♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)
生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等
2006年05月
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2006年05月28日
21:28
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信じて生きている事
イエスは人間?神? その4
その3までで、読者の皆さんはキリスト教の「三位一体」の3つめで「聖霊」というのが出てきたのにお気付きだろう。この「聖霊」とは何かをやっぱり書くべきでしょうね。しかも、この時期は、最高にその時期なのだ。来週の日曜、6月4日は、聖霊が世に与えられたことを記念する特別の日曜、ペンテコステ(聖霊降臨日)なのだから。
「聖霊」は、教会の中でも、割と説明が苦手な人の多い話だ。「聖なる霊」なんて、ちょっと、エクソシストかなんかみたいでしょ。まずは名称は忘れてください。その上で、これは何かというと: イエスが復活の姿を現した40日間の後、弟子たちは、イエスが言っていた「自分はもう見えなくなっても、替わりに、神さまからの特別の力が与えられる」という約束を信じて、エルサレムでみなで集まっていた。その日曜日、突然、風のような音と共に、神さまからの特別な働きかけで、弟子たち一人一人に神さまからの力が与えられたというのだ。弟子たちは、無教養な弱い普通の人間だったはずだが、この神さまからの力で、急に外国語も含めて、しっかりと神さまのことを語り出した。その後、エルサレムを起点にイエスキリストのことを広く語る初代キリスト教会の使徒と呼ばれる人たちは、こうやって誕生したというのだ。この時、弟子たち・使徒たちに降り注ぎ与えられたと彼らの感じたもの、これは、目には見えないが、イエスキリストが、いわば「たましい」としてずっと弟子たちと一緒にいてくれるもの、とも感じられた。そういうわけで、これを「聖霊」と彼らは呼んだのである。
それが本当には何なのか、神さまからの力なのか、イエスさまの「たましい」なのか、所詮、そんな難しいことは弟子たちにも分からなかった。でも、弟子たちは、上からの「何か」によって決定的に力を受け、死ぬまで活き活きと戦う使徒たちに変えられていったのである。このことは我々にも、おおいに意味があることだ。その「上からの何か」が私たちにも与えられるなら、私たちも、死ぬまでそのような力によって支えられて生きることが出来ると信じられるなら、それは私たちの人生を変えるかもしれないからだ。これが、難しい三位一体論の言う3つめの「聖霊」だ。三位一体の難しい理論はさておいても、「目には見えないイエス」が、あたかも「たましい」のように我々のすぐそばにいて下さり、我々を決定的に力付けてくれると信じるかどうかが問題なのだ。少なくとも私はそう信じて生きている。
Nat
2006年05月27日
21:46
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信じて生きている事
イエスは人間?神? その3
その2で、弟子たちは理論ぬきで直接イエスを信じたのに対し、「三位一体」論は後世の人たちが後で理論付けしたものだから、私が体と心で信じていることと余り関係がない、ということを述べた。だから、私は取り立てて「三位一体」論を向きになって否定することもない替わりに、その理論的な部分について「それこそが私の信仰の根源である」とも思わない。
しかし、歴史上、三位一体論派と反対派の間では実にエンドレスの論争が繰り広げられたようだ。例えば、イエスについて弟子たちが感じた大切な想いの一つに、我々の罪深さのゆえにイエスが「いけにえ」=「神に対する犠牲の捧げもの」になって自分の身を十字架に捧げたということがある。反三位一体派は言う「もしイエスが神そのものなら、なぜ神に対して自分がいけにえになる必要があるのか?自分が自分のいけにえになるのはおかしい。」こういう理屈を巡って両派の間で喧々諤々やる訳だが、こういう議論は、純な人間の心のレベルからどんどん離れるのである。
