♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2005年06月

「人は--」シリーズ3:お金や評価の為の努力は?

笑顔 このシリーズの1,2で「お金、或は、地位・権勢・評判に心を奪われてしまって大切なものを忘れないようにしたい。でも、ふと気がつくと結構そういうものに気をとられていたりする」という人間の“さが”について書いた。では、実際のこの世の生活で、私たちは、お金や地位・評判などのために、どれくらい、どのように“頑張る”のがいいのか、いけないのか? この点を考えたい。
ビル よく「お金や、地位・評判は、結果であって、目的ではない」と言う。でも、「世のため・人のため」或は「神さまのみ心により」などと、本当に純粋に毎日思って仕事をするのは難しいだろう。現実には“ここでもう少し頑張ると来年度は課長に昇進するかも”といった場合、会社の仕組み上も候補者皆がそれを意識して頑張ることが前提になっている。そんな時に「私は課長とかいったことは一切意識にありません。ただただ仕事を一所懸命やるだけです。結果として課長になれば、それはそれで有り難いことですが」とまで言えるか? そう言う場合、そこに些かの偽善もないか。
本 イエスが言いたかったことは「仕事の上での昇進や昇給などは一切心から棄てなさい」ということではなかったはず。そうではなくて「昇進や昇給に向けて頑張る中で、自分が神さまから賜物としてもらっている“自分らしさ”への感謝を忘れないようにしよう。昇進や昇給の結果がどうであれ、神さまの恵みを信じ感謝しよう。そして、同じく頑張る他の人間のことを思う気持ちを忘れないようにしよう」そういうことであったと思う。その上で「お金や地位が与えられるなら、それも神さまの恵み。それに向けて頑張るあなたの努力を祝福しよう」ということだろう。
笑顔 この世を終わる時、一生を振り返って自分が終始一貫何を大切にして生きてきたか? これが問われるだろう。その時々に必要な「パン」「お金」「評価」は、イエス自身の祈り(「主の祈り」)にある通り「神よ、今日必要なものを今日お与えください」というものである。でも、人生を終える時、そのような「その時々に与えられたもの」を思うより、「それを与え続けてくださった方」を思うものでありたい。Nat

「人は--」シリーズ2:お金だけじゃなくて。。。。

笑顔前回「人はお金だけで生きるものにあらず」という記事を書いた。この世で生きていく上で、お金に執着してしまうような生き方はイヤだなと思いつつも、気がついたら結構お金のことを考えてしまっている自分にも気がつくという趣旨だった。
本イエスの「人はパンのみにて生きるものにあらず」の言葉の後に、もう一つ、この世で人が執着する別のものへの悪魔の誘惑が出てくる。それは権勢や評判だ。イエスはこれに対して「飽くまでも神に仕える」と言い切った。
走るこの世では、実は「お金」お金と「権勢・評判」拍手が別々の誘惑としてくるというより、結構、この二つがセットになっている。会社でも、認められて課長、部長と昇進すると、この二つがセットで手に入る。逆になかなか評価されず昇進しないと給料も増えないダブルパンチを食う悲しい。同期や後輩で先にどんどん上がっていくやつを見ると、「なんであんなやつが」という「権勢・評判」への“ねたみ”と、「あいつ結構もらってやがるんだろうな」という「お金」の“そねみ”がセットになって襲ってくる。それに対して「自分は自分の生き方をすればいいんだ」等と、自分に言い聞かせながらも、そう割り切れない自分を見出したりもする。権勢もお金も要らないと思いながら、頑張っている自分が何故か評価されないことへの不満はやり場のないものになる。
家そんな時、いわゆるキリスト教的・教会的には「そんな貴方のことを神さまは必ずよく分かって下さっていますよ」ということになるわけで、それは、それで大いに励みにはなるわけだが、また昼間に職場などで露骨に「差」を見せつけられると、その瞬間は頭の中が沸騰して、神さまの愛のことは忘れてしまう。これが人間ではなかろうか。確かにそんな人間だからこそ、神さまは人間のところにまで降りてきてくださり、一緒にいてくださるのだろう。でも、頭が沸騰した瞬間、一緒にいてくださる神さまは一体何をされ、何を思っておられるのだろうか????

