♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2006年10月

ジャズがカッコいいとしたら、それは何故? その3

笑顔 前回までで、ジャズのリズムやビートは、クラッシック音楽などのように、小節の枠に沿ってきちんと入るのでなく、裏に入るアフター・ビートや、ちょっと前のめりに攻めるシンコペーション等が特徴で、そういう「きちんとしてない」ちょっとずれたビートで、却って、前に前に進むジャズ特有のエネルギーが生まれると書いた。

譜面 このことは、リズムやビートだけではない。メロディーの方の音程や和音でも同じように「きちんとしてない」音が、ジャズのエネルギーを生んでいる。順を追ってご紹介したい。先ずはブルーノートという言葉をご存知だろうか。東京青山のジャズクラブあるいは大昔のジャズのレコードのレーベルで「ブルーノート」というのがある。しかし、それは、ジャズ(あるいはロック)のある特有の音程の名称からきている。ずばり言うと、全部フラットになるが、ミ、ソ、シの3つの音をそれぞれフラット、つまり半音下げた音程をブルーノートという。この音程の起源は黒人の鼻歌の節回しから来ているが、これがジャズに前進エネルギーを与えるのだ。

びっくり  普通の音楽はドレミファソラシドで出来ている。ところが、ジャズでは、これに加えて、ミ、ソ、シのフラットを多用するのだ。半音下の音だから、ちょっと気持ち悪い。きちんとしてない、すっきりしない不協和音っぽい音程だ。しかし、だからこそエネルギーを生む。ミのフラットは、きたなくて、不安定で、どうしても、早く半音下のレに落ちて、更に、安定度の高い土台のドの音にまで行き着きたい気持ちを生む。ファのフラットは、半音上のソ、安定度の高いソにまでせり上がって落ち着きたいという気持ちを生む。シのフラットは、半音下のラに早く降りて、更に、安定度の高いソにまで行って落ち着きたい気持ちを生む。このように、ジャズは不安定できたなくすっきりしないブルーノートを多用して、常に前に前に進まないとすっきりしないという前進エネルギーを音楽の中に取り入れているのだ。これは、クラッシックが、典型的にはあのモーツアルトの「ドーーソドーーソドソドミソーーー」というようにきちんとした音をベースにしていて、最初からもうしっかり落ち着いた音楽になっているのと大違いである。

マイク  今年の4月28日のこのブログ記事でブルースのことを書いたが、ジャズでもブルースにこのブルーノートが多く使われる。有名なSt.Louis Bluesの出だしの部分「I hate to see- - - -」は、「ミーソミードーー」で、なんだモーツアルトと同じ「きちんとした音」ばかりじゃないかと思うでしょう。しかし、その次の 「the evening sun go down」は、「ラドレミb―レードーー」で早速「ミb」(ミのフラット)というブルーノートが登場する。ミのフラットでは、きたなくてすっきりしないので、堪らず、「ミb→レ→ド」と下に落ちていっている。これこれ、これがブルーノートの「前進エネルギー」なのだ。ああ、ジャズはいいなあ。  Nat 
 
 

ジャズがカッコいいとしたら、それは何故? その2

笑い その1で、ジャズの魅力の一つは「アフター・ビート」(裏に入るアクセント)にあると言った。しかしジャズのリズムのノリは「アフター・ビート」だけではない。

拍手 「シャッフル」と呼ばれるノリがある。普通の4拍子の曲は、クラッシックも含めて普通、1拍が2つの8分音符に分かれる。その8分音符を並べると、通常は「カタ・カタ・カタ・カタ」という感じで1小節になる。ジャズでもロック系やボサノバ系は基本的にこの「カタ・カタ・カタ・カタ」というノリになる。いわゆる「8ビート」のノリというやつだ。しかし、ジャズ、あるいは特にリズム&ブルースやブギウギのノリは違う。ちょっと難しく言うと1拍を3つの3連音符で構成して、しゃくるように「ドント・タタタ・ドント・タタタ」というノリにする。「カタ・カタ・カタ・カタ」という「8ビート」ノリがどちらかというと機械的なノリになりがちなのに対して、シャッフルのノリはうねるような熱いノリになる。普通ジャズで「4ビートのスイング」というと、このノリになる。なぜか、徳島の阿波踊りのノリがこれに凄く似ている。うねるように踊り、段々熱くなるあのノリがジャズに近い。ダンス
 
