♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)
生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等
2006年03月
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2006年03月27日
22:52
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信じて生きている事
もうすぐイースター その3
ペトロたちは空の墓から戻ってきた。マグダラのマリアは、まだそのまま途方にくれて墓に外に立って泣いていた。その彼女が復活のイエスに遭遇する最初の人になるのである。(ヨハネによる福音書20章11節。)
墓の方を向いて泣いていたマリアが後ろを振り向くと、誰かが立っていて「婦人よ。なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」とマリアに語りかけた。マリアは「あの方をどこにやったのか知っていたら教えて下さい。」と問う。しかし直接の回答はなかったので、マリアは再び墓の方を向いた。その時、その人が再びマリアに呼びかけたのだ。「マリア」と。その声は、聞きなれたイエス先生のものだった。マリアは振り向いて、思わず「先生!」と言った。これが、映画にも出てくる、マグダラのマリアと復活のイエスとの感動的な遭遇のシーンである。
マグダラのマリアは、7つの悪霊に取りつかれて苦しんでいた所をイエスに救われた女だ。それ以来、彼女はイエスに付き添う女となる。後世のかんぐりで、彼女はイエスに恋心を抱いていたのではないかと言われる位にいつも付き添っていた。生前のイエスは彼女にとって、大の恩人、偉い先生、そして、もしかして恋心を寄せた素敵な男性であったかもしれない。そんなイエス先生が突然十字架に付けられた。弟子たちは逃げてしまったが、彼女は十字架のそばにまで付き添った。そして訪れたイエス先生の最期。彼女は悲痛な思いの中にもどうしてもイエス先生を忘れられない。そこで、彼女は日曜の朝、墓の外で泣いていたのだ。
ここからが、私が想像してやまないシーンなのだが、泣きながら暗い墓の方を向いていたマリアが振り向くと、明るい朝の光の中に一人の男がたたずんでいた。逆行線の光の中でそれは誰かは分からなかった。しかし、その男は「マリア」と呼びかけるのだ。あの懐かしい声で。その瞬間に彼女の心の中の悲しみが、一気に、眩しいばかりに輝く喜びに変わるのである。思わず口から出た「先生!」という言葉に込められたマリアの心の高まりは想像に余りある。
しかし、マリアはあの思い出の中の優しいイエス先生に再び会えたのではなかったのである。人間イエスは死んだのだ。そしてマリアの会ったものは、永遠の救い主としての「復活の主イエス」であったのである。「過去の思い出の人」から「永遠の神」への転換である。そして、それからのマリアの人生を強く支えたものは、「優しい素敵な男性のイエス先生」ではなく、「死を越えて永遠に共にいて下さる神としてのイエス」であったに違いない。光の朝、マリアは、そんな復活の主イエスに会ったのである。 Nat
2006年03月25日
17:34
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信じて生きている事
もうすぐイースター その2
イエスの復活物語は聖書の中にいくつもの話しが出てくる。これらは2000年の間人々の心を捉え、絵画になり映画になった。私もその一つ一つが好きだ。
物語の最初は「空のお墓」である。(ヨハネによる福音書20章より。)人々がお休み明けで活動を開始する日曜日の朝。まだ暗いうちにマグダラのマリアたちはお墓に香料を持っていった。イエスの死体に香料を塗ってあげたかったからである。しかしお墓は空になっていて死体はどこかに取り去られていた。驚いたマリアは戻ってペトロら男の弟子たちにそのことを告げる。ペトロと若いヨハネは墓にまで走っていった。2人が墓を覗き込むと中は空で、死体を包んでいた亜麻布が丸めておいてあった。2人は訳が分からず帰っていった。
復活の話はここから始まる。この話で私の心に迫るのは、ペトロたちが墓に走ったという点だ。
敬愛したイエス先生が突然無残にも十字架で死んでしまい、もう絶望と恐怖のどん底に落とされていたペトロらだった。そのペトロに「墓が空だ」との知らせが来る。何が起こったのか分からない。しかしとにかく墓にいってみよう。何かが起こっているのかもしれない。ペトロの心は騒いだ。ここからは想像だが、ペトロの心の中には「もしや、あのイエス先生のことだから何かが今。。。」という熱く騒ぐもの
