♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2007年06月

教会って何なのさ? その2

はてな いったい教会とは、そもそも何のか? これを考えたいが、ここで常につきまとう問題があるので先ずそれを書いておく。それは「本来の教会」と「実際の教会」の違いだ。「本来の教会」は言わば、神さまが人間のために用意しようとしている、教会のあり得べき姿。そして「実際の教会」は、人間が運営している実際の人間組織としての教会だ。

笑顔 まず2000年の前、イエスの後に残された弟子たちが形成していった教会を、「本来の教会」と「実際の教会」の観点から見てみよう。イエスが処刑され、暫く復活の姿を見せた後、弟子たちはエルサレムにおいて、“クリスチャン”と呼ばれる「仲間集団」を形成していった。新約聖書の使徒言行録によると、皆は持ち物を持ち寄り、その仲間集団が家族になったかのように、共同体としての生活を始めたとある。そして、いつも一緒に祈り、イエスのことを思い出しながら食事を共にした。これが、後のエルサレム教会の最初の形であった。まだイエスがいた頃、弟子たちはイエスを中心にして、一緒に共同体生活をし、共に祈り、イエスがパンを皆に分け与えたのを一緒に食べた。これを、目には見えなくなったが、今も皆の真中にいると信じたイエスの周りで、同じように再開したのである。

びっくり なぜそうしたかというと、復活のイエスが、そうするように言ったからである。イエスは、「自分の名前によって皆が集まっている所には必ず自分がいる。そう信じて、いつまでも一緒にパンを分け合い共に生きなさい。そこには神さまから特別の力と導き(“聖霊”という)が与えられるから。」そういうことを言ったのである。そして、事実、皆がそうやって集まって祈っている所に、風のような不思議な音がして、神さまからの力と導き(聖霊)が下ったとも書かれている。

笑い この聖霊の話は、なにやらオカルトみたいで、普通の人はにわかには受け入れがたいと思うが、大事なことは、要するに弟子たちやその仲間たちが、目には見えないがイエスが皆のまん中にいると信じて、共に祈り、共に食し、神からの力を感じながら生きる共同体生活を始めたという事実である。これが最初の教会であり、最初は「本来の教会」と「実際の教会」が一致していた。そして、今日においても「本来の教会」はこのことの続きなのである。

家 このような最初の共同体生活は時間がたち群れが大きくなると、段々変わってくる。全員がずっとこの共同体生活をするのは非現実的だから、他の場所に生活や家庭のベースを持ちながら、共同体活動に定期的に参加するというスタイルになってくる。イエスが復活した日、日曜日がそれをする日だ。日曜には、夕方だったようだが共同食事会が持たれ、そしてイエスがしたようにパンとぶどう酒を分け合って祈る聖餐という儀式も行われた。聖書には明確な記述はないが、その場では当然、生前のイエスの言動、十字架と復活のイエスの出来事が繰り返し繰り返し語られたと思われる。これが教会の礼拝になった。つまり、最初の共同体生活の本質の部分を、日曜日に集会として続けた。それが教会の礼拝になっていったのである。今では、教会の礼拝は日曜の夕方ではなく、主に日曜の朝に行われるが、やっていることは2000年前と同じだ。皆で、目には見えないイエスの周りに集められたと信じて一緒になり、イエスの言動・出来事を聖書から思い起こしつつ、一緒にパンとぶどう酒を分け合う、そして祈り、歌い、最後には神からの力に満たされて、それぞれの生活の場に送り出されていく。これが今でも、キリスト教の教会の礼拝だ。少なくとも「本来の教会」の「本来の礼拝」はこうだ。

落ち込み しかし、人間のやることだから、次第に「実際の教会」では違う面が出てくる。このことを次回書きたい。  Nat

教会って何なのさ? その1

キラキラ ある女性が私に言った。「私は神さまを信じているし、小さい頃からイエスさまのことは聞いてきたので、それも信じている。自分でお祈りもする。それで十分じゃない。教会という所に日曜ごとに行く意味があるの?」

落ち込み 思うにこれは大変根源的な質問だ。そしてはっきり言って残念ながら、教会に行っている人たちの多くが、これに対してしっかりした本質的な答えを持っているかどうか疑問がある。

本 私は、先に「キリスト教でひっかかること」と題して23回連載でここにブログ記事を書いた。それは、キリスト教そのものに疑問やひっかかりを感じる人を念頭にして書いたものだ。一方、上記の女性のように、キリスト教の中身は結構いいと思っているが、教会という所は一体何なのか?という疑問やひっかかりを感じる人も結構おられるに違いない。そこで、今回は、私が思っている「教会」という場について、そして、その場にて私たちがどのようなものを得ていると思っているかについて、何回かに分けて書きたい。