譜面 ジャズのリズムで、もう一つ言っておかないといけないのが、これまた、ちょっと難しい用語になるが、シンコペーション(切分音)といわれる「前ノメリの音の攻め方」だ。要は、小節の頭できちっと音を出すのではなく、半拍分、早めに、前に攻め気味に音を出す。小節の頭にきちっと出すのでは、整然とした音楽にはなるが、エネルギーは弱い。前に攻めると前進エネルギーが生まれる。

マイク ジャズを歌う女性が一番好きなYou be so nice to come home to という曲があるが、これを普通に歌うと: 「ユーッビー | ソーーー|ナイス」になる。それをシンコペーションで前にのめって歌うと:「ユーッビー ソ|オーー ナ|アイス」となって、「ソ」の所と「ナ」の所でちょっと先に急いだ分、前に引っ張られるような感じになる。それが心地いい。実は、これはジャズに限らず、ポピュラー音楽、最近の日本の流行曲でも大概シンコペーションが多用されているから、特に若い人はこれに慣れているはずだ。

びっくり  ということで、ジャズのノリは「アフター・ビート」と「シャッフル」ノリを基本に、メロデイーをシンコペーションで前に攻めて歌い・弾くということになる。全て、グングン前に進むエネルギーを生むビートでありリズムである。そういう意味でジャズの本質はその前進エネルギーにあるともいえると思う。

笑顔 ここまでで、ジャズのビート・リズム面の魅力の理由を述べたが、ジャズの魅力のもう半分は違うところにある。それをその3以降で。   Nat


 

ジャズがカッコいいとしたら、それは何故? その1

譜面 ジャズを聴いて「カッコいい」と思う人は多いと思う。だからこそ、銀座のすし屋辺りでもBGMにジャズを流している所がある。逆にめったにクラシックやカントリーウェスタンなどは流されないし、ましてや演歌はもっとない。BGMは圧倒的にムード音楽かジャズである。それは、やっぱりジャズをカッコいいと思う人が多いからだろう。

はてな では、なぜジャズはカッコいいのか? まずそれは、ジャズがアメリカの雰囲気の象徴だからだと思う。戦後、日本にはアメリカ文化が大量に流入してきて、それ以来、日本人はアメリカの文化はカッコいいという感覚を持ってきた。カッコいいアメリカの映画を見て、バックに流れているジャズ的な音楽を聴き、これこそがアメリカのサウンドだと魅了されたわけだ。

音符 しかし、ジャズという音楽の持つ魅力は「アメリカ的」ということだけではないだろう。ジャズは言うまでもなく、アフリカからアメリカに連れて来られた黒人たちの固有のリズム感覚の上に、西洋の音楽のメロディーや和音感覚を乗せて出来た。このような、二つの文化のいいところの融合がジャズの魅力の源と思われる。

笑い アフリカの黒人のリズム感の中に、アフタービートという感覚があった。要するにズンチャ・ズンチャの「チャ」にアクセントがあるノリだ。それまでの西洋音楽では1拍目と3拍目にアクセントがある「おもてビート」だが、アフリカの、そしてジャズやロックのリズムの基本は2拍目と4拍目にアクセントを置く「アフタービート」つまり「うらビート」だ。

拍手 ジャズやポピュラー系の音楽のコンサートで、「皆さんも手拍子で!」と言われて始まる手拍子は、特に日本ではやっぱり「おもてビート」が多い。1拍目と3拍目に手を打つ。
しかし、ジャズやロックでは、2拍目と4拍目の「うらビート」で手を打つのだ。実は「おもてビート」だと余り乗ってこないが、「うら」だと段々熱くなり踊りだしたりし易い。何故だろう? それは、リズムの上に乗っているメロディーは大体、1拍・3拍にメロディーとしてのアクセントがある。だから「おもてビート」で手を打つと、メロディーのアクセントと同じ時に重なって手拍子が打たれるようになるので、面白くもおかしくもない。しかし、「うらビート」にすると、メロディーの音が出たちょっと後の「うら」の拍で、手拍子が入る。だから、丁度、メロディーの音の合間を手拍子が埋める形になって大変具合がいい。メロディーと、聴衆の手拍子が交互の掛け合いのようになって、盛り上がってくるのである。これが「うらビート」「アフタービート」の快適なノリであり、それを思い切り楽しくやるのがジャズやロックなのだ。
 