が沸き立っていたのではないかと思う。それはまだ何かは分からない。でも心が騒ぐ。そんな感じだ。テレビのドラマでも終わったかと思わせて、実はまだ、思わぬ最後の展開が用意されているのがある。その瞬間、視聴者は「えっ、まだあるの?どうなるの?」と思わず身を乗り出す。それと似て、絶望の中にあったペトロの心の中に、少し熱い胸騒ぎが始まっていたのだ。それが彼らを駆り立て、彼らは心を半分ときめかせながら墓に走ったのである。
こんにち、色々な思いがあって教会に来てみられる多くの方々がおられる。でも教会に走ってこられる方はまずいない。また教会には、目には見えないが今も復活の主イエスが手を広げて自分を待っておられると、最初から確信して来られる人も少なかろう。「教会には何かがあるかもしれない。」そういう淡い期待だけかもしれない。あるいはもう少し心に騒ぐものがあるかもしれない。でも行くまでは分からない。
ちょうど墓に走ったペトロがそうであったのだ。胸が騒ぐ。まさか復活の主に会えるとは思わない。でも行ってみたい。ペトロはそう思って走った。そして、その日にではないが、ぺトロはついに復活の主イエスに出会うのである。
同じように、半信半疑で教会に来てみられる方の道の先にも、復活の主イエスが待っておられる。 私はそう信じたい。 Nat
2006年03月23日
22:26
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信じて生きている事
もうすぐイースター その1
これまで「神さまってホントにいるの?」シリーズを書き、その中で、イエスの復活のことについても迫った。イエスの復活を祝うイースター
は、今年は4月16日(日)。もうすぐだ。
私のようにクリスチャンを長い間やっていると、イースターも何十回も経験していることになる。しかし、日本の多くの人にとって「イエスが復活した」というウソのような話を真剣に聞かされるのは、そう多くはないはずだ。思い出すが、もう14年前の1992年。私の行っている横浜青葉区の田園江田教会の中学生のグループで、イエスの復活に関するアンケートをしたことがある。34人の中学生が答えてくれた。教会に来る子たちだから、幼稚園・小学校の頃から、イエスの復活の話を聞いていた子たちも多い。だから、一般の中学生と同じには論じられないだろう。しかし、アンケートの回答を見た私は驚いた。34人の中学生のうちで「作り話」と回答した子は2人だけ。重複回答があるから合計は合わないが、「弟子たちにも分からない不思議な体験」が24名。「神さまの子だから本当に復活した」が22名。あとは「分からない」が8名。純真に信じているとの回答がこれほど多かったのだ。中学生も、既にいわゆる科学的な知識は一定身につけ、一旦死んだ人間が滅多なことで蘇ったりはしないことを知っている。しかし、そこに「神の力」が働く時、蘇りも有るかも知れないと思ったことになる。
聖書によると、イエスの復活当時、まずイエス先生ならそういうことも有るかも知れないと思っても良いはずの弟子たちが、イエスの復活を報じた女たちの知らせを、全くあり得ないこととして排斥している。今ほど科学の発達していなかった当時でも、大人たち、特に大人の男たちにとっては、人の復活だけはあり得ないことだったのだ。
2000年の後の今、教会に来る中学生は信じると言っている。しかし、教会の外の道を歩く普通の大人たちは、多分イエスの愛の教えには敬意を払っても、イエスが復活したという事には拒否反応
の人が多かろう。それだけ、大人にとって受け容れることの簡単でない「復活」。
しかしそれを受け容れた人の人生をこれほど大きく変えるものも他にはない。
それがイースターだ。 Nat
2006年03月16日
21:32
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信じて生きている事
神さまってホントにいるの? その9
「その?」から8回に亘って「神さまってホントにあるの」シリーズを書いてきた。昔の人は雷や火山噴火の自然現象の中に神を見た。また、特に日本人の場合、死んだ肉親等の霊魂への想いが神への想いに繋がってきた。しかし、神の存在は否定も肯定も出来る確たる手段がないので、結局我々の神観は「なんとなくあるような、ないような」で終始しがちだ。そういう中で、私は、目の前に厳然と存在する命、動物でも、他の人間でもいいが、命を見つめていると「やっぱり命には物質を越える何かがある。そしてその奥に神がある」としか思えないということも書いた。
