♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2007年08月

死んだらどうなる? その1

笑顔 2年ほど前に、このブログで思いつき的に「死んだらどうなる」という表題で短い文章を書いたら、今でもその記事が私のブログで最も閲覧の多い記事になっている。それだけ、「死んだらどうなる」ということについて、多くの人が真剣に関心を持っているということだろう。私はこのテーマについて「自殺の大前提」シリーズでも少し述べたが、改めてここで書いてみたい。  

困った まず、「死んだらどうなる?」という問いに対して、最もすっきりした回答は「死んだら何もなくなる。無になる。」というものだろう。そして、その理由として最も多く言われるのが、第一に「意識は脳神経の作用で生じている。だから死んで脳神経が機能を停止したら、あなたの意識もそれでおしまい」ということだろう。そして第二に「あなたは生まれる前には意識がなかったでしょう。死ぬと、生まれる前に何の意識もなかったその状態に戻るのです」が来る。

びっくり この二つのことを言われると、「なるほどそうか。やっぱり死んだら何もなくなるんだ。」と思ってしまう人は多い。暫く前に「利己的DNA」という本を書いて有名になったリチャード・ドーキンズ博士が、何故か大変ムキになって、「人間の意識は死んだら消える。神などもない」と自著の本で書いているように、この問題を科学的に考えると「死んだら終わり」と思う人が結構多い。

にっこり そこで私は言う。まず「脳神経が機能停止したら意識も終わる」という仮説についてだが、ここで「意識とは何か?」が問題になる。実は近代・現代科学でもこれは大変難しい問いであって、すっきりした説明を出した学者を私は未だ知らない。意識が脳神経によって支えられていることは間違いない事実だろう。しかし、だからと言って「神経は脳神経の作用そのものであり、それ以上ではない」と言い切れるかというと、また別問題だ。そこで、ずばり質問。人間の脳と同じ機能を持つ電子的人工知能が数年後にでも完成するとする。何か質問すると一応人間と同じように反応するし知識もある。しかし、それは飽くまでも電子部品が高度に集積したものだ。いわばパソコンのお化け、高度の物体だ。そこでクエスチョン。そのパソコンのお化けに、あなたと同じような「意識」があると思いますか??? 私の答えは「No」。どんなに高度の人工知能を作ってみても、そこには「意識」も「命」も「たましい」もない。脳神経を緻密にマネした人工知能のロボットのようなものが出来たとしても、それは所詮「物体」だ。そこには我々と同じような「意識」はない。私はそう思う。あると思う人はコメントを下さい。私はその?で述べるが、無機物(人工知能)と、命のある私やあなたとの間には決定的違いがあると思っている。

にっこり 次に「生まれる前には意識がなかったから、死んでも意識はなくなる」という主張。これは私も一瞬「そうだな」と思ったくらい尤もらしい。しかし、これにも「待った」がつく。確かに私などは、生まれる前の意識というか記憶は全くない。しかし、もし生まれる前の私の意識なり記憶が、この世に生まれるにあたり表面的な意識の上では消去される仕組みになっていたらどうだろう。パソコンで全てのデータを消したつもりが、実はプロに見させるとデータが回復できると同じように、前生の記憶を呼び戻すという話がある。催眠術で生前にまで戻るという実験が山ほどあるのもご存知だろう。そして、そういう催眠術での生前の記憶の呼び戻しで、前生に生きていた、例えばインドの村での歴史的な記録と、呼び戻された記憶とがぴったり一致するといったウソみたいな報道が良くある。これをデッチあげと思うかどうかは、あなたの勝手だが、少なくとも、こういう前生の記憶の事例があることは、「前生の記憶がないから、同じように、死んだら意識がなくなる」という主張に対する有力な「待った」となると思う。

はてな このように、「死んだら消えてなくなる」という説の根拠は必ずしも磐石ではない。とすると、死んだらどうなるのか? ここからはその2で。Nat

笑いって何? その2

にっこり その1で、笑いとは人間が本来の状態から少しだけずれてしまった時に、可笑しさが生じて笑うものという、ベルグソンの考えを紹介した。しかし実際に我々がどういう時に笑うかを具体的に考えてみると、実にさまざまな「少しずれた状態」があることが分かる。

まる まず目でみて可笑しくて笑えるもの。「ひょっとこ」の顔とか、ピエロとか、昔の無声映画の頃のチャップリンとか。これらは、人間が本来のちゃんとした状態から、確かに不完全でぎこちない方向に少しずれている。これは分かり易い。

