ惑う。そのままでは、未来への「連鎖反応」は発信されそうもない情勢になってしまったのである。しかし3日目の朝、彼らは魂を揺り動かされる「とてつもない体験」をするのだ。これが、その後、2000年もの間止むことのない「連鎖反応」を生む「とてつもない出来事」になるのだ。その「とてつもない体験・出来事」とは一体何だったのであろうか? これにつき、その?で書きたい。  Nat

神さまってホントにいるの? その4

笑顔 その?までで、結局、人が神を信じて生きようと決める時、それを決めさせる最も大きなものは「神を信じて生きる人との出会い」ではないかと書いた。もし、そうだとすると、まず誰かが神を信じて生きていた。その人に出会った別の人が又神を信じて生きるようになった。そして、又別の誰かがそれに出会って、その人も神を信じて生きるようになって。。。という具合に“連鎖反応”になる。そんな馬鹿なと思うかも知れないが、実際、信仰は“連鎖反応”なのだ。キリスト教も2000年前、イエス亡き後でもやっぱり信じて生きようとしたぺテロ等弟子たち、そしてイエス・キリストの初期信仰者であるパウロたち、こういう人達に出会った人達が次々と連鎖反応を起こしたのだ。その連鎖反応は、ずっと続いている。2000年の間、不思議にも減衰してしまわないで続いている。

にっこり では、この私こと、Natに起こった連鎖反応はどうなのか? 客観的に言うと結局親父からかなと思う。その?で書いたが、親父は大学の先生兼牧師だった。私は親父が40歳過ぎてから初めて生まれた男の子だ。だから年が近い友達のような父子ではなかったが、親父がその色々あった人生の中で、結局神さまを深く信じて生きているのは良く分かっていた。私が最初に神さまを信じて親父から洗礼を受けたのは中学2年の時だが、もう一度信じ直したのは、やっぱり親父が死んだ時だろう。何百回も神の存在を疑ってみた私だが、私からすると疑わしいものを信じ、信じ切って生き、信じ切って死んで行った親父の信じたものを、思い込み・幻想として葬りされるであろうか。私は結局、そのように「親父が信じて生き、信じて死んだもの」の重みに圧倒されたのである。人を最後まで突き動かすもの。これを私はどうしても軽んじることが出来なった。

まる このように、実質、私は親父からの連鎖反応を受けた。しかし、では親父は誰から?多分、親父の親父(私の祖父)とお母さん(私の祖母)から。(彼らは開拓伝道をした牧師夫婦であった。) でも、彼らに連鎖反応を与えたのは誰? このように辿っていくと、多分、どんどん昔に遡る。名前などは分からないが、ずっと辿ると必ず連鎖反応の源の誰かがいるはずだ。どこかで、日本に初めて連鎖反応をもたらした人達にまで行き着くに違いない。

びっくり しかし、連鎖反応を遡ると、そこでは終わらない。ずっとずっと遡ると、(少なくともキリスト教の場合は)2000年前のイスラエルにまで遡ってしまう。そこに連鎖反応の根源的な「震源地」があるはずだ。そのことをその?で書きたい。    Nat


神さまってホントにいるの? その3

笑顔 その?で「神さまってホントにいるの?」ということを考えに考えた "精神の放浪"の末、結局、眼前の人間・動物などの「いのち」をどうしても単なるモノと思えない、ならば「いのち」の源を想定せざるを得ない、それが神だと思うようになったと書いた。しかし、これも数学の定理のように証明されたものでも何でもない。自分の心の中の「想い」に過ぎない。

びっくり 数学で思い出したが、昔、パスカルという天才的数学者がいた。彼は割り切っていて、「神はあるともないとも証明できない」「だが、あると思って生きても、さして失うものはない。しかし、ないと決めて生きて、もし結局あった場合の神からのペナルティーは無限大であるリスクがある。よって神を信じて生きる方が得策である。」と言っている。ここで分かることは、パスカルのような天才学者でも「神」の有無について確証を得ることは出来ないということ。これ当たり前だが、凡人である我々が「神」の有無について、考え込んでも何も得られないということだ。もう一つは「神」というものはあるとかないとかの「認識」の選択ではなく、どちらの想いで生きるかという「生き方」の選択だということだ。もっとも、パスカルのようにリスク論から信じて生きる選択をするのを好きかどうかは別だが。

笑い ということで、神というのは、信じられるかどうかではなく、信じて生きるという生き方を選ぶかどうかなのだ。生き方の問題だ。しかし、私も、目の前の「命」の奥に神を想定したが、それだけで、そのような「命の奥にある神」を信じて生きる生き方を選べたわけではない。人が生き方を決める時、どうしても、もう一つのインパクトが必要なのだ。それは何であろうか? その?で、人が神を信じるのは、一つは自然の不可思議現象から(これもう昔のパタンだが)、もう一つは人間の感受性で直接神への想いを持つパタンと書いた。実はもう一つ、最もインパクトの大きいものがある。それは、神を信じて生きる人との出会いである。次はその事について書く。  Nat
記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

NAT

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