びっくり まず、冒頭の女性の疑問、教会に行くことにそんなに意味があるのか?自分が神さま・イエスさまと心で繋がっていれば十分ではないのか?----この問いの背景には、恐らく教会に対する二つの疑問があるのではないかと思う。一つ目は教会という「組織」に属することへの疑問。教会という組織に積極的な意味があるのかという疑問だけではなく、むしろ何となく組織に属するのはいやだなという忌避感があるのだろう。これは普通の人からすると極めて尤もなことだ。よほど淋しくて、人の集まっている所に自分も入れてほしいと思うような人は別だが、そもそも「宗教の組織」の所属員になるなどということに、素敵な期待感を持つ人はまれだろう。組織だから、何か規則などの縛りもありそうだし、自由な生き方を束縛されそうだ。その見返りに得られるものがマインドコントロール的な幸福感なんてのはまっぴらゴメンだね。そう思うのが自然だろう。これが一つ目。

びっくりびっくり 二つ目は、教会でやっていることはそもそも何なのかということに関する疑問やシラケだろう。「日曜日に教会に行くと礼拝というのをやっていて、聖書の話を聞くらしい」。そういうイメージがあるだろう。それに対して皆が思うことは、「聖書の話なら、昔ミッションスクールの頃もうたくさん聞いた」とか、「別に教会に行かなくても、色々本も売っているので、時間のある時に自由に読めばいいことでしょ」といったことではないか。そして、このような疑問に対して、思うに教会側が「そうじゃなくてこうなんですよ」という、きちんとしたメッセージを発信しそこねているから、いっこうに印象が変わらない。

笑い そこで、今回の連載では、まず二つ目の「教会ってそもそも何なのか?何をしているのか?」という点から入りたい。 Nat



人間の五感 その6

笑顔 最後に視覚だ。前に少し書いた通り、愛する人を抱きしめる時、目をつむることから、目が要らない瞬間もある。しかしやはり実生活上、視覚の重要性は極めて高い。特に、新聞・本や書類などの文字・数字情報、あるいはテレビ・雑誌などの映像・画像情報の取り込みに目は大活躍する。

笑い しかし、もう一つ、実は目が非常に大きな役割をしているのは、他人の目・顔に対するレーダー機能ではないだろうか。動物は皆そうだが、別の動物に出会うと必ず相手の目に視線を注ぐように出来ている。相手の敵意の有無などを瞬時に読み取るのは目を見るのが一番だからだ。人間も赤ちゃんの頃から、他の人間がいると先ず目を見る。本能で自動的に目に視線がいくのだ。これはすごい能力だと思う。街中を歩いていて、あれだけ大勢の人とすれ違っても、瞬時に一人ひとりの目に視線を送る。普通最初から足やおなかなどに目が行くことはなく、必ず自動的に目を中心とする顔に視線が行くのだ。そして、すれ違う一人ひとりにつき無意識のうちに、特に敵意などがない、無視してもいい赤の他人であることをいちいち確認している。多分、1秒の何分の一という瞬間に、目に視線をやり、その目にある敵意などの特別の心理の有無の判断、そして、目を中心とした顔が知っている人の顔と一致していないことの判断をしてしまっている。逆に変な人か、知っている人がいると、すぐ反応できる。この能力は、人工的にカメラとスーパーコンピューターでやろうとしても、当分の間絶対無理だろう。そして、これは目の能力ではなく、目を使う脳の能力なのだ。それほど、人間の脳の目に関する能力は高い。

びっくり 脳が如何に視覚をコントロールしているかだが、まず今述べた通り、回りの人間の目に視線を送るなど、絶え間なく視線の制御をしている。聴覚の方は、耳を澄ますというように、聴覚に神経を集中することはあっても、コウモリでもあるまいし、聴覚をレーダーに使うことはない。一方、目は人間のレーダーだ。視線を脳が緻密に制御している。

びっくりびっくり もう一つ、すごいのは、目が見ているものを、脳が整理して認識しているということだ。私は、前にも書いたが右目が重症網膜剥離でぐちゃぐちゃになっている。だから右目の視覚は雑音のようなものだ。左で見ているものに、歪んでずれた右目の別の像が重なって非常にわずらわしい。ところが脳はこのような雑音的な右目の像を無視しているのだ。見えているのに、見えてないように処理して意識からは消してしまっている。勿論、思い出して意識すると、浮かび上がってくるが、普通は殆ど意識にない。これがすごいと思う。脳が役にたつ像とそうでない像を、取捨選択しているのだ。良く言われることだが、我々の見ているものは、目の網膜に映っている物理的・光学的な像ではなく、脳が意識として見ているものとのことだが、私には人一倍その実感がある。

