笑顔 イースターの「イエスの復活物語」の中で、皆が結構好きなのが「エマオでの復活イエス」の話だ(ルカによる福音書24章13節)。私もこの話しがとても好きだ。

悲しい困った 2人の弟子たちがエルサレムから逃げ落ちて、エマオという村に向かって歩いていた。将来を期待していたイエス先生の突然の十字架刑死は、彼らにとって大きなショックであったに違いない。「なぜイエス先生は無抵抗に十字架にかかったのだろう?」彼らは論じ合いながらエマオに向かって歩いていた。その時、一人の知らない男が後ろから彼らに追いついてきて一緒に歩き出した。2人の弟子はその男に、エルサレムでここ数日の間に起こったこと、イエスの墓が空になっていた事などを話した。そうすると、その見知らぬ男は、なぜか「ああ、もの分かりが悪く、信じられないんですね。救い主はこういう苦しみを受けてから栄光の姿を見せるはずではなかったのではありませんか。」と、歩きながら聖書の説き明かしまでをしたのである。そうやって一行はエマオに到着した。2人はその男も無理に誘って一緒に宿屋に泊まり、3人で食事の席についた。その男はパンをとり、祈りながら2人にパンを割いて分けてくれた。その時、2人の目が開けて、それがイエスと分かったのである。その瞬間にイエスの姿は見えなくなった。2人は「そうだよな。さっき道すがら話しを聞いていて、私たちの心がもう一度燃えたよな。やはりイエス先生だったんだ。墓が空という話は本当だったんだ。」と興奮しながら話し合った。そこで彼らは、宿泊を取り止め、まだエルサレムに残っていた仲間にこのことを知らせようと、急いでエルサレムに戻っていったのである。

びっくり 私は、この話で、エマオに逃げ落ちていく途上の2人と、エマオから興奮しながら戻っていく途上の2人とのコントラストに着目したい。「エマオへの道」における2人は、イエス先生を失い落胆と混乱の中にあった。「もう全てが終わってしまった。ふるさとに帰ってやり直しだ。」心は沈みこみ暗かった。しかし復活のイエスに会った彼らの戻って行った「エマオからの道」では違っていた。イエスがエマオに向かう途上で説き明かしたように、イエスは永遠の救い主としての姿を彼らに示し、彼らの魂を再び揺り動かしたのだ。そのエネルギーに突き動かされて走るようにエルサレムに戻って行った「エマオからの道」での彼らの足取りは、飛ぶように軽く、弾む心を表していたに違いない。

笑顔 我々の人生では、若い頃は希望にも満ちているが、次第に世の現実、自分の現実の中で、心は勢いを失い、とぼとぼと歩くことにもなる。様々な落胆や苛立ちを抱えて歩くことにもなる。「エマオへの道」を沈み込みながら歩いた2人の弟子たちのように。しかし、復活のイエスに出会った後の人生は、再び、いや、初めて本当のエネルギーに満ちた足取りに変わる。どんな世の現実があろうと、救い主イエスが一緒にいてくれる。この確信は、乾いた魂にとって決定的なエネルギーになるのだ。「エマオからの道」を息を弾ませつつ歩いた弟子たちのように。

電球 現代の世にあっても、一人一人の魂が復活のイエスに出会って、「エマオへの道」を歩く”下向き”の人生から、「エマオからの道」を歩く”上向き”の人生に変えられていくことを願いたい。 Nat