では、私に限らず、実際のクリスチャンはどうか。少なくとも私の周りの日本人クリスチャンは一応みなこの三位一体論を知っているし、「理論的に言うと、そういうことなんですね。。。」と思って受け入れている形になっているものの、実は、自然体で心の中で思っていることは、完全な形での三位一体論からは、ずれている面が多い。三位一体論では「父なる神」と「子イエス」(と、あと難しいが「聖霊」というもの)が3つとも対等で、どちらが先とか上とかいうことはないということになっている。しかし、みなの自然感覚では、まず「天の神さま」がある。それでイエスは「天の神さまから送られてきた救い主、我々のことを我々のレベルで理解してくれる人のレベルの神」である。だとすると、明らかにセンスとしては、「天の神」が上であり先であり、「子なる神のイエス」は「天の神から来たもの」なのである。
このように、「対等で順序なし」との三位一体論とは違い、普通のクリスチャンのセンスとしては順序がある。聖書の中に記録されているイエス自身の言葉でも、イエスが父なる神を自分より上のものと看做して語る言葉が数多い。クリスチャンでない普通の常識人にも、そっちの話の方がよほど分かりやすかろう。また、実は、三位一体論に合わせて聖書に盛り込まれた聖書用語「父・子・聖霊」だが、常にこの順序である。三位一体論を強く主張した4世紀の学者・聖職者たちも、本音では「天の父なる神」を最初にイメージしていたのかも知れない。
というわけで、「イエスが神と同等の神そのもの」などと理論付けし過ぎてムキになることはない。弟子たち同様、「目には見えなくても、イエスは私の神さまとしてすぐ傍にいて私を愛して下さっている」「それが私の人生の救いであり力である」と自然に素直に思えばそれ以上の理屈は要らない。ムキになるから、それを覆そうとするダヴィンチコードみたいなのと無為な論争をする羽目になるのだ。 Nat
2006年05月27日
00:47
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信じて生きている事
イエスは人間?神? その2
前回、「三位一体」に触れた。「父なる神と、イエス(神の子)と、神の送ってくれた力(聖霊)の3つは、それぞれが神そのものであり、かつ、本質的にその3つは同じ神であり、3つで全体として神なのだ」といったところが「三位一体」の中身だ。
これを読んだ皆さんの中には、「え? クリスチャンって、そんなややこしい教理をホントに分かって信じてるの?」と思う人がいるかもしれない。ご安心ください。私の知る限り、クリスチャンで、この難解な三位一体論に感激して、「この三位一体説は素晴らしい!これで生きる勇気が湧いた。クリスチャンになろう。」なんて思った人は一人もいない。みな、もっと素朴に、普通に、イエスを通じて神の愛を感じ・信じて、そのあとで一応「理論的に言うとこういうことかも」という三位一体の説明を聞いたのである。
では、普通のクリスチャンにとって、イエスは人なのか?神なのか? たぶん、弟子たちが、イエスという人に出会って感じたことと、結局同じなのだ。前回に書いたことだが、弟子たちは、こう感じたはずだ:「?イエスという人は、人間を越えた神のようなと力を持っている人だ、?この人の中に神を見る気がする、?そしてこの人を信じることが、即、神を信じ、神にしっかり繋がることになる気がする」。弟子たちはこう感じたのだ。後の世のクリスチャンは、このような弟子たちの言い伝えを纏めた聖書を読んで、弟子たちに似た“擬似体験”により「イエスを信じることが神に繋がることだ」と体感したのである。このように信じたクリスチャンに、「ところで、そのイエスって人?神?」と聞いても、たぶん、答えは返ってこない。クリスチャンにとって「イエスはまず人間ではあるが、その人間イエスの中に神を見、神の愛と力が決定的に証しされていると信じた」ということに尽きるのである。イエスは結局神そのものなのか? それとも人の中に神が現れているのか? そんなこと聞かれても知らない・分からない。所詮、人間には神のことを論理的に分かるよしもないのだから。イエスの人間性・神性も、普通の人間には知るよしもない。理屈じゃなく、ただただ感じ、信じて生きるかどうかだけである。
小生は、だからといって「三位一体」を否定したり、疑義を呈しているものではない。そういう「あとづけの理論」よりも、弟子たちが体験したイエスを、また、弟子たちがイエスの中に見た神を、もっと純朴に、体で、心で、受けとめようよ!と言っているのである。それで十分ではないか。 (今日はもう寝るけど、その3もまた書きます。) Nat