笑い  一方、我々が一日で笑うことの大半は、漫談や冗談など言葉で言い表されたことだ。話が人間のある状態に関わるものである場合は、上記のベルグソン説がそのままよく理解できるが、「ずれ」の中身は実に多岐にわたる。例えば、あつかましい、いい加減、本能むき出し、子どものように振舞うというのもある。男が「そりゃ、男に抱かれたら気持ちわるいわな」なんていう「性の相手のずれ」もあれば、「お前、しぶとく死なんな」などという普通以上のしぶとさでもいい。これらが少しの“ずれ”に留まっていれば笑いを生む。一方、そのことを余りシリアスな表現で言うと、“ずれ”が大きく感じられ過ぎて、怒りやあきれにまで行ってしまう。だから軽妙な表現で“少しだけのずれ”、笑える程度のずれに留めて表現する必要がある。それだと可笑しく笑えるということだろう。

うんち ただし、直接は人間の状態そのものの話ではないが、笑える話がある。例えば、「ウンコ味のカレーと、カレー味のウンコと、食べさせられるならどっちを食べる?」なんて話は、なんとなく可笑しい。笑ってしまう。何故だろう?まず「ウンコ」という言葉が何となく可笑しい。これもベルグソン説で説明できると思う。ウンコは恥ずかしい隠れたものだから、普通ウンコのことは人間の表には出てこない。そういうウンコの話が表に出るというのは、これまた、人間本来の状態から少しずれたことと言えるのだろう。だから、「ウンコ」という単語が出てくるだけで可笑しさを誘う。更に、上記のカレー味のウンコの話は実に究極の選択で、大いに悩む。しかし、悩んで選択したところで所詮無価値である。このように無価値なことで大いに悩まざるを得ないという人間の状態は、まさに「本来の状態からの少しのずれ」なのであろう。だから、この究極の選択の話は可笑しいのである。

あかんべー ダジャレや語呂合わせはどうだろう?「このカレーは辛れえ(カレー)な!」なんてダジャレは何故可笑しいのか?言葉が似ているだけで笑える訳でもなさそうだ。思うに、多分これは、ダジャレの語呂合わせの前に、カレーを食べて辛いという風に顔をしかめる人間の状態が、本来からのずれであり、そういう光景が笑いを誘うための伏線になっているものと思われる。その上で「辛れえ(カレー)な」と語呂合わせで、その辛さへの他人の共感を軽妙に誘おうとするその行為が、きちんとした状態からのビミョウなずれと感じられるのであろう。だから単に似た単語を並べるだけでは余り面白くなく、それを人に投げかけて共感を誘うという構図が可笑しいのではないか。

笑い こんな風に、「笑い」をベルグソン説に沿って突き詰めて考えていくと、だいたい全て「少しのずれ」で説明できるようにも思われる。

はてな しかし最後に私が分からないことがある。可笑しい時に笑う笑いと、楽しいことを聞いて微笑む笑顔は非常に近い。人間が微妙にずれている場合に感じる感覚が、なぜ楽しい・幸せなことへの感覚とダブルのか?これが分からない。少しだけのずれについては、ずれはずれだから、心が反応する。しかし、少しの程度だから怒りや驚きではなく、楽しい感覚に通じるセンスで反応し、本来の状態に軽く戻ろうとする心の仕組みになっているのだろうか?ここが良く分からない。人が進化の過程でなぜ笑いを獲得したのかという根源的問題に行き着くと思われる。いつか、この点をもう少し極めたい。

ウインク このように笑いということについても、深く考えてみると不思議だ。でも笑いについて、こんなに真剣に考えることそのものが、ちょっとした「ずれ」で、可笑しいよね。 Nat

笑いって何? その1

にっこりにっこり 人間はよく笑う。この「笑い」って、いったい何なのか? この問いは簡単そうでいて、なかなか難しい。大昔のギリシャの大哲学者のプラトンも考察をしているし、近代でもフランスの哲学者のベルグソンなんかは「笑いについて」という題で本を一冊書いているくらいだ。

はてな 人間はどういう時に笑うか?それは何かが「おかしい」時だ。では「おかしい」ことってどういうこと?おかしいこととは「普通でないこと」か。でも、普通でない変わったことや異常なことは何でもおかしいかというと必ずしもそうではない。雨の中を骨だけになった傘をさして歩いている人がいたら滑稽でおかしい。笑える。普通でないし変だから。でも鉄の板で出来た傘をさしていたら、非常に変わっているがそれをおかしいと思って笑う人は少ないだろう。とすると、何か変わっていても合理性があれば「なるほど」と思えて笑いは誘わない。逆にいうと、理にかなわない変わったものがおかしいということか。これは正解に近い。

