♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)
生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等
2007年03月
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2007年03月31日
00:10
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信じて生きている事
キリスト教で「ひっかかること」 その20
「究極の疑問」が終わったところで、今回の連載を一旦終わりにしようかと思ったが、あと3つひっかかることが残っていると思ったので、あと三回だけ連載する。
一つ目は「罪」という言葉だ。聖書にはこの「罪」という言葉が多く出てくるが、これが非常にひっかかる。日本人が「罪」という言葉を聞いて連想するのは、「犯罪」とか「有罪」、つまり違法行為か、或いは違法でなくても人の道を外れた倫理上の罪だ。ところが聖書を読むと、「人はみな罪人(つみびと)」という調子で「その罪を赦されるために」といった表現が多発される。だいたい「罪人」と書くと「つみびと」ではなく、普通「ざいにん」としか読めない。「あなたは罪人」と言われても、なんか流刑囚呼ばわりされた感じしかしない。「私はそんなに優等生ではないが、一応真面目に生きてきて、罪人(ざいにん)呼ばわりされる覚えはない」という反感が湧いてくる。
そこで聖書における「罪」を見ていこう。まず旧約聖書における「罪」は、そもそも誰か個人の罪というより、人類の罪、あるいはユダヤ民族の罪、しかも、人間が人間にする罪というより、神から見ての罪という意味の言葉なのだ。ユダヤ民族の苦難の歴史の中で、彼らは神に愛されるべきユダヤ民族がこんなに苦しむのは、そもそも人類が元々罪深い存在(「原罪」)であるのに加え、ユダヤ民族が度々神を裏切ってきたからだと理解した。前にも書いたが、苦境を人間の罪への神の罰と解釈するユダヤ人の伝統である。
新約聖書になると、これが、「民族の罪」から「人間の罪」という感覚になるが、「そもそも人間は生まれつき罪の心を持っている」という人間観には変わりない。法律や社会の規範を犯してなくても、人間にはきたなく弱い心がある。優しさが欠けている。自己中心。人を見下す傲慢。感謝の心が足りない、等などといった面は誰にもある。それを「罪」と言っている。似ているのは、仏教の「業」(ごう)、あるいは人間の「性」(さが)といった言葉だ。その方が日本人には分かりやすいかも知れない。
このように誰にでもある「罪」だが、もしそのような「罪」に対して、何かをしないと救われないと言って脅かすのであれば、確かに問題だろう。程度の差はあっても、誰にでもある罪なら、騒ぎ立てることはなく、せいぜい出来るだけ向上心を持って生きればいいではないか?と思うのが普通だ。このように、良くある誤解は、キリスト教は、まず普通に生きている人間を掴まえて「あなたは罪深い」と言って、その上で「十字架による救いを受け入れないと赦されませんよ」と煽り立てるという話だ。一番ひどいのは、時々町中を拡声器付きの車で走り、「あなたは罪びとです。イエス・キリストを受け入れないと地獄に落ちます」といったメッセージを発する一部のグループだ。あれはとんでもなく間違っている。
イエスはだれかれを掴まえて「お前は罪びとだ」などとは言っていない。イエスは、姦淫の重罪を犯した女のように、最初から罪の意識に苦しんでいた者には罪の赦しを与えた。一方で、生まれつき目の見えない男には、彼を罪びとと蔑むユダヤ教の先生を強く非難し、彼に光と神の愛とをもたらした。またお腹もペコペコ、心も淋しかった大勢の人たちには、パンを分け、神の暖かい愛を心に届けた。このように、イエスは人を罪に定めたのではなく、まず人間をその弱さ(すなわち罪)も含めてあるがままに愛して下さる神を証ししたのだ。そして、そんな神の愛を感じ受け容れる時、人は柔和になり、自分の弱さも罪も自然に神の前にさらけ出せるようになる。そうやって神の愛によって結果的に人間は変えられていくということなのだ。しかも、そうは言っても、簡単に柔和にもなれないし、なかなか変われないのが人間だ。そういう人間を愛するからこそ、イエスは人間のそういう弱さも罪も代わりに背負って十字架の道を歩いたのだ。
