♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2006年04月

ブルースって何?

笑顔 「ブルース」という言葉を知らない人は少ない。なんとなく、ちょっと陰鬱で、ちょっと退廃的で、それでいて、なぜかちょっと暖かい、そんなサウンドの音楽といった感じではないだろうか。日本では、歌謡曲の世界で「港町ブルース」など「XXブルース」というのが多い。要するに4拍子の、ゆったり・しっとり・みっちりというノリの曲がブルースといわれる。また、社交ダンスの世界でも、ブルースというと、ゆったりした4拍子の曲で踊る踊り方のようだ。

譜面 しかし、ジャズの世界でブルースというと、実は「ゆったり4拍子の曲」とは相当違う意味になる。広い意味では黒人が辛さを歌った比較的単純な繰り返し基調の歌の意味にもなるが、もう少し狭く「ジャズのブルース」となると、特定の構成の12小節の音楽を意味する。和音のことを余り御存知ない方でも、「主要3和音」というのを小学校や中学校で習ったのを思い出されるだろう。ドミソ、ドファラ、シレソの3つだ。ジャズのブルースというのは、一番簡単に言うと、バックでなる和音が、4拍子、つまり4拍を一小節として、一小節ごとに、ドミソ、ドファラ、ドミソ、ドミソ、ドファラ、ドファラ、ドミソ、ドミソ、シレソ、シレソ、ドミソ、ドミソ という順序で変わるものなのだ。ピアノのある人は、このドミソ、ドファラというのを順番に弾いてみたらいい。「ドー」「ミー」「ソー」、「ドー」「ファー」「ラー」と一音ずつ弾いてみるといい。なんとなく、どっかで聴いた音楽の雰囲気が思い起こされたら、あなたは、割といい音感をしている。それがジャズのブルースの雰囲気なのだから。

マイク この12小節の和音の順番が後ろで鳴っているのに合わせて、それに合うような歌を鼻歌のように口ずさむ。これがジャズのブルース。I hate to see---- the evening sun go down. を最初の4小節の間に口ずさむ。そして、次の4小節で、また、Hate to see---- the evening sun go down. 最後の4小節で Cause my baby------he done left this town. とBroken Englishで口ずさむ。これで有名なSaint Louis Bluesになる。 

音符 ジャズ音楽家は、こんにち、この12小節のブルースという音楽を、もう少し、複雑にカッコよく奏でる。しかし、基本は上に書いたとおり。このネチっこい、単純な12小節ブルースのフィーリングのないブルースはブルースじゃない。多少、モダンなカッコいい和音の変化を挿入するのは結構。私もそうしている。しかし、ブルースのブルースたるゆえんは、元々の、あのネチっこい単純な12小節ブルースのフィーリングラブにあるのだ。  Nat   
 

イースターシリーズ 完!(今日がイースター)

Happy Easter !!

ヒヨコ 今日はイースター当日です。私は朝から自分の行っている教会家で、12歳くらい以上の若い人たち主体の礼拝で、今日聖書本からのメッセージを話す番でした。一所懸命に若い人や、一緒に来られたお父さん・お母さんに向かってお話させて頂きました。

チューリップ イエスの死で全ては終わったと思った。でもそれは終わりでは
  なく、始まりだった。
チューリップ 優しかったイエス先生も死んでしまったと思った。でも、イエス
  はもはや死ぬことのない永遠の救い主として私たちといつも共
  にいて下さるようになった。
チューリップ 弟子たちは、復活のイエスに出会って立ち直り、希望と喜びを
  証しする人たちに変えられていったのである。

笑い このような話しを今日初めて聞いた子どもたちやお父さん・お母さん。どう思われたでしょう。このイースターシリーズを読んで下さったあなたも、どう思われたでしょう。すぐに全部信じることは難しいかもしれません。弟子たち自身、「復活」と聞いた最初は戸惑い、恐れた困ったのですから。私も中学のころ、本当かしら怒りと随分思ったのですから。でも、今は上に書いたことを心から信じる人ラブ になりました。そして、そうなれて、とても良かったと思っています。人生に「信じる喜び」ドキドキ大ということはあるでしょう。逆に「疑うダメ喜び」というものはないように思います。だから、もし純真に信じられれば幸いなことと思います。      Nat

もうすぐイースター その7

日の出 いよいよ明日がイースター!! 

