♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)
生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等
2006年09月
2006年09月26日
23:05
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信じて生きている事
なんでまた神さまがあると想うの? その4
前回、キリスト教は「愛の神」モデルと書いた。キリスト教の原型になっているユダヤ教はどうか?
ユダヤ教も本質的には「愛の神」モデルだ。皆さん、ユダヤ教と旧約聖書に出てくる「十戒」なるものを御存知だろう。「汝殺すなかれ」などの10の掟だ。そういう十戒の感じからすると、ユダヤ教の神は「愛の神」モデルというより、厳しい掟を課してそれを守れない人を罰する「恐怖の神」モデルに思えるだろう。実際、ユダヤ教では、神は近寄りがたい、人間を超越した存在でもある。
しかし、実は十戒の「掟」は、「掟」の前に、神の一方的な愛が大前提になっているのだ。エジプトで奴隷になっていたユダヤ民族を、神は大きな愛と力で救い出し、今のイスラエルの地にまで連れ戻してくれた。この愛の神への感謝・信仰が先ずベースにある。だから、十戒の「汝、殺すなかれ」という表現は、実は文法的にはむしろ「汝、殺さない」に近い。「あなた達は、エジプトから導き出してくれた神の大きな愛を知った。そんな神の愛を知ったあなた達は、もう他人を殺そうなどとは思わないでいい人達になった。だから、あなたは人を殺さない」という意味だ。決して「本当は、かっとして、人を殺したいと思うことの多いあなただが、ルールだから、無理にでも、絶対殺さないように抑制しなさい」という意味ではないのだ。
ところが、このユダヤ教が次第に変節していく。その?で書いた通り、どうも人間には、ルールを決めて、そのルールさえ守っていればOKというモデルが好きな面があるらしい。特に気真面目体質の人にとっては、このモデルは分かり易く、極めて肌に合うものとなる。しかも、ルールを守れるような、ある程度の精神的・経済的余裕のある人は、ルールを守って生きている自分に自己満足出来る。更に進んで、ルールを守れない人、守る余裕もない弱い人たちのことを見下し、「あいつらは神に捨てられる」と軽蔑し、その分、自分が高まった気分になる。イエスが登場した頃のイスラエルは、まさに、このように形式化し自己目的化した戒律中心のユダヤ教が支配していた。「地の民」と呼ばれ、貧しく余裕もなく、戒律などとても守れなかった弱い下層階級の人たちは「神に捨てられた者たち」と看做されていたのである。これらの人たちにとって、神は、まさに「恐怖の神」あるいは「遠い神」であった。イエスは、このような中に登場する。この続きは次回。 Nat
2006年09月14日
22:17
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信じて生きている事
なんでまた神さまがあると想うの? その3
その2で書いた通り、どうせ神さまのことは在るとも無いとも立証や判定が出来ない。だから、精々個々人が自分の人生からの直感で、在るとか無いとかを勝手に思い込んで生きるしかない。問題は、それで幸せかだ。
そこで聞く。 神さまが在ると思い込んで生きる人は、大概幸せになると思うかどうか。
<怖い神 モデル> 実は、神さまが在ると思うからこそ、非常に不幸せになる人もいる。それは、神が人間の良からぬ行為や思いを裁くと思う人だ。怖い神、閻魔大王モデルだ。そもそも、人間はそんなに完璧な存在じゃないし、結構利己的な存在だ。人を裏切ったり、傷つけたりもする。気の毒な人を見て知らぬフリもする。場合によっては、もっとヤバイことをしてしまっている人もいるかもしれない。そんな人間だから、神さまがそういう人間の「罪」を裁き罰する怖い存在と思い込むと、これは大変なことになる。罰は生きている間に下されるかも知れないし、死んで地獄に落とされる形で来るかもしれない。下手に神さまを意識したばかりに、罪が気になってしょうがない。これでは、人生非常にしんどい。そこで人間は、神から見て「罪」と思われることのリストを考え、それをしないことで神に罰されないようにする、そして、例えば1日に三回ある方向を向いてひたすらにお祈りをするとかいった方法で誉められる処まで持っていく。こういった「神とのルール」を色々考案してきた。事実、多くの宗教はルール集で満ちている。社会の法律に加えて、宗教的戒律が加わる。そういうのが好きな人はいいが、嫌いな人や、そういうのが合わない人は大変だ。