私も含めたクリスチャンは、クリスチャンになった今は自分には「罪」があり、イエスの十字架の愛によってそれを赦されたと信じている。しかし、最初から自分の罪の重さに耐えかねて教会の門をたたいた人は少ないと思う。むしろ、何か不安があったり、生きがいや希望がなかったり、淋しかったりして教会に来た。そこで神の愛を知った。愛を知るうちに、自分には罪もあったことに気がつき、イエスの十字架はその為であったことも知っていったのである。そういうことだから、「イエスの十字架は、その大いなる愛で人の罪を赦すもの」というのは全くその通りである。しかし、それを大きく曲げて「キリスト教は人を罪に定めた上で赦しを提案する」といった話にするのでは、放火しておいて火消しするような話しと同じで、余りにも違い過ぎる。
確かに聖書には「罪」という単語が多く出てくる。それでもキリスト教は何よりも「愛」の宗教なのである。そして人間に「究極の罪」があるとすればそれは、「信じない罪」、つまり神の愛を拒絶し続けることとも言われる次第である。でも私はこれで余り脅かしたりはしたくない。神を信じない者が「究極の罪びと」として神から本当に捨てられるかどうか、私は神でないから何ともいえない。むしろ捨てられないことを望む。私に言えることは、神の愛に生きる人生はとても豊かだということだ。
Nat
2007年03月28日
21:53
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信じて生きている事
キリスト教で「ひっかかること」 その19 究極の疑問(7)
ここまで、クリスチャンの祈りについて書いてきた。
ちょっと恥ずかしいが、更に私の例で言おう。暫く前、仕事で行き詰まりを覚え、転職のことでもがいていた時、1年近く毎日祈り続けた。単に「願かけ」ではなく、その日の私の心境をまるごと語るのだ。それで結局、ついに今の仕事を与えられた時、私は純朴にそれが神さまの与えてくれた答えと信じ、心から感謝した。しかしそれを見て「祈ろうが祈るまいが、どうせ貴方の独り言でしょ。結局得られたものを、神さまからと思い込むだけでしょ。」と言う人は多いだろう。それはそれで結構。それでも私は信じて祈る。
次に今はもう亡き母のことだが、母は2度大手術をした。その都度手術の最中は脂汗が出るくらい祈り続けた。普通の日本人なら、急に神社にでも行って祈るところだろう。私の場合、常日頃色々なことで祈ってきたその神さまに祈るのだ。「神さま。いつものNatです!! 今、渾身の力を込めて祈ります。」という具合だ。いつもの祈りの太いパイプがある。「いちげんの客」じゃない! だから神さまがしっかり受けとめてくれない訳がない。そう信じて祈った。母は元気になった。その後、3年前に今度は心臓大動脈の大手術をした時は夜だったが、私は病院の庭で長い間祈った。その時、教会の仲間が同じ時間に祈ってくれていたのを後で聞いた。このように皆で祈るのもクリスチャンの特徴であり、皆で祈ると“効き目百倍”という感じがする。そして母は成功率5分5分の手術から帰還した。勿論、その時は、モロに神さまのおかげと思って、すぐさま熱い感謝の祈りをした。
ところが、その母が去年、また別の病気になって入院した。今度も熱心に祈った。しかし、今度は神さまの所に行ってしまった。祈りは聞かれなかったのか?そんなことないでしょう。そもそも祈っていたことは、「母の命をお守り下さい。そしてそれがあなたのみ心であれば、今度も母を治してください。でも、あなたか一番いいと思うようにして下さい」ということなのである。今度は、天国に連れていくというのが神の答えであった。もし、死なないようにと祈り続けて、本当に毎回その通りになったら、母は200歳になっても死ねない。いつか死ぬのでいい。そこで結局「神さまの愛に委ねます」という祈りになるのだ。