笑顔 昨日はイエスが十字架で刑死したことを想う日(受苦日)であったが、今日の土曜日はイエスの死体がお墓の中に安置されている「復活を待つ時間」だ。そして、明日の朝。日曜の早朝、墓に行ったマグダラのマリアは空の墓に驚く。そして弟子たちの隠れていた家に行って、そのことを報告するのである。

笑顔 このことは、このシリーズのその5にも書いたとおりだが、弟子たちは、前の金曜の夜、そして土曜日と、自分たちにも類を及ぶのを恐れて隠れ家に潜んでいた。多分、落胆と恐怖で余りよく寝れなかった2晩ではなかったか。そうやって、日曜の早朝、疲れ果ててうとうととしかけていた弟子もいたであろう。そこにマリアの驚くような知らせが舞い込むのである。「皆、大変よ。起きて。イエス先生の死体がなくなっているの。」そのまま寝ているには余りにも驚くような知らせだ。中でも飛び起きたペトロは妙に胸騒ぎを覚えた。そこで若いヨハネを誘って一緒にお墓の所まで走っていったのである。

本 こんにち、私たちは、このペトロの走った後の物語り展開を知っている。ペトロたちが復活のイエスに出会い、そして変えられていったと事を記した聖書が残っているからだ。そして、復活の日である日曜日は、キリスト教文化圏においては一週間の中で休日になった。また日曜の朝、毎週、目には見えなくても復活のイエスに会うために教会で礼拝があるようになった。イースターの日に限らず、毎日曜に会うのだ。

朝日 ところで、私は朝起きるのが得意ではない。日曜も遅くまで惰眠をむさぼっていたい方である。しかし、日曜の朝には女房に頼んであって、早い時間に起こしてもらう。私の教会で一般の礼拝の前に、子どもやそのお父さん・お母さんと一緒の礼拝もあり、私はその担当もしているので、結構早く起こされる。でも、それは、あの朝、ペトロがマグダラのマリアに起こされたのと同じなのだ。私は「起きて!イエス様が教会であなたを待っているのよ!」という呼び声で起こされているのだと思う。毎週のことだから、さすがにペトロのように胸を高まらせて走っていくことまではしないが、「今日もまた会える」という喜びで教会に向かっていくのだと思う。

ヒヨコ イースター。それは、これを読まれているあなたにとっても、復活の主イエスとの出会いの時になるかも知れない。復活の主イエスに会って大きく変えられていったペトロらのように、あなたも、そこから変わるかも知れない。私はそう思う。 にっこり  Nat  

もうすぐイースター その6

笑顔 その5で書いたとおり、復活のイエスはエルサレムに隠れていた弟子たちの部屋の中に2度姿を現した。エルサレムではそれで終わり。ペトロたちは一旦驚くやら嬉しいやらで大変元気づけられたが、結局、そのままずっとエルサレムに隠れていることも出来ず、故郷のティベリアス(ガリラヤ)湖畔の村に戻っていった。それで、また、元のように漁師になり、元の平凡な生活に戻りつつあったのだ。弟子たちが、そのまま田舎で漁師に戻ったきりであれば、その後のクリスチャン集団の発生も、原始キリスト教会の誕生も、キリスト教の宣教開始もなかったはずである。神は、漁師に戻ろうとしていたペトロたちの魂を再び揺り動かし、後の「宣教するクリスチャン集団」を率いるペトロたちに転換する必要があった。そこで、最後の復活のイエスの物語が登場する。

本 聖書(ヨハネによる福音書21章)では「その後」として、以下の物語を記している。ペトロたちは漁をしていた。その日の朝はさっぱり魚がとれなかった。岸に一人の男が立っていて、その人が「舟の右側に網を降ろしてみなさい」と言った。ペトロたちが言われた通りにすると網が破れるくらいの大量の魚がとれた。その瞬間にペトロらは、それがイエスであることを知った。そのまま、イエスも一緒に皆で朝の食事をした。その食事の席でイエスはペトロたちに、これから自分のことを証しし述べ伝える人となるようにと話された。それを受け、ペトロらは、再びエルサレムに戻り、迫害と戦いながらエルサレム教会を創立するのである。後の世で「聖ペトロ」(St.Peter)と呼ばれることになる使徒ペトロはこうやって誕生した。

