♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2006年08月

なんでそれでも信じてるの?

家 私の行っている教会で、いつも教会にきているある男性が言った。「妻が私に聞くのですよ。『あなたは神さまにいつも祈っているのに、あんな病気になったじゃない。いつも祈っているのに、息子があんなことになったじゃない。なんで、それでも神さまを信じてるの?』って。私はどういえばいいんでしょうね?」

笑顔 これは、多分、クリスチャン、あるいはクリスチャンでなくても、何かの神を信じて祈り続けて生きている人間が、何千年も、何万年もの人類の歴史の中で、常に問い続けていることだろう。多分、その人の奥さんも、なにも御主人を愚弄して詰問しているのでなく、本当に「なぜ?」との問いを発しておられるのだろうと思う。

笑い これに対して、その場で私はこういった。「親子が話ししているとする。子は親に必死に何か訴えている時、子にとって一番大事なのは、親が真剣に聞いて受けとめてくれているかどうかだろう。そうであれば、もし親がその場で、即、解決に繋がる返答をしなくても、子は怒ったり決定的に失望しないだろう。むしろ、例えば、子がお金のことで悩みがあることを話した時、まず親がその悩みを本当に理解してくれることを望んでいるのに、話しの途中でいきなり財布からお金を出されては、いい感じはしないだろう。親は眼の前にいるから、その存在に疑義はない。また、真剣に聞いてくれているかどうかは、見れば分かる。ところが、神さまは見えない。祈りで話しかけても、先ず願いが叶うかどうかの前に、そもそも真剣に聞いてくれているかどうかも分からない。もしかして、最初から神なんていないのかも知れない。奥さんにとって、神が本当にいて、祈りを真剣に聞いてくれているかどうかを検証できる唯一の方法は、祈りの願いが叶うかどうかを見極めることなんだろう。目に見えないから、多分、それ以外に検証の手がないということだろう。それなのに願いは全然叶わない。それでも神はいて祈りを聞いてくれていると信じる貴方は、どうして、何を根拠にそう思えるの?こう聞いているんでしょうね。それに対する返事は、さきほどの親の話しになるのではないかしら。親は、子の訴えを、必ずしもそのまま直ぐに解決するとは限らない。それがその子にベストなことかはどうかはまた別だから。直ぐに解決してくれないからといって、親がそこに存在しないとは誰も思わない。親が結局聞いてくれてなかったとも思わない。親が自分を本当に愛してくれているかどうかが一番大事。それさえ分かっていれば、すぐに解決をくれなくても、その親への信頼は変わらない。神さまに対しても同じ。神さまを信じているというのはそういうことではないかしら?」

落ち込み その人は、一応頷かれた。でも、奥さんに実際にそのように言われるほどに、得心されたようにも見えなかった。私たちは、このことに本当はどう答えればいいのだろう?人類何千年・何万年の問いだから、直ぐに答えはないのでもしょうがないかも知れない。でも、なんら答えがないままということもないはずだ。私もこのことを考え続けたい。読者の皆さんのご意見もききたいものだ。  にっこり Nat

もう靖国神社は-----。

笑顔 過去1年間余りの私のブログで靖国神社に直接・間接関係する記事を20回近く書いてきた。そして、恰もその集大成であるかのように、今月初めに、私の行っている教会で中高生と一緒に靖国神社に行ってみて、そして靖国神社問題を出発点にして、日中戦争・太平洋戦争につき中高生に模擬討論会をしてもらった。そんなことだから、さぞかし、私自身は、本日の小泉首相の参拝に強烈な反対意見を持っているのであろうと思われがちである。しかし、私は、首相の参拝に敢えて反対も賛成も唱えないのである。はてななぜか?

まる 私は、このブログで、例えば中国が、東京裁判から日中平和友好条約までの経緯から、A級戦犯の合祀された靖国神社に首相が参拝することには、強烈に反対せざるを得ない事情にあることにつき度々述べてきた。また、日本サイドには、加害者でありつつ、被害者意識も根強く、更にA級戦犯だけに責任転嫁し切れない国民感情があることについても述べてきた。このように、私は、日本側の根強い感情からして、小泉首相が毎年参拝する理由も理解する。また、中国・韓国側では、本来許せない筈の日本の戦争責任を、当時の政府が取引して国際的に解決してしまったこともあって、最低その大前提になる「全てはA級戦犯の責任」論だけは維持してもらわねば困る事情も良く理解する。すなわち、小泉首相は当然参拝したわけであり、また、中国・韓国は当然反発の声明を出したのである。このように、深く長い経緯のある事情を抱えた両サイドが、それぞれのアクションを取っている時に、私が、どちらかを一方的に支持することがあり得ようか?

