お金・権勢/名声・娯楽と、人がこの世で必要としたり、求めたりするものについて書いてきた。ここで、もう一つ大きなテーマがある。色・恋・性。そう、異性間の想い・行為についてだ。これは淡白な人に言わせると殆どテーマたり得ないそうだが、私の場合これは大げさに言うと「人生を貫く大テーマ」なのである。だから、これについては何回かに分けて書きたい。
ちょっと言うのも恥ずかしいが、幼稚園の頃、早くも近所の可愛いTちゃんに幼い恋心を動かされた。この調子なので、思春期には身も心も、とても高ぶっていたのだが、ここでは省略させてもらう。その頃から、心に強くひっかかっていたのが、あのイエスの言葉だ: 『だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい』なのだ。「そ、そんな!?本能なんだから---。別に婦女暴行のようなことするわけじゃないのに--。右の目も左の目も、脳みそも下半身も全部捨てねば---。」私は、青年の頃、聖書の中のあの言葉だけは避けて通っていた。
その後随分年月がたってから、私は漸くある理解に辿りついた。イエスは誰に向かってあのような挑戦的な発言をしていたのだろうか。イエスの言動全般の大きな場面設定としてだが、彼の戦っていたのは「パリサイ人」といわれる、律法の形式的遵守を重視し、そう出来ない下層の民を罪人扱いしがちなユダヤ教支配階層であった。『お偉いパリサイの方々!あなたがたは満ち足りた生活で、美しい奥さんもいたりして、確かによその女性に露骨に手を出したりするようなことはしていない。 一方、皆さんが罪人視するあの貧しき民たちは心寂しく、確かについついそういうことに走ってしまう人もいる。しかし、お方々。あなたたちが女を見る目つきには、彼らと同じかもっとイヤラシイ情欲が溢れているではないか!貧しき民が罪人なら、あなた方も心では同じく罪人だ。いや、偽善の分だけもっと罪は重い。そんな目なら捨ててしまいなさい。むしろ、皆人間には情欲があることを認めた上で、そこを出発点にして、そこからどう生きるかを問い合おうじゃないか。』イエスが真に問い詰めたかったことは、こういったことだったと思う。
荒野の試練でイエスが戦った誘惑は、物欲、神を試したくなる心、そして権勢欲だ。その他の場面でも、イエスが性欲・情欲と戦ったとの直接的記述はない。しかし、イエスが人であった限り、本能のほとばしりを知らなかったわけがない。むしろ、本能も間違いなく神が人に与えたものなのだ。それならば、人はその本能を滅却しようとするのではなく、本能を神と隣人への愛に向けて方向付けし、むしろその方向で活かす、そんな生き方への転換を促されているのだ。
私は今そう信じている。青年の頃、慌てて目をえぐり出して捨てなくてよかった。Nat
ちょっと言うのも恥ずかしいが、幼稚園の頃、早くも近所の可愛いTちゃんに幼い恋心を動かされた。この調子なので、思春期には身も心も、とても高ぶっていたのだが、ここでは省略させてもらう。その頃から、心に強くひっかかっていたのが、あのイエスの言葉だ: 『だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい』なのだ。「そ、そんな!?本能なんだから---。別に婦女暴行のようなことするわけじゃないのに--。右の目も左の目も、脳みそも下半身も全部捨てねば---。」私は、青年の頃、聖書の中のあの言葉だけは避けて通っていた。
その後随分年月がたってから、私は漸くある理解に辿りついた。イエスは誰に向かってあのような挑戦的な発言をしていたのだろうか。イエスの言動全般の大きな場面設定としてだが、彼の戦っていたのは「パリサイ人」といわれる、律法の形式的遵守を重視し、そう出来ない下層の民を罪人扱いしがちなユダヤ教支配階層であった。『お偉いパリサイの方々!あなたがたは満ち足りた生活で、美しい奥さんもいたりして、確かによその女性に露骨に手を出したりするようなことはしていない。 一方、皆さんが罪人視するあの貧しき民たちは心寂しく、確かについついそういうことに走ってしまう人もいる。しかし、お方々。あなたたちが女を見る目つきには、彼らと同じかもっとイヤラシイ情欲が溢れているではないか!貧しき民が罪人なら、あなた方も心では同じく罪人だ。いや、偽善の分だけもっと罪は重い。そんな目なら捨ててしまいなさい。むしろ、皆人間には情欲があることを認めた上で、そこを出発点にして、そこからどう生きるかを問い合おうじゃないか。』イエスが真に問い詰めたかったことは、こういったことだったと思う。
荒野の試練でイエスが戦った誘惑は、物欲、神を試したくなる心、そして権勢欲だ。その他の場面でも、イエスが性欲・情欲と戦ったとの直接的記述はない。しかし、イエスが人であった限り、本能のほとばしりを知らなかったわけがない。むしろ、本能も間違いなく神が人に与えたものなのだ。それならば、人はその本能を滅却しようとするのではなく、本能を神と隣人への愛に向けて方向付けし、むしろその方向で活かす、そんな生き方への転換を促されているのだ。
私は今そう信じている。青年の頃、慌てて目をえぐり出して捨てなくてよかった。Nat