♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

「人は--」シリーズ 5 : 色・恋・性 (No.1)

笑顔 お金・権勢/名声・娯楽と、人がこの世で必要としたり、求めたりするものについて書いてきた。ここで、もう一つ大きなテーマがある。色・恋・性。そう、異性間の想い・行為についてだ。これは淡白な人に言わせると殆どテーマたり得ないそうだが、私の場合これは大げさに言うと「人生を貫く大テーマ」なのである。だから、これについては何回かに分けて書きたい。

笑い ちょっと言うのも恥ずかしいが、幼稚園の頃、早くも近所の可愛いTちゃんに幼い恋心ハート矢を動かされた。この調子なので、思春期には身も心も、とても高ぶっていたのだが、ここでは省略させてもらう。その頃から、心に強くひっかかっていたのが、あのイエスの言葉だ: 本 『だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい』なのだ。「そ、そんな!?本能なんだから---。別に婦女暴行のようなことするわけじゃないのに--。右の目も左の目も、脳みそも下半身も全部捨てねば---。」私は、青年の頃、聖書の中のあの言葉だけは避けて通っていた。

ウインク その後随分年月がたってから、私は漸くある理解に辿りついた。イエスは誰に向かってあのような挑戦的な発言をしていたのだろうか。イエスの言動全般の大きな場面設定としてだが、彼の戦っていたのは「パリサイ人」といわれる、律法の形式的遵守を重視し、そう出来ない下層の民を罪人扱いしがちなユダヤ教支配階層であった。『お偉いパリサイの方々!あなたがたは満ち足りた生活で、美しい奥さんもいたりして、確かによその女性に露骨に手を出したりするようなことはしていない。 一方、皆さんが罪人視するあの貧しき民たちは心寂しく、確かについついそういうことに走ってしまう人もいる。しかし、お方々。あなたたちが女を見る目つきには、彼らと同じかもっとイヤラシイ情欲が溢れているではないか!貧しき民が罪人なら、あなた方も心では同じく罪人だ。いや、偽善の分だけもっと罪は重い。そんな目なら捨ててしまいなさい。むしろ、皆人間には情欲があることを認めた上で、そこを出発点にして、そこからどう生きるかを問い合おうじゃないか。』イエスが真に問い詰めたかったことは、こういったことだったと思う。

雲 荒野の試練でイエスが戦った誘惑は、物欲、神を試したくなる心、そして権勢欲だ。その他の場面でも、イエスが性欲・情欲と戦ったとの直接的記述はない。しかし、イエスが人であった限り、本能のほとばしりを知らなかったわけがない。むしろ、本能も間違いなく神が人に与えたものなのだ。それならば、人はその本能を滅却しようとするのではなく、本能を神と隣人への愛に向けて方向付けし、むしろその方向で活かす、そんな生き方への転換を促されているのだ。

まる 私は今そう信じている。青年の頃、慌てて目をえぐり出して捨てなくてよかった。Nat

「人は----」シリーズ 4:この世の“楽しみ”

笑顔 人は、お金も地位も評価も求める。しかし、それだけではない。「この世の楽しみ」を求める。「この世の楽しみ」でも、会食、スポーツ、音楽、文学読書、観劇などは、通常、健康的・文化的で「好ましい楽しみ」とされ、ギャンブル、アダルト・ピンク系とかは、とかく「余り好ましくない楽しみ」とされがちである。

はてな 人は「楽しみ」をどう選んで生きていくのであろうか。勿論、キライなことはしない。しかし、スキなことでも人は時には我慢して生きる必要もあるのだろうか。いわゆる「禁欲」というやつだ。

本 日本のクリスチャンでも、昔はピューリタン的な人が多く、お酒もタバコもやらないといった「潔癖・禁欲的生活」が、その人の信仰の証しになっていた人もいた。私はクリスチャンであるが、そういう意味での「禁欲的」には生きてはいない。

ラーメン 例えば、私はラーメンが大好きだが、ラーメンを「禁欲的」に食べるとマズイに違いない。ラーメンを食べる時は、「めっちゃウマ!」笑いと興奮しながら食べる。そして、そのラーメンを今日も下さった神さまに心で感謝して、ラーメンの味の中に神さまの恵みの味も感じる。同じラーメンが二倍オイシイ。そして隣でラーメンを同じようにすすっている知らないオジサンがいたら、心の中で「お互いに神さまから命をもらって、今日はラーメンをもらって嬉しいよね」といって味を分かち合う。それで三倍オイシくなる。まさに、禁欲的の逆で、同じラーメンが3倍楽しめてしまうのが私の思っているクリスチャン人生だ。

びっくり これは、ラーメンだけではない。ラーメン同様、全ての与えられている楽しみは、まず、(1)そのモノを喜び、(2)それを下さった神さまのことを喜び、(3)そして、周りにいる人と喜びを分かち合う。もし、その楽しみが、神さまに感謝しにくいものと感じられたり、周りの人と分かち合いにくいなと思われるものなら、多分、それは、神さまが今日私に下さろうとしている楽しみではないのだろう。そういう楽しみは結局、3倍楽しめないし、良く考えると、最初から余り楽しくないものなのであろう。イエスが言ったように、とどのつまりは「神を愛し、人を愛しなさい」。これに尽きるなら、「楽しみ」を選ぶにも、神と、周りの人とで、楽しさが3倍に膨らみそうかどうかが唯一の「基準」だと思う。 Nat

「人は--」シリーズ3:お金や評価の為の努力は?

笑顔 このシリーズの1,2で「お金、或は、地位・権勢・評判に心を奪われてしまって大切なものを忘れないようにしたい。でも、ふと気がつくと結構そういうものに気をとられていたりする」という人間の“さが”について書いた。では、実際のこの世の生活で、私たちは、お金や地位・評判などのために、どれくらい、どのように“頑張る”のがいいのか、いけないのか? この点を考えたい。
ビル よく「お金や、地位・評判は、結果であって、目的ではない」と言う。でも、「世のため・人のため」或は「神さまのみ心により」などと、本当に純粋に毎日思って仕事をするのは難しいだろう。現実には“ここでもう少し頑張ると来年度は課長に昇進するかも”といった場合、会社の仕組み上も候補者皆がそれを意識して頑張ることが前提になっている。そんな時に「私は課長とかいったことは一切意識にありません。ただただ仕事を一所懸命やるだけです。結果として課長になれば、それはそれで有り難いことですが」とまで言えるか? そう言う場合、そこに些かの偽善もないか。
本 イエスが言いたかったことは「仕事の上での昇進や昇給などは一切心から棄てなさい」ということではなかったはず。そうではなくて「昇進や昇給に向けて頑張る中で、自分が神さまから賜物としてもらっている“自分らしさ”への感謝を忘れないようにしよう。昇進や昇給の結果がどうであれ、神さまの恵みを信じ感謝しよう。そして、同じく頑張る他の人間のことを思う気持ちを忘れないようにしよう」そういうことであったと思う。その上で「お金や地位が与えられるなら、それも神さまの恵み。それに向けて頑張るあなたの努力を祝福しよう」ということだろう。
笑顔 この世を終わる時、一生を振り返って自分が終始一貫何を大切にして生きてきたか? これが問われるだろう。その時々に必要な「パン」「お金」「評価」は、イエス自身の祈り(「主の祈り」)にある通り「神よ、今日必要なものを今日お与えください」というものである。でも、人生を終える時、そのような「その時々に与えられたもの」を思うより、「それを与え続けてくださった方」を思うものでありたい。Nat
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