はてな人間探求は続く。。。。 Nat

「人はお金のみにて生きるものにあらず?」

本「人はパンのみにて生きるものにあらず」(イエスキリストが旧約聖書から引用した言葉)は、意味としては「人はお金だけを目指して生きるものではない」ということだろう。では、他に何を目指す? イエスは「神の言葉で生きる」のだと言っている。これも、より実際的に言い換えると「先ず神さまを信じ切り、感謝し、全ての命を愛して生きよう」。要するに「お金などのこの世の物質的なことに執着する余り、目に見えない神・命・愛といったことへの思いが後ろに行ってしまうような人生は寂しいよね」ということ。
笑顔考え方としては誰でもこれに一応頷く。でも、実際に、これを本当に貫いて生きるのは難しい。「お金」の追求こそが市場経済の基本原理だ。会社の仕組みも、社員が仕事に励んで「お金」をより多くもらおうとすることがベースになっている。現実に「お金がもう少しあれば、あれが出来るのに---」と思うことは山ほどある。お金持ちを見ると、少なくとも一瞬は、羨ましいなと思う。せっかく節約して貯めたお金だから、気の毒な人たちに寄付といわれても、ほんの少しだけにしておきたくなる。大金を落として無くしてしまったりしようものなら、もう心は乱れに乱れ、銀行強盗の気持ちが分かるように思える。
お金そんな「お金」だからこそ、「人はそれだけで生きるものにあらず」との言葉があるのだろう。「お金」は絶対必要、ないと死ぬしかない。でも、だからと言ってそれに心を奪われてしまっては----ということだろう。私たちにお金が必要なことを神さまが一番ご存知だ。だから、必要なお金は下さるはずだ、と先ず信じる。それで、人間として必要な努力は全部する。あがくのではないけど、努力はする。それでも、やっぱり少ないと思う時は、人に言うより、まず神さまに「少ないと思ってしまいます」と言いながら祈る。お金のことで心が乱れてしまう時は、また神さまに「乱れます」と祈る。こうやって生きるということであろうか? 人の心の旅は死ぬまで続くように思える。  Nat

中国で冷やし中華?

笑顔 また、ちょっと、中国のこぼれ話。上海ではローソンはじめ日系のコンビニがあるが、そこに日本人客むけの冷やし中華が置いてある。しかし、中国人は大体温かい食べ物しか口にしない。冷やしのソバなどというものを食う習慣がないのだ。従って、上海のコンビニの冷やし中華の包装には「このままで食べられます」と注意書きがしてあるのと、レジでは店員が「これ電子レンジで温めますか?」と聞くらしい。それから、これは確かめてないが、どう考えても、中国で「中華」というのはおかしいだろうから、多分「冷やし中華」とは表記してないのではないか?と思う。今度、上海に行ったら確かめたい。Nat

上海のエレベーターの中では・・・

笑い このところ、シリアスな記事ばかり書いて疲れたので、こぼれ話: 
 上海のエレベーターの中では、乗る人が「閉める」のボタンを忙しく押し捲るという話を聞きました。日本でも、ちょっとそういう人いるけど、上海では、もう、桁違いに立て続けに押し捲るというのです。私も上海には何回か行ってますがそこまでは気がつかなかったけど、住んでる人がそういうんだから、ちょっと、そういう面あるんでしょう。そして「開く」は全く誰も押さないというのです。
 日本人も相当イライラした人もいるようにも思うけど、一応、時々「開く」も押されるし、また
、自分が降りる時に、まだ乗り続けてる人のために、「閉まる」を押す奥ゆかしい人がいますね。多分、中国にはそういう人いないんだ。
 中国の人がエレベーターの「閉まる」ボタンを激しく押すのと、あの中国の人の早口・大声の「喋り捲り」と何か通じるところありそうですね。そういえば、日本人にはまだ小さい声でゆっくり目・控え目に話す人もいますね。
 はっきり言って、やっぱり、国ごとに民族ごとに、統計学的に「優位差」のある特徴ってあるよね。それに着目するのって、差別でも、蔑視でもないと思うし、違いがあり、個性があり、多様性でいいと思うんだけど、「レッテル」貼りすぎるのは問題なんだろうね。
  そういえば、「大体、男は・・」「とかく女は。。。。」という発言と同じだ。言い過ぎると噛みつかれる。Blogの論調もだよね。ほどほどにしよっと。  Nat
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