でも、中には、優等生的に頑張って、ルールを徹底的に守り抜き、それでもって「自分はこれで絶対神さまに誉めてもらえるはずだ」との充実感に浸る人もいるのである。
<遠い神 モデル> 神との関係の次なるモデルは、「神は遠く、無関係」モデルだ。神は確かにあると想う。宇宙の心として。宇宙の彼方に冷徹な永遠の心としてある。しかし、この神が、いちいち人間の為すことに口出ししたり裁いたりすることもない。人間の運命をいちいち支配することもない。ただただ宇宙の果てに、時間を超越した存在としてあるのみ。人間は、そういう神と、全く違う次元で、ちまちまとこの世で生き、死んでいくのみ。つまり、神は遠くにあるが、我々とは実質無関係というモデルだ。このモデルで生きる場合、神の存在を想って、幸せにも不幸せにもならない。実質無関係なんだから。
<愛の神 モデル> 3つ目のモデルは、もうお分かりですね。そう「愛の神」のモデルだ。神は宇宙の彼方にもいるが、直ぐ近くにもいる。我々一人ひとりと深い関係も持っている。事実、我々の人生の中で起こる全てのことを、実は、神が決めている。我々人間はヤバイ行為もする。利己的な心にもなる。神はそういう時、悲しい気持ちになる。しかし、神は結局、そんな我々を滅ぼすことはない。親が子を叱りながらも愛するように、神は愛だから。これは、概ねキリスト教の神モデルだ。このモデルの場合、神があると想うこと・信じることで、却って苦しみになることもなく、「無関係」といったシラケもなく、人生に幸せをもたらす可能性がある。だって、神は愛なんだから。
でも、最後の<愛の神 モデル>を読んだ皆さんは、ちょっと思いませんでしたか? 何と虫のよい、都合のよい神モデルなのか。そんな都合のいい神なんて、所詮人間が作り出した虚像でしょう。そんな神が本当にあると想って生きる人は、よほどお調子者か、身勝手な人か、思い込みの強い人だろうと。普通、そう思いますよね。でも、これが、実はキリスト教の神信仰の本質なんですよ。それって本当?と思う人は次回の、その4をお楽しみに。
Nat
2006年09月09日
18:30
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信じて生きている事
なんでまた神さまがあると想うの? その2
神があると想って生きている人は、何からそう想うのか? 私自身の場合も含めて考えてみよう。
先ず妙なことだが、「直感的に、なんとなく、やっぱりあると思う」という人が結構いる。いると思わない人に、そう言っても、何のことか分からないだろうが、直感的にそう思う人が大勢いるのだ。多分、太古の昔から人類はそういう直感を持ってきた。地震や雷という自然現象からの直感もあったろうが、それだけではない人類の本質的直感だ。人類はまさに直感で感じる「神」にどうしたら肉薄できるかということに相当の精力を費やしてきている。太古の昔からの人類が神に捧げようとして構築した建造物を見るとそれが分かる。なぜ直感?「それはやはり神があるからではないか」---などというと、「神はないと思う」人にとっては、ずるい理屈でとても受け容れられないだろうから、そういうことは言うまい。しかし、人類の歴史上、人類がこの直感を持ち続けてきたことは間違いない。
でも、これでは面白くないだろうから、もう少し、身近な直感から拾っていこう。まず私の場合、生命。草花でも昆虫でも犬でも人間でも、生命を見ていると、生命の大元に「根源的生命」のようなものがあって、それが一つひとつの生き物に「命」を与えているという直感がある。生命や進化に関する科学的論文は好きだから、若い時には色々研究した。その結果、やっぱり生命の裏に共通する「根源的生命」があると直感している。それそのものが「神」とイコールかどうか分からぬが、それは「神」から来ていると直感している。
もう一つは、「神があると想って生きている」他の人との出会いだ。要するに神を信じて生きている人。そういう人に出会うと、影響を受けるわけである。人生を「信じている神との関係」によって受けとめ、それで喜びと慰めを得て生きている人。そういう生き方に接した時、結構その生き方の重みがこちらの心にまで伝わるのだ。勿論、そういう人を見て「ああ根拠のないことを信じて生きている単純な人だな」としか思わない人もいるだろう。しかし、信じて生きている人と出会って、今度は自分が信じて生きる人になる人もいる。
