♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)
生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等
2007年02月
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2007年02月28日
22:49
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信じて生きている事
キリスト教で「ひっかかること」 その6
新約聖書の最初にある福音書を読み始めてまず心にひっかかることは、イエスの激しい言葉ではないだろうか。全体を読むと、イエスが弱い立場の人間にはとても温かい言葉を掛けていることにも気がつくだろう。しかし、特に公けの場での演説は激烈な言葉を含んでいて、とげのように心に突き刺さる。「兄弟に対してばか者という者は地獄の火に投げ込まれる」、「右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」、「こう言おう“あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ。行ってしまえ”」といった、突き放すような言葉。また、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」といった本能に反するような教え。しかし、そこには「群集はその教えにひどく驚いた」ともあるので、心にひっかかったのは、現代人の我々だけではない。当時の人も皆驚いたのだ。
イエスは、どのような目的でこのような激烈な発言をしたのだろうか。実は、彼はそれまでのユダヤの世界を支配していた、今で言う「ユダヤ教の指導者層・先生方」への激しいチャレンジャーとして登場してきたのである。大昔には純朴な神の愛への感謝と信頼から始まった筈だったユダヤ民族の信仰も、いつしか形式的な律法主義に落ち込んでしまっていた。(旧約)聖書に書いてある「おきて」(律法)を字句通り覚えてしっかり守る人はいい人、それが守れない弱い人は悪い人という訳だ。そして律法を守る人の頂点に立つ“律法の先生方”は、弱い人(=悪い人)を罪びととして蔑み遠ざけていた。イエスはこれに真っ向から挑戦する。「律法を強要する先生方よ。あなたの心は愛に満ちているのか?本当に神への感謝で溢れているのか?あなたたちは形だけの偽善者ではないか。あなたたちよりも、律法を守る余裕も強さもないこの貧民たち、彼らの飾らぬ心の方がよほど神に近い。」イエスはこのような迫り方をした。イエスの言葉の厳しさは、何よりも、偽善の固まりの律法学者やパリサイ人と呼ばれる人たちにこそ向けられていたのである。
前にもこのブログで書いたが、私が、若い頃本当に読むのがイヤだったイエスの言葉がある。「誰でも情欲をいだいて女を見る者は、心の中で既に姦淫をしたのである。」若い頃、男だから当然女性に情欲を感じる私は、大変当惑した。情欲を感じる目をえぐり出し、下半身の一物を切り落とし、出家しろ、とでもいうのかと。しかし、後にこの言葉の本当の趣旨が分かったような気がした。ユダヤ教のお偉い先生方は、弱い民衆が心の虚しさや寂しさの余りついつい不倫等に走りがちなのを見つけては、彼ら・彼女らを蔑み「姦淫・不倫は死罪だ」と裁いていた。イエスは、そういう先生方の偽善に迫ったのだ。「先生方よ。あなた達は恵まれ、綺麗な奥さんもいて、形の上では不倫しないで済んでいるだろう。それで弱い民を睨みつけている。しかしあなたの女性を見る目のイヤラシサは何だ?!あなたも心では不倫しているではないか。人間には誰だってそういう情欲がある。あなた方と彼らの違いは、それが、弱さの余り行動や形に出てしまうかどうかだけじゃないか。むしろ人間が持っているそういう本能、弱さを先ず認め合いながら、そこからいかに神と人との愛に生きるか。それが問われているのだ。」イエスが字句通りこう言ったかは知らないが、イエスはそう言いたかったに違いないと思っている。
