♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2005年06月

靖国神社シリーズの最後に----「神として祀られた人たち」

★靖国神社のことに絡めて、日本、中国、韓国・北朝鮮それぞれの捉え方を少し書いてきました。今回はこの辺で終わりにしますが、最後に、靖国神社は戦没者のお墓ではなくて、戦没者を「神」として祀る場所である事を書きます。(注:靖国神社はお墓ではないので遺骨は納められていません。無名戦没者の遺骨は国立千鳥ヶ淵墓苑に納骨されています。)

★靖国神社では、明治2年の戊辰戦争以降、国を守るために戦没された人たちの霊を「神」として祀っています。まさに同神社の公式ホームページに「欧米の無名戦没者の墓等では神格化していませんが、それとは異なります」と書かれている通りです。

★また、同神社の公式ホームページでは、神として祀っている戦没者として、太平洋戦争時に沖縄で戦った中学生や「ひめゆり部隊」、或は、赤十字の従軍看護婦さんなども、と書いた後に、戦犯処刑者(A級及びB・C級)について以下の通り書いています:『戦後、日本と戦った連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の、形ばかりの裁判によって、一方的に“戦争犯罪人”という、ぬれぎぬを着せられ、無残にも生命を絶たれた1068人の方々・・・靖国神社ではこれらの方々を「昭和殉難者」とお呼びしていますが、全て神さまとしてお祀りされています。』『日本が今、平和で栄えているのは、靖国神社の神さまとなられた、こういう方々のおかげなのです。』―― 以上がホームページ記述です。

★従って、靖国神社は、A級戦犯を含めて神として祀り、“彼らの戦ってくれたあの戦争のお陰で今の日本があるのだ”と日本人が感謝するための場所なのです。日本側には、さすがに、“再軍備して今度こそは勝とう”とまで思う人は少なくても、過去の戦争への想いとして、靖国神社のこの趣旨に共感する心情が根強くあることは前に述べた通りです。一方、中国政府は、少なくともA級戦犯に全ての責任を帰してもらわないと賠償放棄の根拠が崩れるので困るし(また対日政治カードとしても使いたいとの思惑もあるでしょうが)、また中国の一般国民の多くは「まだ何ら償いを受けてない」と思って憤慨しているのでしょう。更に韓国・北朝鮮の人は日本支配時代への怨念を深く持っています。彼らのそのような立場と、「日本人が過去の戦争と戦没者に感謝する場」としての靖国神社の存在とは、余りにも相容れないものであると痛感されます。我々は末永くいがみ合うのでしょうか。

★しかし、最後に、冷静に人類の歴史を振り返ってみると、むしろ、人類は終始一貫して民族同士・国同士でいがみ合いながらも、適宜、互いに都合の良い文化的交流なり政治的・経済的取引はしてきたとも言えます。人類とはそのようなものかも知れません。勿論、だからと言って、中国・韓国・北朝鮮との間のわだかまりはそっとして置いて、ひたすらに経済取引に励むのが賢明とも言いませんが、余り、一つ一つのことにいちいち過剰反応しない方がいいかも知れないとも思う今日この頃です。 Nat

靖国神社問題―韓国・北朝鮮は?

★この間、靖国神社問題の日本側と中国側の話をそれぞれ書いた。では、韓国・北朝鮮はどうなのか?

★大韓・朝鮮民族が日本に対して抱いている怨念は、もっぱら、1910年の「日韓併合」から終戦までの「日帝支配36年」についてである。中国とは違って、日本が大韓帝国と戦争したわけではないので、本来、法的には「戦争賠償」の問題は出ないが、この36年の支配の間に大韓民族が受けた「被害」「苦痛」をどう考え、それへの「責任」・「補償」をどう考えるかというのが問題だ。

★まず1910年の日韓併合そのものをどう捉えるか? 当時大韓帝国は、開化・近代化が遅れ、国として相当疲弊していた。その中で、以前からの朝貢先であった清国に加え、ロシア、日本がそれぞれの思惑をもって接近していたが、日清戦争、日露戦争での日本戦勝を経て、結局、日本が併合し支配下に置くのである。韓側の抗日運動として、農民などによる義兵運動や都市市民による国権回復運動があったが、これらは現地の日本軍が武力行使して圧殺したので、決して“平和・友好的”な併合ではなかった。一方、韓側支配者層としては、ロシア派もいたが、結局、日本に支配される方の道を政治的に選び取り、1910年に併合条約に応じるのである。このことから、日本サイドでは「多少とも強引な面があったとしても、国際法上は有効・合法な併合であった」との見解が多い。(また、米・英・露も併合に異議を唱えていない。)しかし、合法であれ何であれ、韓側の国民感情として、清の代わりに今度は(民族意識上「末の弟分」であった)日本の支配を受け入れざるを得なかったことへの屈辱感や諦観は想像に余りある。

