♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

罪って何??

みかるさんのBlogにコメントさせてもらったら、またとても重い疑問を頂戴してしまいましたので、それに対してちょっと書きます。
 要するに、私のコメントの趣旨が、私としても、みかるさんのように「姦淫」をしている状態は、一応「罪」とは思ってるのに、「厳しいクリスチャン」のように直ぐそれを非難しないだけで、『時間はかかっても、いつかイエス様が、それを「直して」くださるでしょう』と一見「やさしい」ことを言っているだけじゃないですか?との問いですね。---大変鋭い問いで、もう、たじたじとなりますが、何とか私なりにお答えします: 

 先ず、私にとって罪とは何か?というと、それは「神さまから見て罪なこと」であって、「聖書のどこかにこう書いてあるから自動的に罪」なんてことではないということ。
 次に、人間として「神から見て罪」と感じる(べき)ことは何か?というと、少なくとも私としては『その行為、その思いに愛があるか』ということになります。
 でも、これでは賢明な読者から、「罪」を「愛なき行為・思い」に置き換えただけだ!お前のいう「愛」とは何か?と問い詰められそうですね。
 
 私としては、私のする殺人は殆どの場合、相手の人を心から愛する余り殺すわけではないだろうゆえ、殆どの場合は「愛なき行為」と感じると思います。でも、ちょっと極端な例ですが、ある人がどこかで多くの一般人を無差別殺害する巨大爆弾を落とそうとしている時で、その人を殺すしか防止策がない場合、祈りながらその人に銃を向けることはあると思います。罪は形じゃないから、どうしても殺すことが、多くの命を愛するための苦渋の選択なんてこともあり得なくはないでしょう。

 でも、私にとっても一番難しいのが、男女の愛です。私の行き着いた「愛」の意味は、勿論「好き」ではなくて、「その人の存在をとても大切と思う、そのために自分が多少辛くても、その為に何か出来るほど・・・」といったところですが、男女の愛は、そういう愛と、「自分の幸せ感覚の追求」というのが、混然一体なんですね。もっとも、いわゆる男女に限らぬ人道的愛でも、ちょっとは自己陶酔感とかを伴いますので、完全な純粋愛、アガペーみたいなのは、殆どないのですが、男女のは、それが更に悩ましい。相手を愛してるのと、自分を愛してるのが、相当混じり合う。
 更に、それを、結婚してる相手以外に感じてしまったとしたら? 勿論、そういう気持ちを結婚相手が知ったら、その結婚相手が普通は傷つくから、その意味では、結婚相手と、それ以外の相手を同時に愛すること(どちらも傷つかず喜ぶ状態)は、特に一夫一婦制文化が染み込んでいる社会では、かなり難しい。でも全くないかどうかは分からない。しかし、結婚相手との間が、もはや、そんなことでは傷つかないといった不可逆的に冷めた関係になっている場合は、成り立つかもしれない。

 といった具合ですが、私の場合の「究極のテスト」はこれです。これって「愛」?これって「神さまから見て罪じゃない?」という疑問への、究極のテストは、その行為について、イエス様が横にいたとして、「イエス様、この行為を祝福してくださいますよね」と自分の心の中で言えるかどうか。勿論、それに答える自分の心は、その社会に染み付いた価値観、これまでに言われてきたこと、などの影響を受ける。でも、それも含めた上で、この「イエス様祝福して」がいえるかどうかへの、真の答えを、時間をかけてでも、祈りながら模索し追及するのが、クリスチャンの人生ではなかろうか。

 みかるさん。もうその答えが出ましたという意味なら、それは、もうただの人間である私の何かいえることじゃないですね。でも、まだ、自分でも模索中なら、時間がかかっても、イエス様が答えを下さるでしょう、と申し上げたのです。以上長くなりましたが、私の回答です。 Nat 