OK しかし、たとえば「歳をとってくると集まって出る話はまずは体の調子のことだよね」という一言は、そこにいる人の笑いを誘う。歳をとると体の話をするということは、普通だし、合理性もある。それでも、それは笑いを生む。自分もそうだという思いがある分、苦笑になるが。でも笑いは笑いだ。

笑顔 この二つの例を考えながら、ベルグソンの説を借用して、正解と思うことを言おう。おかしいということは、まず人間がからむ。無機物で妙な形をしているものなどは、変な人間を想起させたりしない限り、直接笑いを誘わない。人間が「本来的な型」や「あり方」から、不完全な形、スムーズじゃない形に少しばかりずれているとおかしく、笑いを誘うのだ。あるいはそういう人間の状態を想起させる物などでもいい。「少しばかりずれている」といったが、大きくずれているのはダメだ。たとえば完全に病気になって寝ているというのは哀れであり、笑えない。しかし、3発連続で激しくくしゃみをするというのは、その人には申し訳ないが、ちゃんとした人間の状態からちょっとだけずれている点がおかしいので、周りの人の笑いを誘う。骨だけの傘をさして雨の中を歩くのも、本来のあり方から、不完全で欠陥のある方向に少しずれている点が笑える。傘がなくてずぶぬれになってしまっているのはもう余り笑えない。歳をとると体の話するのも、若いころのしっかりしていた状態から少しずれ始めている状態だから笑える。しかし全く衰弱して、よぼよぼになってしまっては笑えない。

笑い どうして、少しダメな方向にずれているとおかしく笑いを誘うのか?どうも、それは人間が、まだ少しずれているだけなら、本来の状態に戻ろうとする存在だからだという。少しずれているのが自分にしろ、他人にしろ、「ちょっとずれてますよ!でもまだ戻れますよ」ということを心が意識する。ちょっとした警戒意識と共にまだ大丈夫という励ましのような気持ちがミックスしたもの、それが笑いなのだ。だから、笑いは人間が本来の型から大きく逸脱し過ぎないために獲得した心の反応だというのである。(ベルグソンを読んだのは大昔の学生のころだから、正確にそう書いてあったかは忘れたが、そんなことだったと思う。)

ウインク そんなことを一々考えていたら、笑えるものも笑えなくなるかも知れないけれど、「笑い」の中にも人間の命の不思議な仕組みが隠されていることが面白いと思う。世の中、面白いことでいっぱいだ。ラブ

でも、本当にベルグソンの説だけで笑いを全て説明できるのだろうか?もう少し考えてみたくなった。それはその2で。まる Nat

日本をどう守るのか? その2

笑顔 米国グループの中での、日本のポジションのあり方はどうあるべきか? また米国には何を期待するか? これについては、いきなり私の意見を述べよう。

1.先ず、日本は押付けられたにしろ、今の平和憲法を持っている。これは堅持するべきであると思う。色々考えたが、結局これが私の立場。国連憲章でも侵略的武力は禁じているが、今、露骨に侵略する国はまずなく、皆、自衛か世界の平和のためという大義名分で武力行使してしまう。それが更なる相手国の武力を生むというのが人類の現状だ。そういう中で、自国の憲法に「国際紛争解決する手段としての武力を永遠に放棄する」と明記している日本のあり方は、人類発展途上における一つの先行パターンであり、これを堅持する意味はおおいにあると信じる。

2.となると、日本が武力を行使するのは、日本が攻撃された時の自衛、正当防衛に限定されるべきである。しかも憲法の精神に基づき、予防的な攻撃はしないし、また実際の反撃も、出来る限り抑制する。但し、既に述べた通り、かといって手抜きの兵力ではダメだ。しっかりした強い自衛兵力を保持すべきであろう。空手の高段者が滅多に拳を振り回さないようなものとしたい。
   この原理を堅持することは、極東・アジアの他国と日本の関係においても、結局、日本に最良のポジションをもたらすとも思う。
   そもそも歴史的に見ても、日本人はやはり島国民族だ。交易では他国と上手く付き合っても、武力を戦略的に行使するタイプの民ではないと思う。それを無理にやると、大体道を踏み外す。だから憲法9条がなくても、そもそも日本は日本らしく自分の島国の防衛に徹するので良いのだ。

