♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)
生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等
2005年10月
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2005年10月27日
22:22
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その他色々だよ
何故かしら? その1(オクターブ)
あれって何故?と思うこと色々ありますよね。ウン十年生きてきたので、これまで自分で「へえー。そうなんだ!」と思ったことが結構あります。それを思い出したら、その都度書きますね。詰まらなかったらごめんなさい。
最初に、ちょっと理屈ぽいやつですみませんが、音楽の話。
1オクターブ、下のドから上のドまで。ピアノを見てください、このオクターブの音程の途中に幾つ鍵盤があるか。そう12個です。少なくとも今の西洋音楽(正確にいうと「12平均律」)は、このように、1オクターブを12の半音に均等分割しているのですよ。そこでクエスチョン。何故12なのでしょう?
昔、私は大学で遊びの方でジャズを始めましたが、殆どやらなかった勉強の方の学科で、ちょっと数学系のことをやってました。そこで、知ったんです。
音には周波数があります。要するに弦がブルブルと、一秒間に何回揺れるかです。下のドが1秒に261.6回とすると、上のドはその丁度二倍早く揺れていて、523.2回/秒なんです。人間の耳と脳が、周波数で丁度1対2の音を、同じような仲間の音、いわば「親子の音」と感じるということですね。それがオクターブです。次に、「親戚の音」と感じるものは?となると、2対3(1.5倍)とか、3対4(1.3333倍)とか、切りのいいところなんですね。事実、2対3はソの音、3対4倍はファの音なんですよ。ドとファとソが、音程の中でも「区切りのいい親戚の音程」なんですね。更に言うとドとミでは4対5。一番典型的和音のド・ミ・ソは、4対5対6になります。
でも、区切りがいいからと言って、ドとミとファとソだけで音楽つくると単純過ぎて詰まらないですよね。だから、途中にも音を入れたい。しかも、その間隔が均等分になるように出来れば、ハ調とかロ調とか、どの高さの音楽でも、同じ楽器で弾けるというわけです。もっと単純に言うとピアノという楽器が出来上がるというわけです。
そこでですが、ドとドの間の音程を10に割るか、12に割るか、あるいは15くらいに割るか?実はこの答えは12しかあり得ないのです。何故か?それを説明します。
下のドと上のドの周波数の違いは2倍でしたが、これを12に分割するとどうなるか?ここから、やらしい算数がちょっと出ますが、ちょっと我慢してください。2の「12分の1乗」は1.0594631- -です。ドの周波数を1.0594631倍にした周波数の音をドの一つ上の鍵盤の音、そして、その次の音は、この周波数をもう一回1.0594631倍したもの、という風に、1.0594631倍を毎回掛け算していきます。12回掛け算したところで、丁度2倍になって上のドにまで行き着きます。さて、驚くなかれ!下のドから始まって、1.0594631を5回かけると、最初のドの周波数の丁度1.3348399倍にまでなります。これは、ファに当たる「3対4」、つまり、1.333333倍に限りなく近いではありませんか!そして、更に、1.0594631をもう二回掛けると、1.4983071倍、つまり、ソに当たる2対3、「1.5倍」に限りなく近い倍数になるのです! 要するに、1オクターブを12に分割すると、途中に、大事な「親戚の音」であるファ(3分の4倍)とソ(2分の3倍)に限りなく近い音が作れます。(更に、ミは4対5、1.25でしたが、1.0594631を4回掛けると1.259921で、これも限りなく近いのです。)しかし、1オクターブを10で割ったり、15で割っても、このように、大事な音であるファやソ等に限りなく近い音は登場しないのです。それは、12分割した場合だけなのです。(正確に言うと53で割るともっときちんといくようですが、そんなややこしいピアノはゴメンこうむりたいものです。)
この12均一に分ける「12平均律」ですが、中国では早くも5世紀にそれに近い計算をしているようです。西洋では16世紀に理論化され、19世紀にそれに基くピアノの調律法が定着したようです。
