対象と接触して初めて感覚がキャッチされるのは、触覚、味覚、そして嗅覚だ。(嗅覚は気体の分子との接触。)そして、それらの感覚は、接触していない時にそれをリアルに思い出すのは難しい。一方、視覚は見えてなくても、どういうものだったか、どういう見え方だったかを相当正確に再現できる。顔でも何でも、見たものを絵にして描くことも出来る。形状は、丸、四角、直線、曲線などの要素に分解して理解できるし、色も微妙に記憶し再現できる。次に聴覚だが、これは風の音とか自然のノイズに近いものは、頭の中での再現は難しいが、少なくとも音楽や言葉になっているものは、記号的な再現がしやすい。
これに対して、触覚、味覚、嗅覚は、一旦その対象物と離れ離れになると、もう正確には再現できないし、思い出せない。感じがよかったとか、いやな感じだったは勿論覚えているが、脳の中で具体的にリアルな感覚は再現できない。このことには、非常に深い意味があると思う。それは、触覚・味覚・嗅覚を駆使して味わうものは、人間として飽きが来にくいということなのだ。何度でも同じように楽しめ、興奮がよみがえる。目はそうはいかない。どんな素晴らしい絵でも、どんな美人でも段々見飽きる。それは、目で見たものは、脳の中で再現・記憶が可能なので、初めて見た時の新鮮な感動が何度も見ていると薄れてくるからだ。勿論、芸術的な絵などは、何度も見るうちに、印象が進化してくるものだそうだが、それは相当レベルの高い話しで、素人レベルでは飽きることもあり得るだろう。
ところが目や耳の世界と異なり、皮膚、舌、鼻の感じるものは、大いに繰り返しが利く。お気に入りのラーメン店のスープの美味な味。 これはもう一度その店に実際に行って、そのスープそのものをすするまでは、脳の中に具体的美味がよみがえることはない。その店に行って、ずるずるとすする。その瞬間、毎回、毎回、殆ど初めての時と同様の感動がよみがえる。だから、“距離ゼロ系”の、皮膚的、舌的、鼻的な喜びは、何度でも新鮮に楽しめる、繰り返しの利く喜びなのだ。人はこれを「原始的」というかもしれないが、むしろ最も根源的な喜びだろう。距離ゼロ系の、繰り返し可能な喜びが、この世にあるからこそ、人生は楽しい。毎日、毎日、同じような繰り返しの生活でも、距離ゼロ系の、繰り返し可能の喜びがあるから、毎日が喜びになる。目で楽しむ絵や、耳で聞く音楽などだけでは、人生は段々飽きてくる。私はそう思う。 Nat
これに対して、触覚、味覚、嗅覚は、一旦その対象物と離れ離れになると、もう正確には再現できないし、思い出せない。感じがよかったとか、いやな感じだったは勿論覚えているが、脳の中で具体的にリアルな感覚は再現できない。このことには、非常に深い意味があると思う。それは、触覚・味覚・嗅覚を駆使して味わうものは、人間として飽きが来にくいということなのだ。何度でも同じように楽しめ、興奮がよみがえる。目はそうはいかない。どんな素晴らしい絵でも、どんな美人でも段々見飽きる。それは、目で見たものは、脳の中で再現・記憶が可能なので、初めて見た時の新鮮な感動が何度も見ていると薄れてくるからだ。勿論、芸術的な絵などは、何度も見るうちに、印象が進化してくるものだそうだが、それは相当レベルの高い話しで、素人レベルでは飽きることもあり得るだろう。
ところが目や耳の世界と異なり、皮膚、舌、鼻の感じるものは、大いに繰り返しが利く。お気に入りのラーメン店のスープの美味な味。 これはもう一度その店に実際に行って、そのスープそのものをすするまでは、脳の中に具体的美味がよみがえることはない。その店に行って、ずるずるとすする。その瞬間、毎回、毎回、殆ど初めての時と同様の感動がよみがえる。だから、“距離ゼロ系”の、皮膚的、舌的、鼻的な喜びは、何度でも新鮮に楽しめる、繰り返しの利く喜びなのだ。人はこれを「原始的」というかもしれないが、むしろ最も根源的な喜びだろう。距離ゼロ系の、繰り返し可能な喜びが、この世にあるからこそ、人生は楽しい。毎日、毎日、同じような繰り返しの生活でも、距離ゼロ系の、繰り返し可能の喜びがあるから、毎日が喜びになる。目で楽しむ絵や、耳で聞く音楽などだけでは、人生は段々飽きてくる。私はそう思う。 Nat