ここで、「ちょっと待った!ずるい!」と言う人もいるだろう。クリスチャンは、祈った通りにならない場合を想定して、「み心ならば」とか「でも神さまの一番いいように」などと逃げを打ち、「どちらに転んでも負けのない祈りにしているんだ!ずるいや」と言うわけだ。確かにそう思うのは無理はない。しかし実はこれはイエスの祈り方を踏襲しているものだ。イエスは四六時中祈った。神の子だから、祈らなくても神と通じている筈なのに、それでも人一倍祈った。そして、神が自分に託した運命が十字架の道であることを知った時などは、悶えるように祈った。「神よ、出来ればこの怖い苦しい十字架の道を避けさせてください。しかし、私の思いではなく、み心の通りにしてください」と。
なぜ、そのように「お任せします」と祈るのか? それは別に、祈りが通ずるかどうか半信半疑だから、どちらに転んでも負けのない祈り方をしよう等ということではない。逆だ。本当に神を絶対的に信頼しているからこそ、「委ねます」と祈れるのである。絶対信頼して任せて祈る。これが究極の祈りだと思う。
Nat
2007年03月27日
21:54
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信じて生きている事
キリスト教で「ひっかかること」 その18 究極の疑問(6)
引き続き、祈りが聞かれないように思えるのはなぜ?という疑問について。
良く言われることだが、「神さまは、人間の召使いではないのだから、人間が祈りでお願いをしても、いちいちその通りにしてくれる訳がないでしょう」ということがある。これは、神を信じない人からすると、「それは、神などというありもしないものに祈って、その通りにならないことに対する、クリスチャンのずるい言い訳でしょう」ということになる。これは信じて生きているか、そうでない生き方をしているかの違いだから、議論しても永遠の平行線である。
ある時、うちの教会の牧師ではないのだが、とあるちょっと有名な牧師さんが来て話しをしてくれた。極端な話だが、面白い。「もし、あなたにね、殺してやりたいくらい憎い奴がいたら、いっそのこと、神さまに祈って、“神さま、あいつを殺して下さい”と祈ったらいい。」という。憎いアイツの処置は神さまに任せるのがいいという話だ。神は、あなたの召使いではないから、殺せと言われて「かしこまりました」といって直ぐ殺してくれるかどうか分からない。もし、本当に、そいつが神から見ても滅ぼすべき害悪な奴なら、神が殺してくれるだろう。そうでなければ殺さず、別の対処をしてくれるだろう。だから人間の判断で殺そうなどと思うくらいなら、神に任せるのがいい。そういう話だ。普通、イエスの「敵を愛して祈れ」との言葉が教えられるが、その牧師の話は、旧約聖書によく出てくる「神よ、ユダヤ民族の敵を滅ぼしたまえ」という祈りに似ていて、ある種の新鮮な観点をもっていた。
その極端な話しをした牧師の真意はこうだったのではないか。「神は人間の祈りに対して、人間と同じレベルで対応するのではない。祈りの中のどんな願いも叫びも神はしっかり受けとめてくれる。しかし、祈りへの神の応答は、飽くまでも神のレベルで、神の心によりなされるのだ。だから、たとえ人を殺したいと思った時も、神に打ち明け、そっくり委ねるのが良い。人間の小さな思いを越えて、神がしっかりそのことを受けとめてくれ、あなたに対しても、その憎い奴に対しても、神が一番よいようにして下さるから。」そういう意味だと思う。
このように、祈りの本質は、神が神のレベルで全てを統べたもうことを信じて、人間は人間のレベルでの本音、心の叫びをそのまま神にぶつけ、委ねるのがいいということなのである。私は1日の終わりに、ベッドの中で、その日一日の人間の葛藤、憎しみ、欲望、悲しみ、不安、その全部を神に語り、そして神に委ねる。神が一番よいようにして下さるのを信じて。私は毎晩こうやって眠りにつく。一日の人間レベルの思いを、神に委ね、そして最後に「神さま、全部お任せしましたからね。ではお休みなさい。アーメン」といってバタンと倒れると、瞬間的に深い心地よい眠りの世界に入れる。