一年が12ヶ月というのは、太陽の周りを地球が一周する一年の間に、月が地球の周りを約12回回るからですが、この「12」と同じ数字が、オクターブの分割の数字としても出てくるから不思議です。このように「12」はマジックナンバーです。でも、音楽の場合は、その根拠がちゃんと数学で説明できるというお話でした。面白くなかったら、ゴメンなさい。 Nat
2005年10月23日
18:15
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戦争と平和について
もう一度「靖国神社」問題
私は、6月4日以来、戦争と平和について幾つもの記事を当Blogに書いてきた。特に、6月12日に靖国神社問題の総括、そして、8月22/31日に、ドイツとの比較で、日本の国民の中に今だに「加害者意識」と「被害者意識」が交差していることを書いた。
先日、小泉首相が靖国神社を参拝し、そのことについて、民主党前原代表とのやりとり等が報道されている。政治家のやりとりは、お互いに、相手の対場も反論の方向も、やる前から分かった上でのショーだから、大した議論になるわけがない。一方、各新聞の評論は、もう少し突っ込んでいた。本日の日経新聞は、小泉首相が靖国神社に参拝することで、そこに合祀されているA級戦犯をも正当化することになってしまう、その点こそを中国などが問題視しているのに対し、小泉首相は正面から答えていないと批判している。これは一応 的確な問題提起の一歩ではあるが、これは深い問題の入り口に入っただけである。
「靖国への参拝でA級戦犯を正当化、引いては戦争の正当化になる」という批判に、小泉首相は、まず「A級戦犯を参拝しているのではなく、多くの戦没者の霊を追悼し二度とあのような戦争を繰り返さないよう平和を祈願するもの」と言う。これに対し反対派は「しかし、A級戦犯も合祀されている」と言う。通常、小泉首相はここからは話しを反らす。勿論、彼は、A級戦犯が合祀されている事は百も承知である。また、聞かれれば、A級戦犯は戦争の犯罪者であると認識していると回答しているから、それも十二分に理解している。更に、A級の分祀論については、神社側が神道の神論から原理的にあり得ないとしていることと、更に遺族会の中にA級の分祀反対論が強いことも承知している。だから、A級の問題になると逃げの一手しかない。
しかし、実は、逃げざるを得ないという、この点にこそ、問題の深さがあるのだ。実は、日本人の心情の中に、A級戦犯を憎み、彼らに全ての責任を負わせようという意識はそれほど強くない。むしろ、戦後直後の米軍の情報作戦もあって「一億総懺悔」で国民全体としての「加害者意識」は広がったが、一方で、東京裁判は所詮戦勝国が敗戦国を一方的・事後的に裁いたものとの「被害者意識」もある。その「被害者意識」の中で、天皇も末端の国民も無罪放免されたが、A級戦犯(と海外でそのまま処刑された1000人規模の軍人ら)こそは国民の代表で処刑されたものとの意識も根強いのである。ドイツとの比較の8月の記事で書いた通り、ナチス幹部は自己保身のため続々と逃亡したが、日本の軍部首脳は誰一人逃亡していない(私の知る限り)。”国民代表”で従容として死についた軍幹部を心の底からは憎めない日本人の心理があるのだ。だからこそ、戦後、国民の支持を得て、段階を経て、A級戦犯の復権がなされて来たのだ。(1952年に「戦争犯罪受刑者に対する赦免」に関する4000万人の国民署名。翌53年に衆議院での全会一致での赦免決議。56年にA級存命者の釈放。そして、78年の靖国神社へのA級戦犯合祀決定。)中国などの怒りに反射反応して小泉首相の参拝を云々する前に、日本人、特に戦争体験を継承する国民の層における上記のような心情が実際にあるからこそ、政治的にそのような動きが出てきていることを見据える必要がある。
しかし、国際法的にも、国際政治的にも、今更、「東京裁判は一方的で不当だった」とか、「A級戦犯はむしろ被害者」などと、言い出す余地は全くない。(靖国神社自身はそう言い続けているが。)だから、対外的には、A級戦犯も合祀されている靖国神社に参拝することを正当化できる理屈も根拠も一切ない。 しかし、実は、国民の意識の中には、上記の通りの「被害者意識」と「代表で処刑された戦犯者への複雑な想い」が根強く存在し続けているのである。だから、対外的・公式的立場と、国民の心情を汲んだ国内政治的スタンスとが、当然の如く、相違してくるのであり、その相違は、論理では埋まらないから、使い分ける、論理的には「逃げ」と「誤魔化し」で対処する、これしかないのが、小泉首相らのポジションなのである。