ここまでは日常の中からの直感なり感化だ。しかし、最も大きなインパクトは、“神”と特別な関係があるとしか思えない「特別な人」から来る。霊感なのか、超能力か分からないが、神とコミュニケート出来ている、或いは人間の限界を超えて目に見えない世界にまで踏み込めているとしか思われぬ特別な人が時々いるようだ。ところが、麻原彰晃のようなのも時々登場するので、ホンモノがいるとしても、我々にはなかなかニセモノとホンモノの区別が難しい。だから、所詮、そんなのは大なり小なり皆インチキだと決め付けて全て無視するのも手だろう。しかしながら、歴史上、あのイエスなり、マホメットなり、あるいは少し種類は違うが釈迦といった、相当のインパクトを与えた人たちになると、その周りに、おおいに感化を受ける人が多く出てくる。要するに、その特別な人の中か後ろに“神”を見るということである。それも、目で見えるということではなく、これまた“心”でそう受けとめるということである。それでもあなたは「私は、そういう特別な人に出会ったことがありませんからね」というかも知れない。しかし、そういう特別な人に出会って感じ入った人から、間接的、二次的ながら感化を受け継ぐパタンはあり得る。要するに、宗教はそういうものだ。特別な人から最初に直接的、一次的に感化を受けた人が、間接的、二次的に人に伝えていくのが宗教であろう。ずっと続く宗教というのは、やはり、その大元の「特別な人」のインパクトが極めて強烈であったのであろう。
何から神を直感するか。目の前の命、信じて生きる人との出会い、「特別な人」のインパクト、この3つを述べてきた。最後にあるのが、人生の何か特別な体験から急に感じるようになるパタンだ。死に掛けた人、愛する人を亡くした人、人生で大きな転換点を経験した人。さまざまだが、そういうきっかけで、直感する。そういうパタンも結構ある。
以上の通り、4つくらいのパタンを挙げた。「私には未だどれもない」という人も多かろう。また、「私は、そのどれにも惑わされない」という人もいるだろう。それは、あなたの自由。逆に直感して信じるのも自由。あとは、それでその人が幸福かということだろう。あなたは、どちらですか。あなたは幸福ですか。 Nat
2006年09月05日
22:54
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信じて生きている事
なんでまた神さまがあると想うの? その1
この間、元の職場の仲間と楽しく飲んだ。
その時にいた先輩の一人が、自分の知っているクリスチャンがダビンチ・コードのことで怒っているという話をするので、それ来たと思って、このブログにも詳しく書いた「イエスは人か神か」問題に関する小生の考えを話した。しかし、その先輩よりは、「それは、まずそもそも神があると仮定しての話だな」「またイエスについても、そもそも実際に復活したわけがないよな」とのご指摘。
「神なんてものが本当に存在すると思うのか?」「人間イエスが一度死んで復活したなどと信じられるわけがない。」---- これは、非常にごもっともなお考えだ。合理的・科学的にロジックで考えると、そうなるのが普通だろう。その飲み会では、話が別の方に進んでしまったので、このことに関する小生の思いを話す機会はないまま終わった。しょうがないので、ここに書く次第である。
その先輩にも、この文は見せたいが。
まず、神があるかどうか。これは原理的に言って、人間には神があるともないとも立証できない。なぜなら、「神」の定義を「世を創造し今も世の全てを司っている精神の如きもの」と考えたとする。極めて有限で非創造物の一部である人間には、宇宙の全体も把握出来なければ、時間の最初から終わりまでも辿ることも出来ない。そのような有限の人間が、無限の宇宙・時間の大もとの「神」について、探りを入れたり、実験や試験をして、神の有無につき何かが立証できることはあり得ない。
しかし、普通の人が「神なんているの?」という時、たぶん「宇宙・時間の大もと」の「神」ではなく、我々人間に具体的に働きかけしているような、擬人化されたイメージの「神さま」みたいなものは、さすがにないのじゃないの?という意味であろう。宇宙の果てや時間の彼方までは分からない、でも、我々の生活の中で、実際に「神さま」の存在を何かの現象として明確に知覚する体験はないから、生活のレベルでは「神」はいないのではないの?と言っていることになる。特に昔の人は雷などの自然現象を神の業と思ったかもしれないが、その仕組みを知っている現代人としては、生活や自然の中には「神」の存在のしるしになるものはないのでは?と言っているわけだ。
しかし、これも、もう一度「全ての創造者であり支配者」という「神」の定義に戻ると、分からなくなる。「神」は何も宇宙の果てや時間の彼方にのみ存在するものではなく、ここにもそこにも、全ての存在の大もとにあるとすれば、目の前の花