本当ですよ。これ。
Nat
2007年03月25日
21:04
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信じて生きている事
キリスト教で「ひっかかること」 その17 究極の疑問(5)
人生の中での大きな不幸・不遇において、神の愛はあるのか?という疑問につき書いてきた。これに大いに関係するのが、祈りの効果の問題である。
特に日本では、祈りというとほぼ「祈願」と同義語である。人は受験とか大手術とかの大事の前に、うまく行くようにと神社などで願い祈る。ところが、日本人は大事の前には神社等で祈願をしないとちょっと不安になるものの、たとえ願いが叶わなくても怒って「もう二度と神社にお参りなどしない」とは言わない。本心から強く信仰しているわけでもないし、所詮ほんの時々しかお参りしないからである。まあ気休めというわけだ。
これに対し、日本人からみて不思議に思えるのが、クリスチャンなり、イスラム等の何かの宗教信者だ。日常的に祈り続けている。熱心な祈りにも見える。そうなると、おのずと疑問が湧く。そんなに熱心に祈って、祈りは叶えられるの?と。あるいは、例えば癌になったクリスチャンが一層熱心に祈っていたが、死んでしまったとする。いったい祈りは何だったのだろう? そういう疑問が湧いてくるはずだ。
一度、クリスチャンの人に聞いてみるがよい。色々な答えが返ってくるだろうが、概ね、「祈りはちゃんと聞いてもらっていると思うが、祈ったとおりになるとは限らない」というのか、「祈りは結局全て叶えられていると思う。」という答えのどちらか、あるいはその中間であろう。
まず、普通の日本人にとって発見かも知れないことは、イスラムのことまでは知らないが、少なくともクリスチャンの祈りは、必ずしもお願いの祈りではないということだ。なにせ、イエスが言ったように「お父ちゃんみたいな神さま」への祈りだ。お父ちゃんと色々“お話し”、コミュニケーションするつもりでやるのが祈りである。だから、いま心の中にあることを洗いざらいぶつける。それは「ありがとう!」という感謝のこともあれば、「ごめんなさい」という謝りのこともあれば、「苦しい!」という悲鳴のこともある。その中で確かに良く出てくるのはお願いである。しかし、それは祈りの一部なのである。
だから、クリスチャンにとって、まず大事なことは、祈りの中でぶつけていることを、神さまがしっかり聞きとめ、受けとめてくれているかどうかなのだ。あなたが本当のお父さんに、何か相談した時、一番大事なことは、じっくり聞いてくれているかどうかだろう。お金が足りなくて苦労して相談している時、じっくり聞く前にいきなり札束を渡されたら嬉しさ半分、何か不愉快な感じが半分だろう。お金を直ぐくれなくても、親身になってくれたら、それはそれでいい。クリスチャンの祈りはそういうものなのだ。
その上でだが、相手は力に限りのある人間のお父ちゃんじゃなく「全能の神さま」だ。じっくり聞いてもらったことは、何かの形で神さまが必ず配慮してくれていると信じるわけだ。人間が直接願った通りではないかも知れないが、神さまのレベルで必ず配慮がある。こう信じるのだ。その結果、思わぬ形で祈りが叶ったと思う人も多い。
それは、単に人間レベルでの思い込みかも知れないし、本当にそうなのかも知れない。神の配慮は、神のレベルでのことだから、結局人間には分からない。なのに、必ず配慮されると信じる。分からないからこそ信じるのだ。 Nat
2007年03月22日
23:00
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信じて生きている事
キリスト教で「ひっかかること」 その16 究極の疑問(4)
