ペトロたちは空の墓から戻ってきた。マグダラのマリアは、まだそのまま途方にくれて墓に外に立って泣いていた。その彼女が復活のイエスに遭遇する最初の人になるのである。(ヨハネによる福音書20章11節。)
墓の方を向いて泣いていたマリアが後ろを振り向くと、誰かが立っていて「婦人よ。なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」とマリアに語りかけた。マリアは「あの方をどこにやったのか知っていたら教えて下さい。」と問う。しかし直接の回答はなかったので、マリアは再び墓の方を向いた。その時、その人が再びマリアに呼びかけたのだ。「マリア」と。その声は、聞きなれたイエス先生のものだった。マリアは振り向いて、思わず「先生!」と言った。これが、映画にも出てくる、マグダラのマリアと復活のイエスとの感動的な遭遇のシーンである。
マグダラのマリアは、7つの悪霊に取りつかれて苦しんでいた所をイエスに救われた女だ。それ以来、彼女はイエスに付き添う女となる。後世のかんぐりで、彼女はイエスに恋心を抱いていたのではないかと言われる位にいつも付き添っていた。生前のイエスは彼女にとって、大の恩人、偉い先生、そして、もしかして恋心を寄せた素敵な男性であったかもしれない。そんなイエス先生が突然十字架に付けられた。弟子たちは逃げてしまったが、彼女は十字架のそばにまで付き添った。そして訪れたイエス先生の最期。彼女は悲痛な思いの中にもどうしてもイエス先生を忘れられない。そこで、彼女は日曜の朝、墓の外で泣いていたのだ。
ここからが、私が想像してやまないシーンなのだが、泣きながら暗い墓の方を向いていたマリアが振り向くと、明るい朝の光の中に一人の男がたたずんでいた。逆行線の光の中でそれは誰かは分からなかった。しかし、その男は「マリア」と呼びかけるのだ。あの懐かしい声で。その瞬間に彼女の心の中の悲しみが、一気に、眩しいばかりに輝く喜びに変わるのである。思わず口から出た「先生!」という言葉に込められたマリアの心の高まりは想像に余りある。
しかし、マリアはあの思い出の中の優しいイエス先生に再び会えたのではなかったのである。人間イエスは死んだのだ。そしてマリアの会ったものは、永遠の救い主としての「復活の主イエス」であったのである。「過去の思い出の人」から「永遠の神」への転換である。そして、それからのマリアの人生を強く支えたものは、「優しい素敵な男性のイエス先生」ではなく、「死を越えて永遠に共にいて下さる神としてのイエス」であったに違いない。光の朝、マリアは、そんな復活の主イエスに会ったのである。 Nat
墓の方を向いて泣いていたマリアが後ろを振り向くと、誰かが立っていて「婦人よ。なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」とマリアに語りかけた。マリアは「あの方をどこにやったのか知っていたら教えて下さい。」と問う。しかし直接の回答はなかったので、マリアは再び墓の方を向いた。その時、その人が再びマリアに呼びかけたのだ。「マリア」と。その声は、聞きなれたイエス先生のものだった。マリアは振り向いて、思わず「先生!」と言った。これが、映画にも出てくる、マグダラのマリアと復活のイエスとの感動的な遭遇のシーンである。
マグダラのマリアは、7つの悪霊に取りつかれて苦しんでいた所をイエスに救われた女だ。それ以来、彼女はイエスに付き添う女となる。後世のかんぐりで、彼女はイエスに恋心を抱いていたのではないかと言われる位にいつも付き添っていた。生前のイエスは彼女にとって、大の恩人、偉い先生、そして、もしかして恋心を寄せた素敵な男性であったかもしれない。そんなイエス先生が突然十字架に付けられた。弟子たちは逃げてしまったが、彼女は十字架のそばにまで付き添った。そして訪れたイエス先生の最期。彼女は悲痛な思いの中にもどうしてもイエス先生を忘れられない。そこで、彼女は日曜の朝、墓の外で泣いていたのだ。
ここからが、私が想像してやまないシーンなのだが、泣きながら暗い墓の方を向いていたマリアが振り向くと、明るい朝の光の中に一人の男がたたずんでいた。逆行線の光の中でそれは誰かは分からなかった。しかし、その男は「マリア」と呼びかけるのだ。あの懐かしい声で。その瞬間に彼女の心の中の悲しみが、一気に、眩しいばかりに輝く喜びに変わるのである。思わず口から出た「先生!」という言葉に込められたマリアの心の高まりは想像に余りある。
しかし、マリアはあの思い出の中の優しいイエス先生に再び会えたのではなかったのである。人間イエスは死んだのだ。そしてマリアの会ったものは、永遠の救い主としての「復活の主イエス」であったのである。「過去の思い出の人」から「永遠の神」への転換である。そして、それからのマリアの人生を強く支えたものは、「優しい素敵な男性のイエス先生」ではなく、「死を越えて永遠に共にいて下さる神としてのイエス」であったに違いない。光の朝、マリアは、そんな復活の主イエスに会ったのである。 Nat