3.しかし、ここで重大な問題が出てくる。日本は米国グループの一員だ。いざという時に、少なくともリーダーの米国は、自衛隊と共同でではあるが、日本の防衛に加担する義務がある。日本が一定の自国兵力を擁しつつも、米国と同盟しているのは、ここに目的がある。問題は、日本が米国に対する見返りの義務をどう果たすかだ。義務のメニューは二つある。(1)米軍基地を日本に置くことを認める。(2)米軍の世界での軍事行動に自衛隊が協力する。この二つだ。
   今、起こっていることは何かというと、(1)の米軍基地は、日本の国内政治的に評判が悪いので、日本政府はこれを少しずつでも減らしていこうとしている。その代わりに、(2)の海外での米軍への協力は、日本から遠くのことだから国民から文句は出にくい。そこで、基地は漸減していく代わりに、いよいよ海外での自衛隊の役割を拡大せねばならないのだ。その為に9条の制約が問題になってきている。

4.しかし、私はこう思う。2.で述べた通り、日本の自衛隊が、日本と、自衛に必要な周辺地域以外では絶対に軍事活動しないことこそが、日本が何としも守りぬくべき原則ではないか。それでこそ、アジア他国からも信頼される国になれる。とすると、米国への義理の果たし方は、一つしかない。在日米軍基地だ。最大の脅威である中国の真横にある日本列島。テロリスト問題などのあるパキスタンや中東に米軍が出陣する拠点として最適な日本列島。そんな絶好の場所にある日本列島を、米国は軍事拠点として絶対手離せない。これを使用料無料どころか、ご祝儀つきで米軍に使わせてあげているのだ。これは米国への最大の貢献である。他の同盟国にはないレベルの貢献なのだ。だから日本は米軍基地を嫌がらずに、日本の唯一最大の貢献としてこれを維持・継続することこそが、重要な国策であると思う。勿論、基地のある自治体への配慮は、これまで以上に行うべきであろう。自衛隊の海外派兵費を全部これに回してもよい。
   米国には、このことを日本の基本方針としてきちんと説明し、その代わり、今後、海外での直接軍事協力業務には、給油等も含めてもう一切参加しない、日本の海外協力は人道支援に徹することを明確にして米国と交渉すべきであろう。
   そして補足だが、国連では所詮、武力行使決議は滅多に出ないが、たとえ出た場合でも、海外での武力行使には国連ベースでも参加しない。また、北朝鮮などの対米攻撃ミサイルの早期迎撃問題も、米国には日本の基地を貸すので、あとは米国に自分でやってもらう。それが日本のけじめだ。

5.前に述べた通り、平和主義的な方々は、米軍基地にもノー、自衛隊海外派兵にもノーと言われるが、それでは、米国グループの一員には留まれない。それでは、前にも述べた通り、非武装・完全無抵抗か、スイスを10倍位にしたような独立軍事国家のどちらかを目指すしかなくなってしまう。米国との同盟という現実的選択をした場合、基地か、自衛隊の派兵か、どちらかを選ぶしかない。その場合は、基地を選び、自衛隊の海外派兵は絶対しない道を選ぶべきだと言っているのだ。もし、基地が嫌なら、9条を改定してでも海外で米軍にどこまでも着いていくしかなくなるのだ。

笑い 以上が国防の素人のNatが今思っていることだ。よりベターな道があれば教えて欲しいと思う。 にっこり Nat

日本をどう守るのか? その1

笑顔 米軍基地のことを色々書いたが、「結局、日本をどう守るのか?」という根本的な問題について、自分の意見を含めて、まだこのブログでも掘り下げが不足かと思った。そこで、ちょっとしつこいが、最後に付け足しで大事なことを書かせてもらう。それは「日本をどう守るのか?」についての私の現状での試案だ。それをまず選択肢ごとに吟味する。

1.徹底非武装・完全無抵抗主義: すいません

これは人類の理想、究極の目標である。しかし、その途中にある現在において、これは国家政策ではあり得ない。しかし、重要な思想として常に心の中に入れておきたい。

2.単独・独力での自衛体制: 力こぶ

  平和主義的な方の多くが、日米安保同盟廃止、米軍基地も無くし、どこの国とも軍事同盟は結ばす、自衛隊も最小限に留め、極力外交努力で紛争解決する国になりたいと言われる。しかし果たして、本当にそういうことが成り立つのであろうか。