★次に36年間の支配期間中に日本が何をしたかであるが、これまた、当然両面ある。併合以降日本が現地に投下した莫大な社会資本(53億ドル相当:後に65年の日韓基本条約で日本側が権利放棄)により、それ以前の相当劣悪な生活環境から大きく近代化され、特に農業・食料供給体制が大幅向上した事実がある。(但し当然日本の都合に合わせた偏った振興であり、恩に着せてよいかどうかは別である。)一方で、1936年以降は、韓側国民は日本の支配下のまま「日本領土民」として日中戦争・太平洋戦争に巻き込まれて行った。日本本土でも戦時体制下の日本国民に辛いものがあったわけゆえ、ましてや支配下の韓側国民にはそれより更に辛い出来事が多々あったと思わざるを得ない。(皇民化政策、強制労働問題、従軍慰安婦問題、日本軍人による村民虐殺・強姦等、それぞれにつき実態立証の様々な両論があり、一つ一つのことの本当の真相は私には分らないが、特に1936年以降は全体として大きな辛さがあったと想像される。)

★戦後、1951年のサンフランシスコ条約では、戦勝国側でない韓国は日本支配からの独立を承認されたのみで、併合・支配時代の被害問題については埒外扱いされている。しかし韓国指導部は国内的には、併合の不当性と、朝鮮総督府(日本)による“7つの悪”を糾弾する形で民族のプライド復興運動を行う。この為、その後の韓国側国民においては、被害の実態はあったにしろ、恐らく実態以上に政治的に拡大された怨念意識が強烈になっていく。

★65年になって漸く、日韓政府間交渉がなされ、日韓基本条約が締結される。実は韓国側世論には条約受け入れの素地がなかったのだが、朴正煕政権は、アジアの中でも最極貧状態から脱するべく経済発展を最優先して、国民には秘密裏に条約締結したのである。条約において日本側は「国際法上も認められた併合であった」として、他列強国の植民地の独立のケース同様、一切謝罪はしていない。但し5億ドルの経済支援と支配時代の資産の放棄を決め、これで日本の責任問題は「完全かつ最終的に解決された」とされている。また、韓国民個々人の被害への補償も、日本の経済支援金から韓国政府自身が行う取り決めにしたので、これも日本としては「解決済み」である。しかし韓国政府は条約の事を国民には知らせず、大半の資金を経済発展に投入し、国民には殆ど回さなかった。また、条約で「朝鮮半島で唯一の合法的政権は韓国」と定めたので、北朝鮮は蚊帳の外となった。このように、日本政府からすれば、65年に完全に解決済みであるものが、知らされなかった韓国国民としては辛い思い出や怨念の対象として残り、更に北朝鮮からすると「全く未解決」となる。

★本日、日韓の学者による、併合や日韓基本条約に関する歴史理解の共同検討結果が報道されていた。日本側の学者が、韓国側の学者の事を「分析者の立場でなく政治的な主張をするのみてあった」として残念がっていたが、そもそも積年の思いを晴らそうという必要の特にない日本側と、その思いに駆られている韓国側では、同様の冷静さでの共同検討の素地が無かろう。それ程、ギャップが大きいのである。

★なお、靖国神社のA級戦犯は、専ら中国侵略、太平洋地域侵攻の罪であるので、韓国・北朝鮮の支配時の被害問題とは、直接結びつかないとも言えるが、韓国・北朝鮮側からすると加害者日本帝国軍の象徴であり、上記の経緯から、それも含めて、根深い怨念の対象になっている。

★最近はインターネット時代で情報の風通しもよく、韓国側の怨念も少しは薄らぎつつある面もあるようだが、そうは簡単には消え去るまい。一方「日本だけが悪かった」といった立場で、謝罪を拡大しようとすることは、経緯論的にも国際法的にもあり得まい。しかし、少なくとも、戦争という人類の犯した罪の結果、どこの国民であろうと人々が大きく苦しんだ時代があったことは忘れてはならないと思う。 Nat

罪って何??

