♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2007年09月

ラーメンはなぜうまい?

ラーメン 私はとにかくラーメンが好きだ。と言うと、良く「どこかお勧めのお店ありますか?」と皆に聞かれるが、そういうものは全くない。別にマニアックにラーメン店を調べているわけではない。どこのラーメン屋でも、そこそこ美味しいと思う。とにかくラーメンというものが好きなだけだ。そこで、今回は、なぜラーメンというものが、かくも美味しいのか?或いは、少なくとも、我々日本人は何故ラーメンを特に美味しいと思うのか?この点につき、多分全く偏った理解を述べたい。違う点があれば、ぜひコメントで教えてほしい。

ラーメン ラーメンは「中華そば」とも言われる。そこで、まず中国の麺料理を考えてみる。みな御存知の通り、イタリアのスパゲッティ等の麺、日本のそば・うどん、全て源流は中国の麺だ。基本的には小麦粉を麺状にしたもので今や世界中にある。本家の中国の麺料理でも、いわゆる焼そば的なものもあるが、ラーメンを考える上で重要なのは、汁そば等の「茹で麺」形態だろう。中国の「茹で麺」の食べ方で一番庶民的なのは、多分茹でた麺に若干の青菜と具を載せて味噌をまぶしてぐちゃぐちゃと混ぜて食べるものではないか。これは、日本のラーメンとは大分違う。日本でも坦坦麺とか言って、辛子味噌味のひき肉をまぶすのがあるが、あれはラーメンとは違う。

ラーメン しかし中国でもラーメンに近いスープ麺は色々ある。中国では、鶏、豚、貝柱、干しエビ辺りからダシを取り、塩味を加えて、日本で言うタン麺の塩味スープに近いクリアなスープを作るのが基本だろう。これが日本のそば、うどん、そしてラーメンの原型だ。何時の時代か良くは調べていないが、恐らく江戸時代に、スープ麺という概念が日本に伝わった。日本では、そば・うどんという形でこれを発展させる。

ラーメン 本家の中国のスープ麺と比べて、そば・うどんの特徴は、まず日本人は麺の食感にこだわったことだろう。中国のスープ麺は、庶民料理の場合でも比較的「具」も多く、その分、麺の役割は相対的になる。だから中国の麺は、ぱさぱさ・ぼろぼろ麺だ。一方、日本では、それこそ、ご飯に梅干を載せて食べる民族だから、麺も、とにかく麺そのものを中心に食べる文化を育んだ。具の少ない分、「すうどん」・「かけそば」等で麺の食感にこだわったのである。これがラーメンにもつながっており、日本のラーメンは、つるつるとした滑らかな食感を厳しく追求している。これが、そば、うどんで鍛えた日本の「麺道」の延長線にある「ラーメンの特徴その1」である。

ラーメン 次にスープ。先に述べた通り、本家中国のスープは、鶏、豚、貝柱、干しエビ辺りからダシを取る。一方、日本のそば・うどんは、昆布、鰹節、煮干、干ししいたけを中心にしたダシで勝負した。日本で手に入りやすいダシの元に頼ったのである。西洋においては、そもそもダシという概念が乏しい中、日本では中国のダシという素晴らしい考えをを受け継ぎながらも、日本的な素材で日本のダシというものを発展させた。この日本のダシに、醤油という、これまた日本人のベイシックになった塩味系の調味料を加えたのが、日本のそば・うどんの汁だ。ラーメンの場合は、このそば・うどんの伝統と、中国のダシの素(鶏、豚、貝柱、干しエビ)の発想を柔軟に併せて、世の中でダシの素として美味いものは何でも総動員する方法を採ったのだ。店によって違うが、日本のダシの素、中国のダシの素に加えて、野菜からのダシも加え、何でもいい、美味いダシの素なら何でも検討するという姿勢で作られているのがラーメンのダシだ。要するに、中国発のダシという発想が、日本のダシに変身し、そして更にもう一度中国のダシの源流への復帰、プラス更に新しいダシ素材も追加する形で、まさに日本のラーメンにおいて、人類はダシというものを極めたのである。そして、これに塩味としては、醤油でも塩でもどちらでも良いという柔軟性を持った。ということで、こと「スープ道」に関しては、日本のラーメンが、ダシと塩味の組み合わせのバラエティーにおいて人類の最高点に達したといえるのではないか。これが「ラーメンの特徴その2」だ。

ラーメン 以上の通り、人類最高のスープ、その中に、多分食感という点でも人類最高レベルに高めた日本のラーメンの麺、これを合わせたものがラーメンなのだ。人類文化の最高傑作ともいえる。それがラーメンだ。一度海外に住んでみるがよい。日本のように、どこに行ってもラーメン屋があるという人類最上の幸せが、他国においては得られないことに気がつくはずだ。逆にいうと、日本に住んでいるということの重大な意味は、人類最上の料理形態であるラーメンにいつでもどこでも触れることが出来るということだと思う。

笑い だから、私は、特定の店にこだわらない。どこのラーメン屋も、人類最上のレベルで、その店なりの提案を提供してくれていると思う。だから、どこのラーメン屋でも、私はとにかくラーメンを食べるのが至上の喜びである。 Nat