だからといって、これを放置しておこうと言っているものではない。これ以上いたずらに中国などを刺激しない意味では、参拝はやめた方がいいだろう。しかし、やめても、中国側の傷がそれで癒えるわけではない。日本側で、根強い「被害者意識」や”戦犯者”への複雑な想いが消えるわけでもない。それだけ、攻め込まれた中国側にも、攻めていった日本側にも、深い傷が残ったのである。加害者意識と被害者意識がクリアに分離されないほどに。だから、何度も言っている。「お前は加害者」、「オレは被害者」と言って、非難しあったり、土下座することからは傷の癒しはない。人間が
神に対して
犯した
人類の罪
として、
一緒に
神に許しを祈る輪が拡がることでしか、癒しはない。改めて、そう思った。 Nat
2005年10月18日
22:38
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その他色々だよ
「たましい」って何?-その2
前回の記事で、臨死体験や死後体験のことにも少し触れた。特に臨死体験は、欧米では事例の調査・研究が進んでいる。
臨死体験って、皆さんご存知ですよね。そう、実際、一回
心臓が停止して、死亡通告された人
が、結局、何かの拍子で心臓が再度鼓動し出して蘇生した時の体験のことだ。この体験をした人の多くが共通して経験していることは:?まず心臓停止の瞬間に、すーっと体から自分が抜け出る、?暫く、自分の死体やその周りにいる家族や医師・看護婦を天井のあたりから眺めている時間がある、?その後、暗いトンネルのような所に吸い込まれて、?最後には明るい光が見えてきて、神か仏か菩薩のようなものに出会った感じがして、?そこから、突然、またこの世に逆流して体に再度戻ると、心臓が動き出し、意識が回復した。―――― というようなことだ。
幾つかの書物で、この臨死体験の色々な事例を読んだが、面白いのは、上記?の「自分を見つめている時間」だ。自分の死体の上で無き悲しむお母さんの頭の上の方が結構髪が薄くなっているのが見えた。後で、蘇生してから実際のお母さんの頭の上を見てみると、やっぱり髪が薄かった。或いは、もっと面白いのは、病院の外壁の窓の縁の上に誰かが運動靴を置いていたのが、死体から抜けていく時に見えた。蘇生後、気になって看護婦に窓から体を乗り出して見てもらい、本当に運動靴が置いてあるかチェックしたら、確かに置いてあった。――― といった体験が報告されていることだ。
?の体からすーっと抜け出るとか、?のトンネルに吸い込まれるなどの体験は、臨死体験を単に脳の化学反応で説明しようとする学者の説でも多少は説明できる。即ち、死に際し、脳が特殊な物質を分泌してそのような妄想が意識されるという説だ。(もっとも、心臓停止の数日前から既に脳が機能停止し意識がなくなっているケースでも、死ぬ瞬間だけ、このような臨死体験が意識されるらしい。特殊な物質が出ても、脳の機能停止していては、そんな体験を感じられないはずと思うので、私はこの説は全く説得力がないと思っているが。)しかし、いずれにせよ、この説では、お母さんの髪とか、窓の外の靴とかは説明できない。ただし、懐疑的学者は、こういうのは全て創作・作り話と切り捨てるわけだが。
また、体から自分がすーっと抜ける体験は、実は、臨死でなくても、結構体験されている。有名なのが、米の女優のシャーリー・マックレーン。Out on a limb という著書に、自分の意識が体を抜け出て、宇宙にまで行った体験が書かれている。最近は、元ソニーの研究者だった人が『死後体験』という本をシリーズで出している。アメリカのモンロー研究所の音楽テープを聴いていると、意識が体から離脱できるらしく、その体験を詳しく報告している。
このように、「たましい」=「超意識」の肉体離脱の話はこの世に多い。しかし、我々普通の人間には、どこまでが本当で、どこまでがウソかが分からない。前にも言った通り、学者が真面目に研究してくれないからだ。しかし、一つ言えることは、そういったことがこの世に実際にあったほうが、この世はよっぽど面白く深くなると思う。意識が脳の電気化学反応の所産だけであるという人生観・世界観を持って生きている人と、そうでない世界があるかも知れないと思って生きている人。貴方はどちらの人になって生きますか? Nat
2005年10月10日
18:25
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その他色々だよ
「たましい」って何?