みかるさんのBlogにコメントさせてもらったら、またとても重い疑問を頂戴してしまいましたので、それに対してちょっと書きます。
 要するに、私のコメントの趣旨が、私としても、みかるさんのように「姦淫」をしている状態は、一応「罪」とは思ってるのに、「厳しいクリスチャン」のように直ぐそれを非難しないだけで、『時間はかかっても、いつかイエス様が、それを「直して」くださるでしょう』と一見「やさしい」ことを言っているだけじゃないですか?との問いですね。---大変鋭い問いで、もう、たじたじとなりますが、何とか私なりにお答えします: 

 先ず、私にとって罪とは何か?というと、それは「神さまから見て罪なこと」であって、「聖書のどこかにこう書いてあるから自動的に罪」なんてことではないということ。
 次に、人間として「神から見て罪」と感じる(べき)ことは何か?というと、少なくとも私としては『その行為、その思いに愛があるか』ということになります。
 でも、これでは賢明な読者から、「罪」を「愛なき行為・思い」に置き換えただけだ!お前のいう「愛」とは何か?と問い詰められそうですね。
 
 私としては、私のする殺人は殆どの場合、相手の人を心から愛する余り殺すわけではないだろうゆえ、殆どの場合は「愛なき行為」と感じると思います。でも、ちょっと極端な例ですが、ある人がどこかで多くの一般人を無差別殺害する巨大爆弾を落とそうとしている時で、その人を殺すしか防止策がない場合、祈りながらその人に銃を向けることはあると思います。罪は形じゃないから、どうしても殺すことが、多くの命を愛するための苦渋の選択なんてこともあり得なくはないでしょう。

 でも、私にとっても一番難しいのが、男女の愛です。私の行き着いた「愛」の意味は、勿論「好き」ではなくて、「その人の存在をとても大切と思う、そのために自分が多少辛くても、その為に何か出来るほど・・・」といったところですが、男女の愛は、そういう愛と、「自分の幸せ感覚の追求」というのが、混然一体なんですね。もっとも、いわゆる男女に限らぬ人道的愛でも、ちょっとは自己陶酔感とかを伴いますので、完全な純粋愛、アガペーみたいなのは、殆どないのですが、男女のは、それが更に悩ましい。相手を愛してるのと、自分を愛してるのが、相当混じり合う。
 更に、それを、結婚してる相手以外に感じてしまったとしたら? 勿論、そういう気持ちを結婚相手が知ったら、その結婚相手が普通は傷つくから、その意味では、結婚相手と、それ以外の相手を同時に愛すること(どちらも傷つかず喜ぶ状態)は、特に一夫一婦制文化が染み込んでいる社会では、かなり難しい。でも全くないかどうかは分からない。しかし、結婚相手との間が、もはや、そんなことでは傷つかないといった不可逆的に冷めた関係になっている場合は、成り立つかもしれない。

 といった具合ですが、私の場合の「究極のテスト」はこれです。これって「愛」?これって「神さまから見て罪じゃない?」という疑問への、究極のテストは、その行為について、イエス様が横にいたとして、「イエス様、この行為を祝福してくださいますよね」と自分の心の中で言えるかどうか。勿論、それに答える自分の心は、その社会に染み付いた価値観、これまでに言われてきたこと、などの影響を受ける。でも、それも含めた上で、この「イエス様祝福して」がいえるかどうかへの、真の答えを、時間をかけてでも、祈りながら模索し追及するのが、クリスチャンの人生ではなかろうか。

 みかるさん。もうその答えが出ましたという意味なら、それは、もうただの人間である私の何かいえることじゃないですね。でも、まだ、自分でも模索中なら、時間がかかっても、イエス様が答えを下さるでしょう、と申し上げたのです。以上長くなりましたが、私の回答です。 Nat 