このように、激烈なイエスの言葉は、まずは偽善的な先生方に向けられていたのだ。しかし、だからと言って、イエスの激烈な言葉は彼らだけに向けられていたと思うのは、大きな間違いだ。イエスは誰も差別しない。イエスは、この私の中にも、律法学者やパリサイ人的な偽善があることをご存知だ。私が人を見て「俺はあいつらみたいないい加減な奴らとはちょっと違う」と人を見下す時、イエスの言葉は私に向けられる。
さて、これでイエスの激烈な言葉の背景も趣旨も分かった。しかし、激烈であることに変わりはなく、それだけでは我々に救いをもたらさない。では、救いはどこから来るのだろう。次にこの点に迫りたい。 Nat
2007年02月25日
22:19
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信じて生きている事
キリスト教で「ひっかかること」 その5
新約聖書に移ろう。新約聖書は、イエスという人が人々の心に残したものを、後の世に伝えようとして書かれたものだ。その前半に、福音書と呼ばれる「イエス伝」のような記述がある。ところが、この福音書には4つのバージョンがあって、それが並列で収録されているのだ。その4つの間で内容が重複している部分と、それぞれ独自の部分がある。初めて新約聖書を読もうとしてまず疲れるのは、この点ではなかろうか。
イエスが十字架で刑死したのは西暦30年前後だが、そののち初期のクリスチャンたちの間で口述伝承されていた「イエスの言行録」を、西暦70年位以降に4つの異なるグループがそれぞれ編纂したものがこの4つの福音書である。本当は他のバージョンもあったようだが、それから更に100年程後に「新約聖書」として纏められた時に“正統資料”として残されたのがこの4つだ。逆に言うと、新約聖書として纏めた人達としても、この4つのどれか一つには絞りきれなかった。むしろ4つ全部並べて初めて何とか「全体が見えてくる」と判断したということだ。私は「その?」で聖書を望遠鏡に喩えたが、4つの望遠鏡はそれぞれ向きも少しずつ違うし、見えにくい部分もある。しかし4つ全部覗いてみると、「イエス」というものの全体像が何とか見えてくるという訳である。
ということで、どうしても4つないとダメなようだが、初めて読もうという人には、確かに煩わしかろう。それで、ワルター・ワンゲリンという人が4つを一つに整理して、分かりやすく小説風にした「小説イエス」という本もあって、去年秋に日本でも翻訳が出た。読んでみたが、なかなか良く出来ている。
ただ、私としては、4つの別々のグループそれぞれが「これこそを後世に伝えたい!」と思って編纂した、それぞれのあつい思いがあってもいいようにも思っている。それだけ、彼ら・彼女らが、イエスから直接受けたもの、或いは弟子たちから受けたものが、忘れられない、心を揺さぶるものであったということではないかと思うから。
ここで、クリスチャンの読者から横槍が入りそうだ。「Natさんは、聖書を人間が書き、人間が編集したものと言うが、Natさんは聖書は全くの人間の言葉であって、神の言葉とは信じてないの?」って。これに対する私の答えは、「聖書は人間の言葉を通して示される神の言葉だ」というものだ。
遠藤周作さんの「イエスの生涯」という本がある。あの本がいかに良く書けていても、あれは人間の言葉であって、神の言葉ではない。私のブログが全くの人間の言葉であるのと同じだ。一方、新約聖書は、イエスという人から忘れ得ぬものを受けた人たちの直接の記憶や思いを編纂したものだ。イエスからほとばしり出たものが、少なくとも素材として直接散りばめられているものは最早これしかない。覗き込んで遠くにでもイエスが見える可能性のある望遠鏡はもうこれしかない。遠藤周作は、その望遠鏡を覗き込んで、見た上での彼の思いを書いただけである。「神の人」イエスそのものからの「ほとばしり」をたっぷり含んだ文章、それが新約聖書。人間の文章だが、その中に、その奥に、「神のメッセージ」が垣間見られるのだ。だから、私は聖書の言葉は「人間の言葉を通じて示される神の言葉(“み言葉”)」と言っている。どうだろう?あなたにとって、「人間の言葉」と「神の言葉」は重なることのあり得ない二律背反のものだろうか? Nat