怒り しかも、今、例えば中国サイドで反対声明を出している政府の人たちは、著しく政治的な思惑でそうしている。私が強調してきたように、日本軍のために1000万人の中国人が死んだ。しかし、今、日本に声明文を出している中国政府の人たちは、このような恐ろしい過去の話しをしているのではない。過去の話に乗っかって、複雑な現代国際政治情勢の中で、日本に対し外交的に圧力をかけるカードとして靖国カードを使っている。即ち、彼らの関心は、過去の失われた1000万人の命ではなく、現在の国際政治であり、その中での中国の利権なのだ。私が小泉首相の参拝に反対というならば、私の意に反して、このような中国政府の政治的思惑に組みすることになりかねない。

ダメ かといって、首相の参拝を積極的に支持するわけにも行かない。日本側にどのような根深い思いがあろうがなかろうが、東京裁判のやり直しや、サンフランシスコ条約や中国・韓国両国との条約のやり直しも出来ないのであるから、結局今さら昔の議論を蒸し返すことに繋がってしまう行動は、国際的には適切ではない。A級戦犯の人たちがどれほど実際には犠牲者であろうかなかろうが、その人達を合祀した神社に日本国政府要人が参拝することは、国内的な思いが何であれ、国際的には適切でないのである。

ウインク だから、私は、どちら側にも軍配を上げない。両方に理由がある。この溝はまず埋まらない。だからこそ、靖国神社の問題で対立しているのはもう止めよう拍手と言っている。ただし、ずっと対立してきたその歴史的背景の事実に関しては、むしろ、もっともっと若い人に伝えねばと思っている。だからこのブログを頑張って書いているし、中高生を靖国神社とその資料館に連れていったのだ。しかし、靖国を巡る対立はもういい加減にして欲しい。ましてや、政治の道具になっているのなら、もっと止めて欲しい。だから、私は、どちら側にも支持の声を上げないのだ。 Nat

平和を作るには。。。

まる 一昨日、教会の子どもたちと靖国神社現場に行った。そして、帰ってきてから、靖国神社にお参りする人の気持ち、それに反対する人の気持ち、両方の立場からみなで話し合った。日本ばかりが本当に悪かったのか?A級戦犯の人たちですら、ある意味で犠牲者?でも、中国などで日本軍のために死んだ1000万人を超える人たちこそ犠牲者。。。その重みは永遠に消えない?などなど、様々な意見は際限なく出てくる。

怒り 我々の間でも様々な意見が出るのだから、日本と中国や韓国の人たちの間では、もう埋めようのない意見や感情の対立があるのが現実だろう。「日本はまだ反省していない」といって強く批判する中国の人たち。「その批判のし方に行き過ぎがある」、「まるで“たかり”のようだ」などと言いたくなることもある日本サイド。人間同士のやりとりでは、永遠に差が埋まらない気がする。どうしても、お互いに自分は余り譲らず、相手のことばかりを批判するからだ。

はてな ここに神というものが登場するとどうなるか?神の前には、どちら側の人間も、その弱さ・ずるさからくる罪は、覆い隠すべくもない。最初に殺した方も、仕返しで殺そうとする方も、神の前には、同じく神の心を悲しませる罪深い人間であろう。神の前での人の罪を自覚する時、人間は変わる。相手の人間を批判する心が、自分をかえりみる謙虚な心に変わる。また、そのような人間をこそ、神は憐れみ、愛して下さることを知った時、人間は変わる。相手のことを批判する心が、相手を許し、許し合う心に変わる。このように、神を知るとき、初めて、人間は変わる。いつまでも批判し合い、自分を主張し合った人間同士が、謙虚に、相手を許し合う関係に変われるのである。

びっくり というのが、本来の神と人間の関係である。しかし、この世の現実は、更に、複雑なのだ。本来、神への想いが入り込むと、平和に近づくはずである。ところが現実は逆なのだ!「神」という要素が入ると、いよいよ戦争になるのである。それは「私たちの神」対「あいつらの神」の戦いだ。中国の人たちは、現在、道教的な民間信仰は別にして、比較的、宗教の塊を構成していない面が強いので、日本の私たちと、言い争っている中で、「神」ということを持ち出しても、ある程度の話は出来る。しかし、今、中東で争っている、イスラエルとイスラムはどうか? 民族の違いに宗教の違いが重なり、「神」はむしろ戦いの正当化の為に登場するのみである。彼らは自らの神の名のもとに、相手を粉砕し撃滅するのである。本来、神への想いが人を謙虚にし人を寛容にし、許し合う関係に変えるはずであった。ところが、神への想いが、互いを戦争集団ドクロロケットに変えるのである。

笑顔 それでも、私は、なお、神への想いが、そのような戦いの関係においても、いや、戦いの関係においてこそ、やはり唯一の和解への道と信じるのである。私が「神」という場合は、その「神」は私が出会った神。それは聖書の証しする神、イエスキリストの証しした神である。しかし、私が中国の人たちと、あるいはイスラムの人たちと、平和を作るために話そうとし、その際に「神」を語る場合、それは、必ずしも「イエスキリストの神」に限らない。イスラムの人がアラーの神を信じ、それによって平和を語るなら、それはそれで、大いに尊重したい。中国の人が道教の信仰により平和を語るなら、それも結構。私自身はただの人間に過ぎないので、どちらの神がホンモノで、どちらがニセモノと、審判を下す立場にないからだ。思うに、自らの宗教こそがホンモノと信じる余り、他者への共感を失い、人は宗教の名の下の戦争を繰り返してきたのだ。今、平和を作ろうとする時、相手の「神」を、自分の神と同じように尊重する心こそが必要と思う。少なくともキリスト教とイスラム教が、互いに相手の信仰を尊重し合う、これが出来れば、世界は平和に二歩も三歩も近づくはずだ。その為には、まず私自身が他の宗教を尊重する人になりたいと思う。  Nat
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