私は中学の頃から、意識って何なんだということが気になってしかたがなかった。意識が脳の働きなら、死んで脳の機能が停止した時、意識も消え失せることになる。では、人はどうして「たましい」などということを言うのだろう。人が「たましい」という時、脳の意識を超えて、死んだ後も継続される「超意識」のようなものをイメージしているはずだ。
学者の中でも、超科学のようなものを一切否定する人たちは、もっぱら「たましい」をも否定する。「脳が機能停止した後に、なんらかの意識のようなものが存在し続けるわけがないだろう!意識は脳の電気化学的反応の所産に過ぎないんだから」というわけだ。意識の仕組みを求めて、人間を切り刻んでいくと、脳神経とその電気化学反応に行き着く。だから意識は脳神経の電気化学反応そのものであるというわけだ。
しかし、これは、パソコンの仕組みを解明しようとして、パソコンを解体していくと、ついには半導体素子にまで行き着き「パソコンの仕組みは半導体素子の働きそのものである」といっているのと同じだ。パソコンのハードは確かに半導体素子の集積である。しかし、パソコンはOSという基本ソフトを入れて初めてコンピューターの働きをする。むしろ、パソコンの本質はOSをベースとするソフトにある。しかし、パソコンをバラバラに分解して研究してもOSを発見することは出来ない。OSはパソコンというハードの上にかぶせられているものだからだ。
思い切って私の仮説を述べよう: 「たましい」という「超意識」があるとしても、人間が生きている間は、その超意識が、人間の肉体という物質を動かすことが出来る形態になるために、物質に乗せられる必要がある。だから、人に命が宿る時、あたかもパソコンにOSがインストールされるように、人間の脳の神経細胞というハードの上に「超意識」=「たましい」がインストールされる過程があるのではないかと思う。(ちなみに、こういう話に無理に聖書を当てはめる必要は全然ないが、たまたま、創世記の、神が最初の人アダムを創ったときの叙述が、「土の塵で作り」(肉体・ハード)、それに「命の息を吹き込まれた」(たましい・ソフト)とあるのが興味深い。)この「たましい」=「超意識」は、人間が生きている間は脳神経にネットワークを形成させ、その上に宿って、脳神経の電気化学反応を通して肉体にシグナルを送り、いわゆる通常の「意識」を起動している。しかし、死ぬ時は、古いパソコンからOSを抜き取るように、「超意識」=「たましい」が、脳神経網から、何らかのプロセスで抜け出るのではないだろうか。
以上のようなことを言うと、Nat は頭がおかしいのではないか、と思われるかも知れない。しかし、本当かどうかは知らないが、人間の死の瞬間に、「たましい」か、「気」のようなものが抜け出ていると思われるという物理学的な実験もあるし、極めて軽微だが、体重が微細に減少するという報告もある。そもそも、通常の学者は、人間を切り刻んでハードの細かい部品を研究している生物学者や医学者か、今度はモノを離れて思索にふける哲学者のどちらかに偏っていて、「たましい」等の仮説に対して、真面目に科学的に取り組む学者は少ないのだ。たとえいても異端扱いされてしまう。だから、「たましい」の抜けるというような現象が本当にあるのかないのか、あるとすればその仕組みは何かというようなことには、今の科学は対応できていない。最も重要なテーマなのに。
また、臨死体験・死後体験の報告や、輪廻転生の報告も極めて多いが、これまた、いわゆる科学者は研究することを忌避している。これまた異端視されるのが怖いか、或いは、はなからそんなことはあり得ないという本来の科学者らしからぬ狭い了見になっているからだ。
科学がこのように進歩が遅いので、人間は、いまだに太古の昔と変わらず、感覚的に「たましい」のようなものがあるのでは---という茫漠とした想いのまま放置されている。統計上、日本人の約8割は、どちらかというとこのような想いを持っている。そして、私は、その仕組みとして、「たましい」が脳にインストールされるという仮説を提示している。誰か、心ある科学者が是非、この仮説の研究をして欲しい。2つ前の記事に書いたとおり、もし私が10兆円を手にしたら、当然この研究を始めるのだが。。。 誰か私に10兆円くれない? Nat
2005年10月04日
23:33
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信じて生きている事
才能は“持ち逃げ”していいか?