2007年02月23日
22:01
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信じて生きている事
キリスト教で「ひっかかること」 その4
もう一つ旧約聖書で相当違和感のあるのが、登場人物が神と生々しく対話をすることだ。夢の中ならまだしも、起きている人間が神とやりとりをする。旧約聖書の時代の人間に現代人類と違う特殊な能力があったとも思えないのだが。もっとも、近世でも、ジャンヌ・ダルクは天使とお話が出来たという話が残っているし、現代でも霊媒とか霊能者とか言われる人は、本当かウソか知らないが、霊界とコミュニケーションしているという。このように一部の霊感の鋭い人には、そういったコミュニケーションがあるのかも知れない。しかし、私のような「霊感の鈍い普通の人間」にはそういうことは全くない。私の周りのクリスチャンでも牧師でも、神の声を声として聞いたことがあるという人は一人もいない。
では、旧約聖書を書いた人達は、本当に「一部の人間には神の声が実際に聞こる」という前提で、神との対話記事を書いたのか?それとも、これは飽くまでも、心の中で神の意思を感じ、心の中でそれに答えたということの文学的表現に過ぎないのか?今から2500年位前の旧約聖書の記者達にそれを確かめることは最早出来ない。そこで、現代のクリスチャンは上記のどちらかの解釈をすることになる。多分統計をとると、後者の「文学的表現」派が多くなると思うが。
私は、超心理のようなものは、鵜呑みには出来ないが、まだ人類の知らない意識の構造が隠されている可能性はあると思っている人である。だから、もしかしたら、極々一部の鋭い人には、我々の想像できない感覚で「神の声」的なものが聞こえたかも知れない。ということから、旧約聖書に書かれた神との対話を全て文学的表現と決めこんでしまう必要もないと思う。かといってやたらと神の声が聞こえたとも思えない。
このように、私の心の中では、このことへの回答はすっきり出ていないままである。しかし、たとえそのことへの回答が宙ぶらりんでも、旧約聖書の書く「神との対話」の中身は十分意味のあるものとして我々に迫ってくるのである。それは、登場する人物の多くが極めて“人間的”であるからだ。もう望みはないとすぐ諦めてしまっている人。神の意思が自分に押し付けられるのはシンドイと思って、それから逃れようとする人。神の大いなる愛を知りつつも、弱さの余り他の人間を傷つけてしまう人。神を信じているのに却って不幸のどん底に落ち、神に疑問を呈する人。旧約聖書は、そういう人間のオンパレードだ。時々、やたらと優等生的な人間も登場するが、多くはジグザグを繰り返す人間だ。そのような人間に対し、親が出来の悪い子を叱咤しつつも抱きしめたりするように、忍耐強く愛してくれる神と人間のやりとりが書かれている。旧約聖書を残そうと思った人達が信じた神はそういう神なのだ。
私は、勿論、神の声を声として聞いたことは一度もない。しかし、神は出来の悪い子を叱咤しつつも抱きしめてくれる親のような神だと信じて、いつも祈りの中で、そういう神に語りかけている。勿論一方的に心の中でぶつぶつ言うだけだ。それに応える神の声は何も聞こえない。私は霊能者でも何でもないので、万一聞こえたと思ったら、それは幻聴だろうから病院に行かねばならない。しかし、毎日ぶつぶつ祈っていると、そのうちに私の心にある思いが浮かんでくる。それこそが私にとっての「神の声」だと思うことにしている。音として聞こえなくても、旧約聖書の中のあの人間的な一人ひとりが神の声を聞いたように。 Nat
2007年02月18日
18:22
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信じて生きている事