2006年05月25日
22:09
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信じて生きている事
イエスは人間?神? その1
ダヴィンチ・コードについて書いた前回の文で、「イエスが人間的であったことは、その方が我々の救いになることはあっても、キリスト教の信仰を揺るがすことは全然ない」という趣旨のことを書いた。
しかし、本当はもう少し複雑なのだ。イエスがオナラもしない、にこっとも笑わない、人間とは全く異なるものであったとまで思うクリスチャンは少ないかも知れないが、女性に対して男性としての人間的な想いも一応持っていたのではとまで言われると、少なからずイメージダウンと感じるクリスチャンはプロテスタントでも結構いるような気がする。それは、いわゆる「三位一体」という教義で一応「イエスは神そのものである」という位置づけが少なくとも4世紀以降は主流になっているからだ。つまり4世紀に、それまでの教義論争が「三位一体」で決着して以来、イエスの人間性よりも、イエスの神性が表に出るようになった。だから、信仰の対象としてのイエスは、だんだん、オナラもしない、にこっとも笑わない「神である人」のイメージになっていった面がある。
だけども、実際にイエスと共にいて、更に十字架刑、復活という出来事を体験した弟子たちにとってイエスはどういうものであったのか?という原点に戻ってみたい。弟子たちにとって、イエスは勿論紛れもない一人の人間だが、ただの人間とは思えない神がかった力や愛を持っていた先生であったに違いない。そして、そんな神がかった先生が、何故か従容として十字架につき、あたかも何かの犠牲になって自ら苦しみながら死んだように感じた。と思ったら、その死んだ先生が復活の姿を見せ、神の力と愛がイエスの死を越えて永遠にあることが証しされたと信じた。この一連の出来事の中から、弟子たちは、人間イエスの中にこそ神の愛と力が証しされたと信じたのである。そして、イエスはその後も目には見えないが常に共にいてくださる「たましい」のような存在となって弟子たちに力を与え続けてくれているとも信じたのである。弟子たちの信じたことはこういうことである。それで彼らが、元の弱く小さな人間から、語り続ける強い人間になっていった、この事実だけで、我々も同じことを信じて生きようとする十分な根拠になっているのである。本来、それ以上の難しい教理やら教義は必要なかった。
しかし、段々時間がたち、イエスから直接インパクトを受けた弟子たちの時代ではなくなり、その伝承の時代になると、色々な理論付けが必要となってくる。そもそもイエスに会った人が誰もいない時代になると、イエスは人間なのか、神なのか、当然この論争が始まる。「限りなく神に近い人間」とか「人であり神でもある」とか色々な哲学的議論がなされた。しかも、人でもあり神でもあるなら、天にいるいわゆる「神」とイエスはどういう関係?イエスは神の変身したもの?同じもの違うもの?などというややこしい論議がなされた。それで4世紀のいわゆるニケアの宗教会議で「天にいる父なる神と、イエスと、それと、その後弟子たちに与えら得た力である聖霊とは、それぞれが同じ神であり一つのものである」という最高にややこしい教理が正統派として勝ち残ったのである。
だから、カトリックでもプロテスタントでも、一応現在あるキリスト教では基本的に、みな、この三位一体の教義に基いている。単純にいうと、イエスは神が人間の形態をとったもので、その意味ではイエスは人間でもあるが神そのものでもあるということになる。そこで、結局、それぞれのクリスチャンの心の中のイメージとしては、人間性が先にくるイメージを持つ人から、神性が先にくるイメージの人まで幅が出来るのである。ダヴィンチコードを不快に思うクリスチャンから、そう思わないクリスチャンまでレンジがあるのは、そもそも、クリスチャンのイエスに対するイメージにおいて、実際には幅があるからなのである。
Nat
2006年05月21日
19:47
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信じて生きている事
ダ・ヴィンチ・コードがキリスト教を揺るがすだって??