はっきり言って、私の本業であるビジネスでも、余業の音楽でも、生まれつきの才能がほぼ95%であると思うことが多い。勿論、努力は圧倒的に必要だ。しかし、才能がある人は努力してもどんどん報いられるから余計に努力する。才能のない人はなかなか報いられないから途中で挫折して努力を止めてしまう。だから、結局、人間、生まれつきの才能が殆どであると言えなくもない。
しかし、学校の先生は教育的配慮から「生まれつきだけじゃない。その後の努力だ。天才だって、その陰には大変な努力がある。」と「努力」を強調する。まさか「本当は殆どは生まれつきなんだけどね。。」なんて本音は、小声でも言えない。
何故言えないのか? 言うと「努力」が虚しくなるからだけではない。それは、生まれつきの実力差が、人の運命や境遇を、余りにも大きく左右してしまっている現実に関して、やり場のない「不公平感」のようなものを感じているからではないだろうか。一人一人を神が創ったとしたら、何故、こんなに差をつけたのか?何故こんなに不公平なほどの差を?これは深い疑問であろう。
これに対して、読者の皆さんは、聖書・キリスト教は何と答えるとお思いであろうか。前に、生まれつき目の見えない人について、イエスが驚くべき説明をしたことを書いた。生まれつきの能力差と、その意味について、これまた、イエスは驚くべき真理を説いている: 生まれつき能力の差は大きい。3人いれば、5対2対1くらいの差がある。「5」に相当する大きな才能を与えられている人は、神さまから、ビジネスの大きな“元手”(資本金)を預かった部下のようなもの。それだけ大きく運用し、大きなリターンをお返しする期待もあるし、大変重い重い使命もある。一方、生まれつき能力が僅かな人もいる。「1」の人だ。その人は僅か「1」だけの元手だけを預かっているのだから、それなりの運用で僅かなリターンをお返しすればよく、使命は軽く楽に出来ているのだ。重要なことは、能力・才能は、神さまが人間に贈与したものではなく、
人間に委嘱している・預けている
ものだ、という理解だ。才能豊かな人も、その才能は、自分の「私物」ではないということだ。私物ではないので、自分だけの幸せの為にその才能を使い、才能の成果を「持ち逃げ」することは、神さまの「み心」ではないということだ。才能の成果は神にお返しするのである。(聖書の「マタイによる福音書25:14―30」のお話をご覧あれ。)
この世のビジネスで実力主義は当然であろう。たとえ能力差が実は殆どが生まれつきの差であっても、能力の高いものが、より難しい仕事に就くのは極めて合理的である。神から預かっている才能の大きい人は、運用責任も大きいからだ。しかし、そのことは、その才能の大きい人が、そうでない人よりも、圧倒的に幸せになる権利があることを意味してはいない。責任の高い仕事はリスクも高く、それなりの報酬・収入があるのは合理的である。しかし、単に生まれつきの才能がゆえにその人は「王さま」のような生活が出来、単に生まれつき才能が乏しい人は「極貧」の苦しみを与えられるというなら、そんな世の仕組みはおかしいということだろう。
才能は、神からの「預かりもの」
なのだから。
ビジネス界で、実力に拠らずみな「悪平等」の人事・収入というような会社は、申し訳ないが、消えるしかなかろう。しかし、大半が生まれつきの差である才能で、待遇に差が有り過ぎるシステムも人を生かさないと思う。なんと言っても、才能は「預かりもの」なんだから。 Nat
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