にっこり  しかし、ジャズの魅力はこれに尽きない。続きは、その2で。  Nat
 

なんでまた神さまがあると想うの? その6

笑顔 このシリーズの「その1」の出発点は、そもそも神さまを信じる人は、なんでまた目にも見えないものを信じて生きているのか、という問いであった。そして、神があるともないとも立証が出来ない以上、結局、それぞれの人の直感や、命との触れ合い、或いは人との出会い、特に特別な“神の人”との出会いから、それぞれの人生観として決めることになるとも述べた。その上で神の存在を信じる人の抱く神のイメージは、「怖い神」「遠い神」「愛の神」の3つくらいの種類があると書いた。そして、最後に、人は、2000年前のイエスという人の中に、「愛の神」の決定的な証しを見たと述べた。

まる 小生自身の直感としては、長い長い人生の旅の末、神を信じて生きる人の道を選びとった。眼前の生き物への思い、あるいは神を信じ切って生き・死んだ親父との触れ合いからの思い、小生自身のそれこそ“直感”。そういうものも、大いに背景にある。しかし、それらは全て、人間の非合理的・情緒的な直感だ。否定しようとすれば、瞬間的に崩れ去る程度の直感かも知れない。そういう中で、死ぬまで、信じて生きようと決めた、その決め手になっていることは結局何なのか?それは、やっぱり、聖書の中で出会ったイエスという人間、周りにいた人たちに強烈な衝撃を与えた人イエス、復活などと言う常識的には絶対あり得ない体験をしたと人に言わせたイエス、そのようなイエスのインパクトが、全ての懐疑心・シラケを上回って小生のたましいを捉えたとしか言いようがない。稀代のペテン師イエスにまんまとひっかって、全くアホなことを信じてしまっている憐れな男と思われることもあろう。本当はそうかも知れない。人間にはその辺の真相は分からないのだから。しかし、小生は、イエスがペテン師であろうが、神の人であろうが、或いは神そのものの化身であろうが、その強烈なインパクトによって生かされて今に至っている。それ以外の人生は考えられない。このシリーズを通じて、そのことだけは言っておきたかった。

笑い このシリーズを書く端緒になった先輩、ざっと読んでくれましたか?? いかがですか? Nat
 
 

なんでまた神さまがあると想うの? その5

笑顔 神さまがいたとしても「恐怖の神」か「遠い神」でしかないと思っていた下層階級の人たちや病気の人たち。彼らに「神さまは、実はあなたを、あなたをこそ一番愛していたのだ」ということを衝撃的に示したのがイエスだった。

困った 「人間は誰も顧みてくれない、そんな自分を、神までが見捨てた」と思った時、人間の絶望がある。12年もの間、体から出血が止まらない病気で、全財産を色々な医者につぎ込んだが、やはり治らなかった女性。無一文になってもなお出血が続き、更に皆から「汚らわしい女。何か罪を犯したバチ当りの女」と蔑まれ、体も心もたましいも消え入りそうになっていた彼女。そこにイエスが通りかかった。追いかけの群集に囲まれたイエス。女はイエスに面と向かって接触することはとても出来なかった。そこで思い余って、後ろからそっとイエスの服に触れる。触れただけでも治るのではと思ったからだ。

キラキラ その瞬間、イエスの体から力が出て行き、女の出血が止まる。しかし、イエスの愛のわざはここから始まる。イエスは立ち止まり「今、私に触れた人は誰?」と振り向き、その人を探そうとするのだ。イエスは、その人を放ってはおけなかったからだ。女が恐縮して進み出ると、イエスはその女に語りかける。「あなたか。あなたは私を信じたんだね。もうあなたは皆に蔑まれることはない。これからはもう元気に生きられる。」その女は、病気が治っただけではなかった。神の人と思えるイエスが、わざわざ自分のために立ち止まり、振り返り、自分の心に語りかけてくれた。その時彼女は、神さまは自分を罰していたのでも、無視していたのでもなかった、神さまは今この私を振り返ってくれたのだ、と確信したのである。イエスが「愛の神」を証した場面のひとつである。

ドキドキ大 このように、イエスは病気や障碍者を物理的に治すことで神の力も示したが、殆どの場合、物理的な治癒だけでは、人間は完全には救われない。神から遠い所にいたと思っていた人の心に、神の愛を注ぎ込むことがないと救われない。イエスはまさにこれであった。イエスが神そのものの「化身」か、神から特別の役割を与えられた人間であったのかは分からない。しかし、人はイエスの中に「愛の神」を、しかと見たのである。  Nat

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