ここの所の「ダ・ヴィンチ・コード」ブームは凄まじい。映画の封切りでマスコミの報道や番組が大過熱状態。また、一部のカトリックの国や集団の「信仰への侮辱だ」抗議や放映ボイコットも凄い。
しかし私としては、取り敢えず、急ぎ、ひとこと言っておきたい。少なくとも我々プロテスタント教会のクリスチャンとしては、ダ・ヴィンチ・コードで問題提起していることと我々の信じていることは別のことだ。また「キリスト教の根源を揺るがす」との指摘も、キリスト教にも幅があるので以下に述べる一部には多少関係してくるが、それ以外では全く的外れだ。
但し正直に言うが、私はまだダ・ヴィンチ・コードの本も読めてないので、本に関する以下の了解が間違ってたら、このブログへの「コメント」で教えてください。その前提で:
イエスとマグダラのマリアとの結婚、その間の子ども、という話が、ダ・ヴィンチ・コードの主題になっているようだ。特に一部の国のカトリックの人たちが、これに猛反発している。
● 確かに中世のカトリック教会は「イエスの人間性」を切り捨て「雲の上の存在」として神格化しようとした。それはそうやって、意図的に人間とイエスキリストの間に埋めがたい距離を作り、その距離を仲介する教会の聖職者の役割をより強固な利権として高めようとしたものだ。もしダ・ヴィンチが本当にこのような中世カトリック教会の歪んだ振舞いに挑戦したのだとしたら、それには私としても、むしろ共感を覚える。後に中世カトリック教会に立ち向かうルターらのプロテスタント運動と、気脈において通じるものがある。
● そんなカトリックの伝統もあり、後世の、特にカトリックの、ある方々は、イエス像を拝む・聖母マリア像を拝むというように、人間イエスそのものを神格化して拝む。そういう方々にとって、イエスは余り人間的でない方がイメージに合うのだろう。だから、イエスが女性に好意を抱くなどという話は、イメージぶち壊しであり、冒涜と思うのであろう。
● しかし、プロテスタント的な信仰からすると、人間イエスは全ての人間性を持った人間でないと意味がない。聖書に書かれている通り、イエスは、ある時は泣き、ある時は楽しくワインを飲み・食べ、飢えも痛みも感じる人間だった。また、そこまでは書いてないが、男だから、たぶん女性への気持ちも十分持っていただろう。このように我々と全く同じ生身の人間であった。そのことこそが、我々クリスチャンの信仰の大前提なのである。そんな生身の人間のレベルに神が降りて来て下さり、人間のレベルで神の決定的な救いの業が、イエスにおいて現されたからこそ、我々への身近な救いになるのだ。弟子達は、人間イエスの十字架のさま、そして、その後の復活のさまの中に決定的な神の愛と力を見た。生身の人間イエスの中に神の証しを見たのである。そしてイエスの死後・復活の後、神の愛と力の現された人間イエスのことを「自分達の救い主」であると信じ、そう告白したのである。
●また、実際イエスはマグダラのマリアと特別の関係であったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。もしたとえ特別の関係であったにしろ、当然その実態を一番よく知っていた弟子達が、それも含めたイエスの中に神の愛と力を見て、そんなイエスを救い主であると信じたのであれば、それはそれで結構ではないか。生身の人間のイエスが実際どちらであったかは、我々に知るよしもなければ、我々の信仰の本質には直接関係もない。ちなみに、生前のイエスを知らず、イエスの死後、復活のイエスにだけ会って、のちに最大の伝道者となったパウロも、生前のイエスの具体的な人間像には全く関心がないと書き残している。まさにその通りであろう。だから、マグダラのマリアとの結婚の話は、知的好奇心としては、大変面白いが、信仰の世界とは関係ない。どうであろうが、少なくとも我々プロテスタントの信仰には関係してこないのだ。
あと、聖杯がどこにあるとか本物がどうのこうの--。これは更にもっと無関係。そんな遺物があるにしろないにしろ、そういう物体を拝むクリスチャンはいないわけだから、それも完全に知的好奇心の世界である。
最後に昨日の某テレビで、4世紀にローマ帝国のコンスタンティヌス皇帝が聖書の編集をさせて今我々の見ている聖書がカトリック教会の都合のよい内容のみに改竄された云々という、非常に偏った興味本位の話をやっていた。もう下らないから、いちいち、多くを書かないが、イエスの死・復活の直後には勿論まだ新約聖書は書かれてなかった。イエスの生き方、死に方、復活の様に直接触れた弟子達が自らの体験から信仰を持ったのである。最初の聖書が編集されるのは、それから30年ほど経って段々詳しいことが忘れられそうになってきた時代のことである。このように、最初のクリスチャンである弟子達は聖書を読んで信じたのではない。自らの体験からまず信じたのだ。その人たちが後の世のために聖書として書き残したのである。だから、それから更にもっと後世に、更に4世紀ごろまで編集が続けられたのは事実だが、編集されてきたということと、初期クリスチャンの信仰の原体験とは別問題なのである。また、編集の過程で外された文献も、こんにち外典として読むことの出来るものもある。「ダ・ヴィンチ・コード」原本は、まだしも色々研究して書かれているのだろうから(5月31日Nat追記:どうも原本の書いている多くのことも歴史の専門家からは完全なフィクションとこき下ろされているようですね) 娯楽小説としてそれなりに尊重するとしても、単にそのブームに便乗している日本のテレビ番組は何時もながらいかにもお粗末で嘆かわしい。
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