人を先ずそのまま受け止める

みかるさんのBlogのやりとりを見て、非常に心が苦しくなりました。イエスを信じたい、でも、キリスト教の教会という組織は人を裁くからもういやだ悲しい、というやりとりです。私としては、次のことを言いたいです。
 私の中にも悪い嫌な心がいっぱいある。後で自分でも「やばかったな」と思う行為もする。ホントはやったらいいと思うことで、知らんふりもする。でも、そんな私だから、そんな私を全部知っていて、神さまは「イエスの十字架の愛と救い」を、わざわざ、私にも下さった。その結果、私は、今でも、まだまだ弱くずるいけど、一歩一歩神さまの方向に歩いて行こうとして生きている。
 みかるさんの書かれているように、この世的には、ちょっと、やばいかな、という行為をしてしまっている状況になっている人は結構いる。しかも、「どうしても、そうなってしまう」との告白付き。それを、もし、まず、「説諭」して問いただし矯正しようという人たちがキリスト教会を名乗っているなら、すごく悲しい。私は、「どうしてもそうなってしまう人」を、先ずそのまま、受け止めることの出来る自分でありたい。イエスは、あの姦通の女を先ずそのまま受け止め、「この中で罪のない人が先に石を投げなさい」といって、その女に石を投げて処刑しようとした人たちを制した。受け止めた上で、愛情を込めて「もうしないように出来たらいいね」といった。その女は、その瞬間に、結果として変えられたのである。人が何かしてしまう時、大体それなりの理由がある。先ず、そこを受け止めることが出来たらいいと思う。イエスと全く同じようには出来ない。でも、自分自身が(イエスに)受け止めてもらったんだから、人のことも受け止められればいいなと思う。
 みかるさんたち。私のメッセージが聞こえますか? Nat



靖国神社―中国からみたら?

★前回、少なからざる日本人の心情の中に、A級戦犯者だけを悪者にし切れないものがあるということを書いた。では、中国側から見て、どうだろう。

★中国といっても、①元の国民党政府、②その後の共産党政府、また、③一般国民という具合に分けて考える必要がありそうだ。

★先ず、1937-45年の8年間続いた日中戦争だが、日本軍の直接の相手は主に蒋介石国民党軍である。国民党軍は実質的に日本軍に敗退し重慶にまで退くが、太平洋戦争の終戦で日本が降伏した後、今度は共産党軍に追われて、台湾にまで逃げるのである。戦後、1951年に連合国側と日本とがサンフランシスコ講和条約を調印した際、国民党は呼ばれなかったが、この条約に基き52年に日本と台湾国民党政権との間で日華平和条約が結ばれて、日本が台湾領土権を放棄する形で台湾国民党との間では戦争処理が完了している。

★しかし、問題は49年に樹立していた中国本土の共産党政権。サンフランシスコには参加が認められず蚊帳の外であった。この共産党政権が日本と漸く取り決めが出来たのは、1972年の日中共同声明においてである。日本は戦争責任を反省し、中国は「日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」ことを宣言したのである。またこれを受けて、日本は79年から今に至るまで3兆円余りの経済協力(賠償金ではなく支援)を行ってきている。政府同士の整理としては、これで完了しているといえる。

★では、何故、中国の国民が根深い反感を持つのか、また、何故A級戦犯問題がこのようにトゲになるのか? この辺からは、私の限られた知識からの理解になるが、先ず、A級戦犯問題。極東国際軍事裁判の際、蒋介石は日本の侵略戦争を一部の軍部(A級戦犯)の責任に帰して日本への戦時賠償請求権を放棄した。また、後の72年の毛沢東・周恩来の日中共同声明でも、これに習い、戦争責任をひとえにA級戦犯に帰して賠償を放棄すると国内的に整理し、むしろ経済支援の実を取ることにしたのである。だから、今さら日本側にA級戦犯に同情的な態度を採られては、賠償を放棄した大前提が崩れて困るのである。

★次に中国の一般国民はどうか。これに絡んで、江沢民の反日教育が背景と良く言われている。また、日本軍による「南京虐殺事件」(37年)についても実態よりも遥かに大規模であったかのように政治的に喧伝してきているとか、一方同じ年の通州(北京の東)での中国兵による日本人居留民虐殺については一切国民に教えない等という“情報操作”も良く指摘される。そういう面もあろうが、私は私見として、中華・漢民族という最も誇り高い民族からして、本来全く格下の日本に実質敗戦し、米国に救われた、その日本がその後ずいぶん発展をしているという、この構図そのものがそもそも心情的に許せない、このことがずっとベースにあると思う。英仏露は結局ドイツに勝ったのだが、中国は日本に勝てなかったのである。だから、根が深い。

★では、どうしたらいいか? インスタントな解決策は多分ない。ムード的に何か追加の謝罪行為をしようとするのは色々な意味で禍根しか残さない。また史実の認識の違いを色々な立場の日中の学者が集まって解決するとの提案もあるが、60年以上前のことだし、今更「違ってました」とは言えない政治的面子もあるだろう。では、何もせずじっとしているのが一番なのだろうか? 私は少なくとも日本側では、特定の意見・立場に走る前に、どういう異なる意見や史実認識があるのかを、若い人も含めて、より理解を深めるように努めるべきと思う。それで、このちょっと長い文を書いてみた。  Nat
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