の存在の背景には神があるかも知れないし、ないかも知れない。花の背景に神の存在があったとしても、花を顕微鏡で調べ尽くして神が発見できるわけがない。しょせん人間側から確認できる程度のものであれば「神」ではない。
だから、人間にとって神はその有無を立証も判定もできるものではない。各人の生活や人生の体験や出来事から、心の中で、神なるものがあると“想う”か“想わない”かである。喩えは悪いかも知れないが、愛している人が遠い国に戦争に行って今生きているか死んでいるか、立証も判定のしようもない時、それでも人は「あの人は今きっと生きている」と想って生きることは出来る。それは心の問題
、生き方の選択の問題なのだ。これまでの人生体験から、特に「神があると想って生きる」人にならなかったか、何らかの人生体験から「神があると想って生きる」人になったかの違いが出ているということなのだ。
そうなると、「想わないで生きている人」からすると、「そう想って生きている人」は、一体どんな事からそういう風に想うようになったのか?という事を、ちょっと聞いてみたいに違いない。そのことについては、前にもシリーズで書いたが、もう一度、次回から書いていきたい。 Nat
2006年09月04日
21:00
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信じて生きている事
本当に必要とするものを。。。
昨日、私の行っている教会で、朝早いほうの礼拝は、幼稚園くらいの子どもから大人までの200人くらいが皆一緒に集まる礼拝だった。
聖書の言葉からのメッセージ(伝えるべき意味のお話)担当は私だった。聖書の個所は「ルカによる福音書5章1~11節」。そこを読んで、私の感じた意味を話したのだが、今日は、話したとおりをここに書くことにする。つまらなかったら、御免なさいね。
イエスは湖のほとりに来られた。大勢の人が神さまの話を聞こうと集まってきた。しかし、偶々そこに漁師たちがいた。その中に、後にイエスの弟子になるペトロもいた。でもペトロ達は、とてもイエスの話など聞いている場合ではなかった。夜通し漁をしたが、一匹も獲れなかったからだ。ペトロは困り、いらいらしていた。
群集に対するイエスの話が終わった時、イエスは群集ではなく、網を片付けようとしていたペトロに声をかけられた。ペトロは心の中で思った。「自分は群集とは関係ない。偶々ここで漁をしようとしていただけだ。しかも一匹も獲れなかったので、今は困ってる処なのだ。神さまの話なら他の人にして欲しい。」ところが、イエスは言われた「魚を一緒に獲ろう」。ペトロは、イエスが自分の一番困っていた事をずばり言われたのでびっくりしながら答えた。「私達は夜通し漁をしたのに一匹も獲れませんでした。でもそうまで言われるなら、やってみましょう」。そこで舟を出して網を下ろしたら、舟が沈むほど多くの魚が獲れた。驚いたペトロは「あ、あなたは神さまからの人ですね。私は身分の卑しい漁師です。とてもあなたに声をかけてもらうような者ではありません」。イエスは言われた「いや。私が選んだのはあなただ。私に着いてきなさい」。ペトロはすぐに着いていった。
ペトロはなぜ直ぐに着いていく決心が出来たのか? 奇跡のような大漁に驚いただけか? そうではない。ペトロは、イエスが自分の気持ちを一番わかってくれる救い主であることを瞬間的に感じとっていたのだ。
イエスは、漁師には漁師の気持ちになって、漁師がその時一番困っていることを一緒にしようと語りかけて下さる。病人には病人の気持ちになって、病人の一番必要なことを一緒にして下さる。困っている漁師も、病人も、難しそうな神さまの話は要らない。要るのは、困っていること、悩んでいることそのもので一緒に働いてくださる方だ。イエスはまさにそれだった。
そんなイエスは、今は、もう目には見えないが、今もあなたのすぐそばで、あなたの気持ちになって、あなたの悩みを共に担おうと、語りかけて下さっている。それに対して、私たちは「いや私はあなたの話を聞きに来たあの人たちとは違うんです。私は、今、別のことで取り込んでいるんです」というかも知れない。しかし、そんな私たちにこそ、救い主イエスは言われる。「いや、私は、あなたに、あなたに、語りかけているのだ」と。
そんな救い主イエスの呼びかけに対して、私たちも、それを信じて、すぐ着いていければと思う。』 Nat
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