人を先ずそのまま受け止める

みかるさんのBlogのやりとりを見て、非常に心が苦しくなりました。イエスを信じたい、でも、キリスト教の教会という組織は人を裁くからもういやだ悲しい、というやりとりです。私としては、次のことを言いたいです。
 私の中にも悪い嫌な心がいっぱいある。後で自分でも「やばかったな」と思う行為もする。ホントはやったらいいと思うことで、知らんふりもする。でも、そんな私だから、そんな私を全部知っていて、神さまは「イエスの十字架の愛と救い」を、わざわざ、私にも下さった。その結果、私は、今でも、まだまだ弱くずるいけど、一歩一歩神さまの方向に歩いて行こうとして生きている。
 みかるさんの書かれているように、この世的には、ちょっと、やばいかな、という行為をしてしまっている状況になっている人は結構いる。しかも、「どうしても、そうなってしまう」との告白付き。それを、もし、まず、「説諭」して問いただし矯正しようという人たちがキリスト教会を名乗っているなら、すごく悲しい。私は、「どうしてもそうなってしまう人」を、先ずそのまま、受け止めることの出来る自分でありたい。イエスは、あの姦通の女を先ずそのまま受け止め、「この中で罪のない人が先に石を投げなさい」といって、その女に石を投げて処刑しようとした人たちを制した。受け止めた上で、愛情を込めて「もうしないように出来たらいいね」といった。その女は、その瞬間に、結果として変えられたのである。人が何かしてしまう時、大体それなりの理由がある。先ず、そこを受け止めることが出来たらいいと思う。イエスと全く同じようには出来ない。でも、自分自身が(イエスに)受け止めてもらったんだから、人のことも受け止められればいいなと思う。
 みかるさんたち。私のメッセージが聞こえますか? Nat



靖国神社―中国からみたら?

★前回、少なからざる日本人の心情の中に、A級戦犯者だけを悪者にし切れないものがあるということを書いた。では、中国側から見て、どうだろう。

★中国といっても、①元の国民党政府、②その後の共産党政府、また、③一般国民という具合に分けて考える必要がありそうだ。

★先ず、1937-45年の8年間続いた日中戦争だが、日本軍の直接の相手は主に蒋介石国民党軍である。国民党軍は実質的に日本軍に敗退し重慶にまで退くが、太平洋戦争の終戦で日本が降伏した後、今度は共産党軍に追われて、台湾にまで逃げるのである。戦後、1951年に連合国側と日本とがサンフランシスコ講和条約を調印した際、国民党は呼ばれなかったが、この条約に基き52年に日本と台湾国民党政権との間で日華平和条約が結ばれて、日本が台湾領土権を放棄する形で台湾国民党との間では戦争処理が完了している。

★しかし、問題は49年に樹立していた中国本土の共産党政権。サンフランシスコには参加が認められず蚊帳の外であった。この共産党政権が日本と漸く取り決めが出来たのは、1972年の日中共同声明においてである。日本は戦争責任を反省し、中国は「日中両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」ことを宣言したのである。またこれを受けて、日本は79年から今に至るまで3兆円余りの経済協力(賠償金ではなく支援)を行ってきている。政府同士の整理としては、これで完了しているといえる。

★では、何故、中国の国民が根深い反感を持つのか、また、何故A級戦犯問題がこのようにトゲになるのか? この辺からは、私の限られた知識からの理解になるが、先ず、A級戦犯問題。極東国際軍事裁判の際、蒋介石は日本の侵略戦争を一部の軍部(A級戦犯)の責任に帰して日本への戦時賠償請求権を放棄した。また、後の72年の毛沢東・周恩来の日中共同声明でも、これに習い、戦争責任をひとえにA級戦犯に帰して賠償を放棄すると国内的に整理し、むしろ経済支援の実を取ることにしたのである。だから、今さら日本側にA級戦犯に同情的な態度を採られては、賠償を放棄した大前提が崩れて困るのである。

★次に中国の一般国民はどうか。これに絡んで、江沢民の反日教育が背景と良く言われている。また、日本軍による「南京虐殺事件」(37年)についても実態よりも遥かに大規模であったかのように政治的に喧伝してきているとか、一方同じ年の通州(北京の東)での中国兵による日本人居留民虐殺については一切国民に教えない等という“情報操作”も良く指摘される。そういう面もあろうが、私は私見として、中華・漢民族という最も誇り高い民族からして、本来全く格下の日本に実質敗戦し、米国に救われた、その日本がその後ずいぶん発展をしているという、この構図そのものがそもそも心情的に許せない、このことがずっとベースにあると思う。英仏露は結局ドイツに勝ったのだが、中国は日本に勝てなかったのである。だから、根が深い。

★では、どうしたらいいか? インスタントな解決策は多分ない。ムード的に何か追加の謝罪行為をしようとするのは色々な意味で禍根しか残さない。また史実の認識の違いを色々な立場の日中の学者が集まって解決するとの提案もあるが、60年以上前のことだし、今更「違ってました」とは言えない政治的面子もあるだろう。では、何もせずじっとしているのが一番なのだろうか? 私は少なくとも日本側では、特定の意見・立場に走る前に、どういう異なる意見や史実認識があるのかを、若い人も含めて、より理解を深めるように努めるべきと思う。それで、このちょっと長い文を書いてみた。  Nat
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