私自身の話だが、私は今から20年前オーストラリアに駐在していた時、突然、理由もなく右目が重度の網膜はく離になった。大手術を受けたが、結局、正常視力は戻らなかった。要するに実質左目だけで生きる人になったのである。
人に、目・鼻・耳・舌・皮膚の五感の器具の中で、どれが一番大事?と聞くと、先ず全員が目と答える。そういう目だから、二個のうち一個失っても、大変不具合だ。私には、二度と世の中が立体には見えない。実は左目の視野にも相当な濁りが入っていて見にくいのだが、そこにぐちゃぐちゃになった右目の像がゴーストのように重なり、非常に煩わしい。人生の途中から、そういう人として生きることになってしまったわけだ。
友人などで、「まだ左目があるからね」と慰めてくれる人もいた。そういう人の気持ちには感謝するが、もし今度私の左目もダメになった時は、その人は何を言ってくれるのだろう?「まだ耳が聞こえるからね」だろうか。それなら一体、ヘレンケラーには何を言えるのだろうか。確かに私にはまだ左目があるが、幾らそれを思ってもそれで右目がなくなった事実が消えるものではない。「ないものを思うのでなく、あるものに感謝しよう」といった教えは、この世を前向きに生きる処世訓としてはいいのだろうが、ないものから目をそむけ忘れろというのが、本当に正しい生き方だろうか? ないようにしたのも神だとすれば、神のされたことを忘れろということにもなる。むしろ、ないという事実を、神が私に与えたこととしてきちんと見据えて、それを前提にしてしっかり生きることが出来たらと思う。実は、結果的には、私はそれに近い展開になったように思うのだ。
もう一度、目がダメになったオーストラリアの現場に戻ろう。医者から、「あなたの場合は、手遅れですから、手術しても、ちょっとね。」と宣告された瞬間、「ああこれから片目の人になるんだ」と思った。その病院の一室を今でも覚えているが、自分でも驚くほど私の心は平安であった。その時、心に浮かんだことは、「たとえ私が片目の人になったとしても、私が私である限り、神の私への愛には些かの変わりもない」ということだった。そのような重大な肉体の障碍の知らせを前にして、本当に不思議にも、却って愛の確信が深まる中にいたのである。
それ以来、私は思うようになった。私の人生は、私が主人公の物語。その物語のシナリオライターは神さま。物語のメインテーマは、私への愛だ。物語は、途中までは両目の見える主人公のストーリーになっていたが、ある時、筋書きは急展開して次の章に移る。そこからは、片目になった主人公の物語になっていくのだ。恰も物語展開上そうでなければならないかのように。今後その先を更に読み進むと、別の章に移って非常に悲劇的なシーンが待っているかも知れない。それこそ、残った左目と耳を両方一気に失う物語展開になっているかも知れない。しかし、物語の作者である神の作品全体への意図が「愛」であると確信できる限り、最後までワクワクして読み進めばよい。ハラハラする場面もあろう。しかし、バックに流れるテーマ音楽は常に愛なのである。
私は、自分の右目のことから、人生をそう見るようになった。右目の障碍を得て、障碍のある他の人への共感が高まったとか、人の弱さへの感受性が出来たとか、そういった結果的な副産物も確かにある。しかし神様は、鈍感な私にそういう共感を与えるためにわざわざ右目を奪ったのか?そういった解釈は人間としては分かりやすいが、人間レベルの恣意的な意味づけに過ぎないようにも思う。或いはイエスの荒野の試練のように、苦境を神が人間に与えた試練と解釈する手もある。それはそれで人間レベルでは分かりやすい。しかし、何も無理にそんな解釈をしなくてもいい。私の右目の視力をこうされた神さまの計画なり目的は神さまのレベルのことだから、所詮人間の私にはさっぱり分からない。しかし分からなくても全然構わない。神さまの大きな趣旨が「私への愛」であるとさえ確信出来ていれば。
「どうして、そんなに愛の確信ができるの?」と聞かれそうだ。私にも分からない。でも信仰とはそういうものではないだろうか。 Nat
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