キリスト教で「ひっかかること」 その3
旧約聖書は天地創造物語だけではない。そのあとに、アダムとイブとその楽園からの追放の話、大洪水とノアの箱舟の話、始祖アブラハムの話、エジプトからの脱出、ダビデ王の話と続き、その?でも述べたバビロニアでの幽囚時代の苦難からの叙述などが続く。紀元前2500年位前からのユダヤ民族の壮大な歴史を紀元前500年位前に纏めたものが、現代の世にまで伝わっているのだから、大変なものだ。
歴史小説としても、結構面白い。また、人間と神に関する深い洞察に満ちていると思う。アダムとイブの頃から人間は罪深く何度も神を裏切る。しかし結局神はそのような人間を憐れみ・赦し・愛するのだという信仰に貫かれている。
ところが、結構ひっかかる点もある。私が若い頃から読んでいて一番イヤだったのは、ユダヤ民族が他の民族を「異教徒、本当の神を信じない者ども」として敵視・蔑視し、かつ神も一緒になって、他民族を滅ぼそうとする、そのような民族観、神観に満ちていることだ。勿論、これはユダヤ民族の苦難の歴史の裏返しである。始祖アブラハムの頃から流浪の旅をする。飢饉に苦しみエジプトに流民となり奴隷になる。それでエジプトを脱出し今のイスラエルの辺りに定着する。しかし、バビロニヤ王国に攻め込まれ民族ごと拉致される。このような中で、「その?」で書いた通り、ユダヤ民族の心の中では、「ユダヤの神を信じているのに何故苦しむ?」という懐疑・憤慨・嘆きと、その裏返しで「やっぱりユダヤの神は我々ユダヤ民族を見捨てず愛してくれている」という信仰が交差するのだ。そのような心が、ユダヤ民族以外への敵愾心、「神があいつらを何時か必ず滅ぼしてくれる」と信じ続ける気持ちを生んだのだ。
だから、旧約聖書の神は、ユダヤ民族専用の神でなければならなかった。そんな神のことを書いてある旧約聖書なんか読んで何になる?そう思うのが普通だろう。そして、それは健全かつ重要な疑問なのだ。私の教会も属する日本キリスト教団という、プロテスタントのキリスト教団体の正式の信仰告白文には「旧新約聖書は---教会の拠るべき唯一の聖典なり」と書いてある。そして我々はみな旧約聖書・新約聖書が一体になった聖書の本を持って日曜の礼拝に行く。それでも、旧約聖書は「旧」(ふる)い約束を書いた聖書なのだ。もはや半分は古い。古くないと思われる半分は、旧約聖書のメインテーマ「結局、神はそんな人間でも愛し給もう」という信仰。そして古いと思われる半分は、「神がユダヤ民族専用」と思う点と、「神の愛に応えるためには生活上の厳しい決め事を守る形が大事」と思うこの2点だ。ここで終わっているのが、現在も続くユダヤ教である。
この古い半分については、どうしてくれよう?とお思いだろうが、それに応えるのが新約聖書であり、キリスト教なのだ。イエスという「神の子」と信じられた人の登場によって、「神の愛に応える為に、生活上の厳しい決め事を守るという形が大事なのではない」「ただただ純朴に信じ切る心だけが求められている」という信仰が生まれた。また、「ユダヤ民族の枠を超えて全ての人間が救いに招かれている」という信仰が生まれた。
ということで、旧約と新約という二つの聖書を持ちながらも、クリスチャンは圧倒的に新約聖書に証しされていることに突き動かされているのである。だから、旧約聖書の古い半分は大いにひっかかって結構。それを乗り越える為にイエスが十字架の道を歩み、新約聖書が生まれたのだから。むしろ旧約聖書のひっかかる古い半分は無視せず、イエスの十字架によって乗り越えられたものとして、しっかり受けとめたいと思う。 Nat
2007年02月16日
22:51
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信じて生きている事
キリスト教で「ひっかかること」 その2
