みかるさんのBlogにコメントさせてもらったら、またとても重い疑問を頂戴してしまいましたので、それに対してちょっと書きます。
要するに、私のコメントの趣旨が、私としても、みかるさんのように「姦淫」をしている状態は、一応「罪」とは思ってるのに、「厳しいクリスチャン」のように直ぐそれを非難しないだけで、『時間はかかっても、いつかイエス様が、それを「直して」くださるでしょう』と一見「やさしい」ことを言っているだけじゃないですか?との問いですね。---大変鋭い問いで、もう、たじたじとなりますが、何とか私なりにお答えします:
先ず、私にとって罪とは何か?というと、それは「神さまから見て罪なこと」であって、「聖書のどこかにこう書いてあるから自動的に罪」なんてことではないということ。
次に、人間として「神から見て罪」と感じる(べき)ことは何か?というと、少なくとも私としては『その行為、その思いに愛があるか』ということになります。
でも、これでは賢明な読者から、「罪」を「愛なき行為・思い」に置き換えただけだ!お前のいう「愛」とは何か?と問い詰められそうですね。
私としては、私のする殺人は殆どの場合、相手の人を心から愛する余り殺すわけではないだろうゆえ、殆どの場合は「愛なき行為」と感じると思います。でも、ちょっと極端な例ですが、ある人がどこかで多くの一般人を無差別殺害する巨大爆弾を落とそうとしている時で、その人を殺すしか防止策がない場合、祈りながらその人に銃を向けることはあると思います。罪は形じゃないから、どうしても殺すことが、多くの命を愛するための苦渋の選択なんてこともあり得なくはないでしょう。
でも、私にとっても一番難しいのが、男女の愛です。私の行き着いた「愛」の意味は、勿論「好き」ではなくて、「その人の存在をとても大切と思う、そのために自分が多少辛くても、その為に何か出来るほど・・・」といったところですが、男女の愛は、そういう愛と、「自分の幸せ感覚の追求」というのが、混然一体なんですね。もっとも、いわゆる男女に限らぬ人道的愛でも、ちょっとは自己陶酔感とかを伴いますので、完全な純粋愛、アガペーみたいなのは、殆どないのですが、男女のは、それが更に悩ましい。相手を愛してるのと、自分を愛してるのが、相当混じり合う。
更に、それを、結婚してる相手以外に感じてしまったとしたら? 勿論、そういう気持ちを結婚相手が知ったら、その結婚相手が普通は傷つくから、その意味では、結婚相手と、それ以外の相手を同時に愛すること(どちらも傷つかず喜ぶ状態)は、特に一夫一婦制文化が染み込んでいる社会では、かなり難しい。でも全くないかどうかは分からない。しかし、結婚相手との間が、もはや、そんなことでは傷つかないといった不可逆的に冷めた関係になっている場合は、成り立つかもしれない。
といった具合ですが、私の場合の「究極のテスト」はこれです。これって「愛」?これって「神さまから見て罪じゃない?」という疑問への、究極のテストは、その行為について、イエス様が横にいたとして、「イエス様、この行為を祝福してくださいますよね」と自分の心の中で言えるかどうか。勿論、それに答える自分の心は、その社会に染み付いた価値観、これまでに言われてきたこと、などの影響を受ける。でも、それも含めた上で、この「イエス様祝福して」がいえるかどうかへの、真の答えを、時間をかけてでも、祈りながら模索し追及するのが、クリスチャンの人生ではなかろうか。
みかるさん。もうその答えが出ましたという意味なら、それは、もうただの人間である私の何かいえることじゃないですね。でも、まだ、自分でも模索中なら、時間がかかっても、イエス様が答えを下さるでしょう、と申し上げたのです。以上長くなりましたが、私の回答です。 Nat
要するに、私のコメントの趣旨が、私としても、みかるさんのように「姦淫」をしている状態は、一応「罪」とは思ってるのに、「厳しいクリスチャン」のように直ぐそれを非難しないだけで、『時間はかかっても、いつかイエス様が、それを「直して」くださるでしょう』と一見「やさしい」ことを言っているだけじゃないですか?との問いですね。---大変鋭い問いで、もう、たじたじとなりますが、何とか私なりにお答えします:
先ず、私にとって罪とは何か?というと、それは「神さまから見て罪なこと」であって、「聖書のどこかにこう書いてあるから自動的に罪」なんてことではないということ。
次に、人間として「神から見て罪」と感じる(べき)ことは何か?というと、少なくとも私としては『その行為、その思いに愛があるか』ということになります。
でも、これでは賢明な読者から、「罪」を「愛なき行為・思い」に置き換えただけだ!お前のいう「愛」とは何か?と問い詰められそうですね。
私としては、私のする殺人は殆どの場合、相手の人を心から愛する余り殺すわけではないだろうゆえ、殆どの場合は「愛なき行為」と感じると思います。でも、ちょっと極端な例ですが、ある人がどこかで多くの一般人を無差別殺害する巨大爆弾を落とそうとしている時で、その人を殺すしか防止策がない場合、祈りながらその人に銃を向けることはあると思います。罪は形じゃないから、どうしても殺すことが、多くの命を愛するための苦渋の選択なんてこともあり得なくはないでしょう。
でも、私にとっても一番難しいのが、男女の愛です。私の行き着いた「愛」の意味は、勿論「好き」ではなくて、「その人の存在をとても大切と思う、そのために自分が多少辛くても、その為に何か出来るほど・・・」といったところですが、男女の愛は、そういう愛と、「自分の幸せ感覚の追求」というのが、混然一体なんですね。もっとも、いわゆる男女に限らぬ人道的愛でも、ちょっとは自己陶酔感とかを伴いますので、完全な純粋愛、アガペーみたいなのは、殆どないのですが、男女のは、それが更に悩ましい。相手を愛してるのと、自分を愛してるのが、相当混じり合う。
更に、それを、結婚してる相手以外に感じてしまったとしたら? 勿論、そういう気持ちを結婚相手が知ったら、その結婚相手が普通は傷つくから、その意味では、結婚相手と、それ以外の相手を同時に愛すること(どちらも傷つかず喜ぶ状態)は、特に一夫一婦制文化が染み込んでいる社会では、かなり難しい。でも全くないかどうかは分からない。しかし、結婚相手との間が、もはや、そんなことでは傷つかないといった不可逆的に冷めた関係になっている場合は、成り立つかもしれない。
といった具合ですが、私の場合の「究極のテスト」はこれです。これって「愛」?これって「神さまから見て罪じゃない?」という疑問への、究極のテストは、その行為について、イエス様が横にいたとして、「イエス様、この行為を祝福してくださいますよね」と自分の心の中で言えるかどうか。勿論、それに答える自分の心は、その社会に染み付いた価値観、これまでに言われてきたこと、などの影響を受ける。でも、それも含めた上で、この「イエス様祝福して」がいえるかどうかへの、真の答えを、時間をかけてでも、祈りながら模索し追及するのが、クリスチャンの人生ではなかろうか。
みかるさん。もうその答えが出ましたという意味なら、それは、もうただの人間である私の何かいえることじゃないですね。でも、まだ、自分でも模索中なら、時間がかかっても、イエス様が答えを下さるでしょう、と申し上げたのです。以上長くなりましたが、私の回答です。 Nat