本 更にもう一つ。聖書で生まれつき目の見えない人の目をイエスが開くシーンがあるが、そのシーンの劇で、開かれた人が「ああ人が見える、木が見える」と言って感激するのがある。しかし、あれはあり得ないと思う。突然、目を開かれた人の網膜に映った光の像を脳は直ぐには意味として理解しないはずだ。初めは意味不明のランダムな光の模様としてしか認識されないと思われる。暫く、それで生きていると学習の結果、人間や木の光学的模様と、人間、木という概念が結びついてくる。脳の中に、人間とか木のデザインのパターンが植えつけられて、それで初めて「人間」、「木」という具合にパターン認識される。だから、イエスに目を開かれた人のシーンでは、最初は「ああ、何だこの不思議な感覚は?!これが見えるということか?!」と言うセリフを吐かせるのが一番相応しいと思う。それくらい、視覚は目ではなく脳の機能なのだと思う。 

にっこり これで五感につき全部書いてきた。このように視覚は脳の機能だ。聴覚も大半は言語の聞き取り用だから脳の機能だ。しかし、前にも書いたとおり、距離ゼロ系の触覚・嗅覚・味覚は、その瞬間瞬間の刺激で体が感ずる世界だ。脳の支配する視覚と聴覚の二つに加えて、距離ゼロ系の体の3感覚。この両方の組み合わせが豊かに発揮されてこそ初めてトータルな喜びのある生き方になると思う。私は視覚が半分欠けているが、世の中にはもっと欠けている人もいるだろう。それはそれで、それなりの恵みの世界があると思うが、神さまが人間に基本的に5つの感覚を下さったのはとても素晴らしいことだと思う。    Nat




人間の五感 その5

笑顔 聴覚については、論じているものが少ないような気がする。なぜだろう? 思うに現代の人類は、聴覚という機能を、言語の聞き取りと音楽の鑑賞という2つの目的に集中させてしまっているので、世の中に言語や音楽の話しは多くても、聴覚そのものの話しにはなかなかないないからという気がする。

サル これに対して、大昔、まだ言語らしき言語を話ししてなかった原人の頃、人類の聴覚はどんな感じだったろう。たぶん他の動物と同様、獣や敵の足音や鳴き声を聞き取ったり、或いは風の音で気候の変化を読み取ったりといった具合に、音そのものへの感受性は今よりも数段鋭かったのではないかと想像する。

びっくり ところが、その後、人類は先ず言語を使い出す。そうなると、聴覚はもっぱら、他の人間がしゃべる言葉を聞き取る為のものになっていく。聴覚が言語聞き取りに特化していく中で、音そのものへの感度が低くなっていったのではないかと思う。というのは、言語は幾つかの母音・子音の組み合わせの音の型と、あとは音が並んだ単語で出来ているわけだが、要するにそれらは「記号化された音」だ。おなじ「あ」でも発音する人によって本来微妙な違いはあろうが、そういう微妙な音の差を無視して「あ」は「あ」として認識する。そういう中で、脳の中の言語を認識する能力は発達、一方で、音そのものの微妙さを識別する能力は鈍くなっていったのではないか。これが、私が勝手に思っていることだ。

びっくり しかも、現代の人間は、聴覚の微妙な識別能力の度合いに関心も持っていない。健康診断で、視力は結構検査がある。一方普通、聴力は看護婦さんが「耳は聞こえますね」とか確認するだけのことが多い。検査するとしても、微小な音が聞こえるかどうかだけを測定する。音の微妙な違いの識別能力の検査はまずやらない。要するに人の話が聞こえるかどうかだけをチェックすれば、人間の機能としては合格で、こおろぎの微妙な声色の違いまで聞き分けられなくても生きていけるというわけだ。

譜面 そして人類には、言語に続いて音楽が追加される。しかし、音楽はこれまた、基本的に記号化された音だ。12音が基本。あとは音色でピアノかバイオリンかという違いが大雑把に分かれば、十分楽しめる。私がジャズミュージシャンでもあるというと、良く「絶対音感あるんですか?」と聞かれる。しかし、私には相対音感(複数の音の間の相対的な感覚)は最低限のミュージシャン並にはあるが、絶対音感(音を突然一つだけ鳴らして当てる能力)は全然ない。もしかして、人類が言語を話すようになって聴覚が退化した時に、一部の人を除いて絶対音感的なものも退化したのかも知れない。このように現代人の耳は鈍い。少なくとも絶対音感は稀だし、相対音感も普通の人はそれほど鋭くはない。しかしそれでも、普通の音楽は十分楽しめる。