びっくり この話から私が感じることが2つある。まず、3月14日の当ブログで書いた通り、イエスの復活の出来事は、弟子たちにとって強烈な「愛の衝撃波」で、弟子たちの魂を一旦は根底から揺り動かした。しかし、肝心の揺り動かされた弟子たちが、自分たちの動いていくべき方向性を全然分かっていない。だから、方向感を喪失し、田舎に戻り漁師になるというように、早くも「失速」状態に陥りかけていたのである。いわば私もこれだった。若い頃に教会で聞いたこと・感じたことに突き動かされ、クリスチャンになる。しかし、それだけでは失速するのだ。人間は、どんなに強烈な感動でも、それだけで一生突き動かされるほど上等な存在ではないのだ。これが一点目。

まる そんな弟子たちや我々を神さま、あるいは復活のイエスはほってはおかない。勘違いしたり、失速しても、追いかけてきてくれる。しかも、ペトロたちの最も日常的な生活の現場にまで降りてきて、生活の現場で「舟の右側に網を降ろしたら」とまで言って、弟子たちの当面の関心事にまでレベルを合わせてくれる。いきなり「漁をすぐに止めて、本来の宣教に戻りなさい」とは言わない。どこまでも我々のレベルに合わせてくださるのである。これが2点目。

にっこり 復活のイエスが弟子たちに現れたのは、聖書によれば、当ブログ記事のその3,4,5で書いたそれぞれの出来事の3回であるとされている。どの回も、非力で疑いに満ちた弟子たち、方向感の分かっていなかった弟子たちに、レベルを合わせた形での現れ方だ。こんにち、復活のイエスは今も活きて我々と共にいる。しかも、我々のレベルに合わせた形で共にいて下さる。これが我々クリスチャンの信じていることだろう。 Nat

もうすぐイースター その5

朝日 イエスが最初にマグダラのマリアに復活の姿を見せたのが日曜日の朝だが、その日曜日も夕方になった。弟子たちは、マリアから話は聞いていたが、とても信じられないし、それよりも当局が自分たちも逮捕するのではないかと恐れ、皆で家に隠れて鍵をかけていた。泣く そこへ突然、イエスが姿を現し、皆の真ん中に立って「あなた方に平和があるように」と言われた。(ヨハネによる福音書20章19節。)そして十字架のはりつけで釘を打たれた跡の生々しい手と、槍で刺されたわき腹をお見せになった。弟子たちはそれで初めて信じ、喜んだのである。そして魚を一切れ食べられた。(ルカによる福音書24章36節。)

本 ところが、この話には非常に意味の深い後日談がある。この話がクリスチャンの心を捉えてやまないのだ。弟子たちの一人でトマスという人がいたが、最初の日曜の夕方、イエスが姿を見せた時、その場にいなかった。そこで「自分はそんなこと信じない。自分で手の釘の跡を見てわき腹に手を入れてみるまで絶対信じない。」と主張した。怒る 至極当然の反応ではある。その日から8日の後、また皆は一緒に隠れていて今度はトマスもいた。そこに再びイエスが現れた。それでトマスに向かって「私の手をみなさい。わき腹に手を入れてみなさい」と言われた。更に「あなたは見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」と言い残された。

笑い この話が人の心を捉えて離さないのは、先ず一人だけ最初の出会いから漏れたトマス、彼一人のために、イエスはわざわざ再び現れてくださっている点だ。ドキドキ大 復活のイエスは一人一人の置かれた事情を十分踏まえて、一人一人に対応して下さる救い主なのだ、との信仰の原点がここにある。また、「見ないのに信じる人は幸い」とのメッセージは、その後、弟子たちからイエスの復活の話しを伝え聞いて、それで純朴に信じた多くのクリスチャンたちの大いなる励ましになったことであろう。クローバー

国旗 2000年の後の現代の日本で、復活のイエスを見たり、わき腹に手を入れることはもう出来ない。そのような私たちにも「あなたがもし見ないで信じられるなら幸いだ」とのメッセージドキドキ小が活き活きと投げかけられているのだ。そして事実、信じられる人は本当に幸いなのである。笑顔 Nat 
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