聖書は読み出すと「ひっかかり」を感じる部分が色々あるだろうと思う。そのような聖書の一番最初に出てくるのが旧約聖書の「創世記」だ。創世記だから読んで字の如く神がこの世をどう作っていったかに関する思いが書かれている。その冒頭に有名な「天地創造」がある。
この天地創造物語にひっかかる人がいるらしい。生物の進化を否定する非科学的な話が書かれているというひっかかりのようだ。しかし、私の周りのクリスチャンでは、この「天地創造物語」と、「生物の進化」とを、どちらかが正しくどちらかが間違いという二者択一的に捉えている人はまずいない。しかし、どうもキリスト教も教派によるようで、天地創造を字句通り信じ込むように指導する集団もあるようだ。特にアメリカのキリスト教原理主義者たちには学校で生物の進化を教えるのにも反対する人が多いらしい。
しかし、生物が進化してきたことは、恐らく99%間違いない事実であると思われる。尤も最近このブログで連載したように、進化の仕組みについては「個体の自然淘汰説」のように見当違いと思われるものも含めて、まだまだ科学としては全然ダメだし、何も分かっていない。それでも、進化してきたこと自体は事実であろう。
一方、聖書の天地創造の叙述はどうなっているか?先ず神は最初に光
を創った。次に天地・海、そして海の生物、次に陸の生物、最後に人間を創ったとある。確かに一つずつ創られたとされ、最初の単細胞が進化していったとは書いてない。しかし生物が進化してきたことに人類が気づいたのは19世紀のことだ。一方、創世記を纏めた人たちは2500年位前の人たちで、当然まだ進化については発想もなかった。だから、創世記の記者たちにとって、生物の進化の有無は論議の対象になっていない。ただただこの世が、天地も生き物も偶然に出来たものではなく、宇宙の源である「神」によって創られたものなのだという信仰を述べているものだ。つまり、彼らは生物の話をしているのではなく、神の話をしているのだ。だから、創世記を読んで、生物学の進化理解と、どちらが正しいかという問いを発するのでは、創世記記者の真の趣旨をミスることになる。
創世記は、2500年位前にユダヤ民族がバビロニヤに幽囚されていた苦難の時代に書かれたとも言われる。神を信じるユダヤ民族がなぜこのような苦難に会い、異教徒の支配下に置かれるのか?これは当時のユダヤ民族の深い疑問であった。「神は我らを見捨てたのか?」その頃書かれた旧約聖書の個所には、そのような深い懐疑が満ち満ちている。しかし、懐疑の彼方に、彼らは「それでもやっぱり神は我らを創造し、今も我らを愛し続けている」との信仰に再び辿り着いたのである。創世記は、このようなユダヤ民族の苦悩の中からの「信仰告白」なのである。しかも、神は被創造物の中で一番最後に特別の思いを込めて人間を作り、人間とは特別に心の通じ合う関係を持とうとされたとも信じた。そしてそんな神との心の通い合いをひたすらに信じたのである。創世記の天地創造物語を読む時、私はそこに、苦難の中で神の愛を信じた人間の生き様を見たい。それで初めて「神はいないのか?」と叫びたくなる現代に生きる我々と、創世記の記者たちの間にあつい共感が生まれるのである。
蛇足であるが、それにしてもこの創世記の天地創造物語は凄いと思う。だって、最初に「光」が作られたというのは、宇宙の最初のビッグバンを彷彿とさせる。そして、天地・海が出来て、海に生物が出来て、次に陸の生物、最後に人間が作られたというのは、実は、現代人の理解する地球の歴史、生命の歴史と全く同じ順序だから驚く。この記者たちは、どうやってそんな洞察を得たのだろうか?もしかして、生物の進化のことも、うすうす気がついていたかも知れないとすら思うほど、太古の昔の物事の順序を知っている。天地創造物語が科学的でないというのは、別に科学として書いたものでないからその通りだろうが、私はむしろ現在の科学の理解に非常に近いことに驚愕する。それをもって「まさに神の啓示だ!」と大声でいうと狂信的に聞こえるのでやめるが、「もしかして啓示かも。。。」と内心思う。
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