しかし、それにも増して、多くの人は神を信じる人間との出会いの中に神を感じている。私にとってそのような出会いは、直接的には父との出会いであったが、父に「神」を伝えた人はまた別の人。その人に伝えた人は、と辿っていくと、結局2000年前のイスラエルにまで辿りつくということを書いた。そこでは、イエスという人の生き様、死に様、そして復活との出会いの中に、決定的な神の働きかけを見、それによって人生を大きく変えられた人たちがいた。遥か遠くにいるだけかもしれないとも思われた神が、まさに、我々の生活の只中において「忘れ得ぬ愛の証し」を見せてくれたと信じた人たちである。この人たちの発信した愛の衝撃波が2000年後の父に、そして私にまで伝わってきているわけである。
現代の我々にとって、2000年前のような出来事が再現しない限り、過去から伝えられたものを受けとめる中で、神を感じ取るしかない。しかし、それは必ずしも一人一人の孤独なプロセスではない。この時期には、全世界の教会で、2000年前の愛の出来事を想い起こし、改めてそのことを受けとめ直す営みが行われている。イエスの復活を想い起こす日、イースター
は、今年は4月16日(日)だ。3月のこの時期は、まだそれに向かってイエスの十字架への足跡を辿る段階だが、それは確実に4月16日の復活の日で頂点を迎える。このシリーズを読んで、そのことに少しでも関心を持たれた貴方は、お近くの教会
に行ってみられたら良いと思う。 そこには、既に心の中で復活のイエスに出会った人もいれば、あなたのように、これから出会おうとしている人もいるだろう。
皆、最初はそうやって出会ったのだから。 Nat
2006年03月14日
21:27
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信じて生きている事
神さまってホントにいるの? その8
イエスの突然の死で打ちひしがれ、恐れ、絶望していた弟子たちが、力と希望に満ちた「燃えるクリスチャン集団」になったのは何故か? 私は、それこそが彼らが「復活のイエスとの再会」という衝撃的な体験をしたからに他ならないと確信している。
それは単に驚いたということではない。あれだけの力と愛を持っていたと思った師イエスがあえなく死んでしまい、「神のような人」でも死で終わってしまうのかと、深く絶望した弟子たちであった。しかし彼らは、死をも越える力を持った神の働き掛けを目の当たりに見た。また、弟子たちは、本来、十字架につけられて死ぬべきだったのは、弱く間違いの多い自分たちであったのに、師イエスは、まさに自分たちの身代わりで十字架に向かっていったのだと感じ涙を流した。そして、命を懸けて自分たちを愛し救おうとしてくれた師イエスが、復活によって、これからは永遠に共にいて下さる救い主になったと実感した。このような体験が、彼らを熱いクリスチャン集団に変えたのである。
今から、18年程も前になるが、仕事でエルサレムに行く機会があった際、イエスが刑死したと言われるゴルゴタの丘に行った。行く前には、そこでふと今もイエスがおられて、会えるような気もしていたが、実際にはそこにはもう何もなかった。金ぴかの教会が建っていただけである。しかし、エルサレムから離れ去るタクシーの中で、私はある思いに強く囚われていた。あのエルサレムで起こった出来事が、弟子たちを大きく揺り動かした。その弟子たちが、小アジア、ギリシア、ローマとその出来事を伝えて、それを伝え聞いた人が、今度はそれに揺り動かされ、更に次の世にそれを伝えていった。強い波がなかなか減衰しないように、エルサレムで発された波は、場所を越え、時を越え、ヨーロッパ中に伝播し、更に米国やアジアにまで、現代の世にまで伝わり続けてきたのだ。2000年の間、途絶えることなく、今も伝わり続ける波。大元のエルサレムで最初に発された波が如何に人の魂を揺さぶる強烈な衝撃波であったかだ。私はこれを「愛の衝撃波」と呼びたい。そう。愛の衝撃波は、今も人の心の間を伝わり続けている。今、この文章を読んだあなたの心の所に届いているのがそれだと思う。
私はエルサレムにまで行ってみたが、もうそこにはイエスはおられなかった。永遠の救い主となったイエスは、まさに愛の衝撃波が届いている、あなたの心の只中におられるのだから。 Nat
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