落ち込み  かくして、現代人は、言語と音楽という記号化された音にそこそこ対応できる程度の聴覚だけを残すに至った。それ以上は通常の生活では必要ないからだ。それに比べて嗅覚と味覚は記号化され得ない感覚だし、前に書いたとおり、それを距離ゼロになって毎回新鮮に味わい感激するため、微妙な識別能力が必要だ。だから、犬ほどではなくても、嗅覚・味覚は聴覚よりもよほど鋭い感覚が残っている。それに対して人間の聴覚はロボットの耳程度になってしまったと思う。今からでも、山に籠もって微妙な自然の音に耳を澄ます生活をすると、もしかして、原人の頃の鋭い耳が少しは戻るかも知れないなどと少し思うが、勿論そういうヒマもない。だからロボットの耳で今日も忙しく生きる私である。 Nat

人間の五感 その4

笑顔 距離ゼロ系、繰り返し可能の感覚として、触覚と嗅覚の話はしたので、次は味覚だ。触覚、嗅覚、味覚の距離ゼロ系の3感覚の中で、とにかく関連する文章が世の中でダントツに多いのは味覚だろう。勿論、それは食べ物と味の話が多いからだ。

笑い 触覚は、生活や仕事の中でも、それに依存はしている。パソコンのキーを打つのにも、触覚をフルに動員している。しかし、人は触覚を論じることは少ない。前にその?で書いた通り、実は触覚は、愛との結びつきが大きい。しかし、愛する人を抱きしめた時の感覚などは、非常に個人的なもので、かつ自分や相手の人のプライバシーにも係わることだから、余り人と論じ合ったりするものではない。だから、一部のエロ小説などを除くと、触覚は文章にはなかなか登場しない。

笑顔 嗅覚は、人間の場合、もっと生活のはじっこに追いやられている。実は距離ゼロ系で、根源的な喜びに繋がるのだが、余り意識されていない。だから、一部のアロマ・セラピー等の本を除いて、これまた文章には余り登場しない。

ラーメン 一方、味覚。これは食べ物論の中で、非常に多く文章、会話の中に登場する。本当は、食べ物の味わいは、舌や口の触覚(いわゆる食感)にも支えられているし、実は嗅覚が重要であることは良く知られている。しかし、食べ物の良し悪しの話になると、9割くらいが味覚の話になる。なにせ、人間を含めて動物は食べ物を噛んで飲み込むのだから、それが毒や腐敗で有害かどうかの判定は、嗅覚や視覚もさることながら、圧倒的に味覚に依存している。だから人間の文化としての食べ物の喜びについても、評論の基本は味覚になっている。勿論、噛んだ食感も結構話に出てくるが。

びっくり そこで、味に関する表現。嗅覚は、嗅覚特有の単語が極めて少なく、「XXのような匂い」としか言えないことが多いということを前に書いた。しかし、味覚は、基本的味覚なるものに分解されて理解されている。「酸っぱい」「塩辛い」「苦い」「甘い」の4つ。日本中心に、これに「うまみ」が加わる。なぜ4つとか5つか? 別に味細胞に4つ5つの種類があるわけじゃない。これに対して、視覚は、網膜に錘体細胞というセンサー細胞があるが、これがちゃんと3種類ある。長波長(赤)、中波長(緑)、短波長(青)に感じる3種類だ。だから視覚の場合は、色調は3つの要素の組み合わせで出来ている。ところが、味覚センサーは4種類とか5種類とかに分かれていない。だから、酸・塩・苦・甘・旨といった要素分解は、人間の感じで適当に分けているものだ。中には「自分はその5つではないと思う」と主張する人が出てきてもいいと思う。しかし、私の場合、特に鋭い味覚を持っていないせいか、一応、5つで納得してしまっている。

ウインク 一つ、面白いのは「うまみ」。西洋では、元々は味は4つしかなかった。しかし、日本人の主張で「うまみ」はまた別の種類の味だろうということになり、「うまみ」が5つ目に認定されたらしい。ということは、西洋人は「うまみ」を余り意識していないということになる。塩をかけるか、お酢をかけるか、砂糖かけるかだけであって、あと、ちょっと香辛料は入れるが、根本的に「ダシ」のうまみという概念がない。ああ可哀想。でも、外人も、さぬきウドンのお汁をすすって「Very good !」というから「うま味」を理解できるみたいだ。また、「うま味」はそもそもグルタミン酸ソーダ(味の素)などのように、主にアミノ酸系。つまり肉のうま味がそれだ。だから、動物の頃、必須アミノ酸を積極的に摂取できるように、うま味感覚が出来たと思われる。だから、外人にもその感覚があるに決まっている。しかし彼らは、お肉から染み出るうま味は知っていても、それ以上にそれを積極的に抽出してダシに使うという文化を開発出来なかったのだ。だから、彼らの文化では、やっぱり味は4種類ということになる。余計なお世話だろうが、やっぱり可哀想。  Nat




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