 (1)最小限の自衛部隊: 
外交努力で頑張れば、兵力は最小限で済むのか? そもそも、どこの国の(自衛)軍隊も、最大限の外交努力を前提にしているのであって、実務論的には、外交努力するからといって適正武力規模が減ったりはしない。そこで言うが、最小限の申し訳程度の兵力は、全く持ってない場合より却って危険であり得る。完全に丸腰の国に対して武力行使した場合は、どう転んでも攻めた方は正当防衛にはならず、国連でただちに侵略と断定される。しかし、下手に中途半端な兵力があるとどうか。相手はまず小競り合いを発生させ、「日本が先に撃ったので応戦した」というような形で武力行使するものである。勿論、あっという間に日本はやられてしまう。同盟関係を切った米国の応援もない。国連のアクションはもしあっても大変遅い。という訳で、最小限の兵力を持つくらいなら、完全丸腰の方がまだましである。

 (2)独力で防衛する体制:
    そこで、次は完全中立の独力防衛だが、そうなるとスイスが想起される。スイスは国民皆兵制度、そして強力な国内の武器・兵器産業がある。山国であるが、食料自給率も60%にまで高めてきており、有事には土地の農地利用転換制度などの仕組みも持つ。要するに、いざとなると徹底して自力で戦う強烈な国民の意識と国家体系があるのだ。日本の場合、スイスのような小国ではなく、極東の大国である。それが、現在世界最大の軍事的脅威の中国の真横にいるのだ。だから、日本が単独・独力で必要とする自衛兵力体制はスイスの比ではない。たとえ純粋に自衛のみの軍隊であっても、米軍基地を追い出した後に、強大な日本国軍を設置する必要があろう。これは、今は日本の国民性からしても、またアジア地域の他国との関係上もあり得ない。
  
3.他国グループとの軍事同盟路線: ラブラブ

以上の通り、どことも同盟を組まないで、単独・独立の自衛体制で頑張るのは、一定の規模以上の国のポジションの場合、最早あり得ない。だから、韓国もタイも豪州も、米国との軍事同盟を結んでいる。日本としても何処のグループと軍事同盟を組むしかない。それも、中国やロシアと組む方がベターと思わない限り、現実には米国と組む以外のチョイスはないのだ。但し、米国が明らかに悪魔的国家であれば、いかに強くても米国と組む道は選ぶべきではなかろう。しかし、米国は世界最大の“正義の味方”の面を持つ。そして同時に、国内政治と国民性に由来する傲慢性とダブルスタンダード(例:対イスラエル vs. 対イスラム)という面も持つ。だから、グレーなことは多いが、白黒的な価値判断として米国を「悪」と決め付けるのは難しい。そこで日本・韓国・豪州・タイ・フィリピン、皆、時々“ボス・リーダー”の米国に言いたいこともあるが、概ね「よし」として付き従ってきているのだ。
現実的な選択として、現状ではこれしかない。そこで、次は米国との同盟下での日本のあり方の選択肢の問題になる。

 (1)米国に完全依存しっぱなし: 
自衛隊も廃止し、日本自身は丸腰になり、防衛は米国或いは他の同盟国に完全依存する手はどうだろう。これは楽チンであり、憲法9条にもぴったりだが、肝心の米国が、そんなことはゴメンだと言っているのだから、全く成り立たない。また、もし米国の気が変わって捨てられたら、本当に丸腰になる。だから、これはペケ。

(2)最小限の自衛組織だけ持つ:
 1950年ごろはこれが考え方だったが、今や、米国が長年掛けて「基本的に自分のことは自分で守れる体制は持ってくれないと困る」と言って、その方向にしてきたのだから、今さら米国は日本をここに戻させてくれない。また気休め程度の兵力を持っているのは、いざと言う時、却って危ないことは既に延べた通りで、日本自身の選択としても、これは危ない。

(3)米国のグループに属しつつも、自衛兵力はきちんと持つ: 
結局、現実にはこれしかない。自衛隊の兵力は、今のところ、実際に使ったことのないものだから実際役に立つかは分からない。しかし、だからといってどこかで使ってみて鍛える必要はない。出来る範囲での演習しかしない自衛隊でも、上記の(1)とか(2)よりは余程よい。

笑い 以上の通り、結論は、米国グループの一員として、一方で自力防衛の体制もしっかり持つ。これに行き着くのである。しかし、それでは、これまでの日本の現政権の政策と同じではないかと思うだろうが、ここから、私の思う所があるので、次回、その2で述べる。 にっこり Nat
    
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