死んだらどうなる? その5

笑顔 この「死んだらどうなる?」シリーズは、前回の「その4」で当面は完了のつもりだった。ところが、なんと昨晩、私の古い友人が臨死体験をしていたことを知った。そこで興奮して、この「その5」を付け加えることにした。

車 彼とは久しぶりに会ったので、色々話を聞いたのだが、その中で彼は驚くべき話を始めた。暫く前に彼は一度ほとんど死んだという。駐車場で車を動かしていた彼は運転を誤り、大変なスピードで壁に激突したらしい。その瞬間、視界が超スローの画像のようになって、車のフロントガラスが粉々に砕けて飛散するのが実にゆっくりと感じられ、一つ一つのガラスのかけらが空中を飛ぶのまで見えたそうだ。その時彼は、自分は死ぬと分かったという。その後、駐車場の天井の辺りに自分は浮かんでいて、ぐしゃぐしゃにつぶれた自分の車に人が群がっているのが見えた。自分自身の姿は見えなかったらしいが。

日の出 そして、その後、彼はサーモンピンク色の世界に移る。そして、斜め上方向から親しかった人の笑顔が次から次へと出てきたという。そこで、その場面は終わり、ふと気がつくと病院に担ぎ込まれていたのだそうだ。そして、彼は、他の多くの臨死体験者が皆そういうように、死んだらどうなるか、もう分かったという。また、それ以降は自分の人生が少し違って見えてきたという。何かいつも、自分を客観的に見ることが出来るようになったらしい。


本 これまで、私は臨死体験の本は何冊か読んだ。特に有名なE・キューブラー・ロス博士の著作は印象深く覚えている。しかし、なにぶん本に書かれたことであって、書いているロス博士も私としては知らない人だ。だからどこまでが本当のことか分からなかった。ところが、私としては、初めて自分の知っている人が臨死体験をして、その体験を生々しく語ってくれたわけだ。割れたフロントガラスの破片のこと、壊れた車の上に浮かんでそれを見ていた自分、そして、サーモンピンク色の世界と親しい人の顔。全てリアルな体験として語られた。もちろん、ここまで聞いても、それらが全て、死に瀕したときの脳の特殊な機能から生じる幻覚と主張する人がいれば、本人も含めてそれを完全に否定しきれることはないだろう。

幽霊 しかし、それでも、「たましい」が肉体に宿る、そして、死と共に肉体を離れる、この仮説は、やはり有力なものだろう。まだまだ科学的には立証できていない。しかし、臨死体験を語る多くの人たちの証言が、一つの有力な状況証拠を提供していると思う。私の友人の証言は、私にとって貴重な状況証拠となった。    Nat

死んだらどうなる?  その4

幽霊 死んで、たましいが肉体を離脱した後、どうなるか? 前にも書いたが、臨死体験(一度心臓が停止したが生き返った時の体験)をした人の無数の報告がある。多くは、まず暗いトンネルのような所に落ちて行き、そこを通過すると明るいお花畑のような所に出るという。その先で、神のような神々しい存在に会ったという人もいるし、懐かしい死んだ親が向こうの方にいたという人もいる。彼らに「まだここに来ないで戻れ」と言われたと感じた人もいる。また、何か恐ろしい地獄のようなものが先に見えたという話もある。皆、その瞬間に現世に引き戻されて、蘇生している。科学者の中には、このような体験は、死に直面した時に最後に脳内に出る特別の物質の働きで幻覚が生じ、皆それぞれが信じている死後の世界へのイメージがそこで出てくるだけと説明する人もいる。しかし、本当かどうか知らないが、たましいが抜けて浮いている時に、病院の窓の所に運動靴が置いてあるのが見えて、息を吹き返した後、それを聞いた看護婦さんが窓の外を調べると、本当に運動靴があったので皆驚いたという報告もある。幻覚とも言い切れない。

本 前に書いたが、坂本政道さんの著作「死後体験」シリーズでは、もっと驚くことが色々書いてある。米国のモンロー研究所方式のテープを聴いていると、変性意識状態になり、たましいが体を抜けて、宇宙や、霊界に飛ぶ。坂本氏は毎回の体験を詳しくリアルに記述している。臨死体験と重なるものもある。興味深いのはいわゆる守護霊のようなもの、本ではハイヤーセルフ(より高い自分)と書かれているが、それに会い、それに導かれること。そして、更にその上の世界に行くと、無限の愛の存在に出会っているということだ。また、宇宙の多くの他生命体にも出会い交流している。このような体験こそが、死後に広がる世界だという。

日の出 人類は大昔から、死後には極楽浄土や天国のような世界、あるいは地獄のような世界があるのではと想像してきた。恐らく、チベットの修行僧など、高度の訓練で変性意識に達し、たましいの飛躍を体験した古代の人達が死後の世界を探求し、それを人類に伝えてきたのだろう。それが、人間の罪の意識と重なり、天国・地獄というような死後の世界観を生んできたのだろう。

学校 しかし科学の世界では、変性意識に対する認知も研究も進まない。だから、私たちの時代では、死後の世界が科学的に解明されないまま死を迎えることになると思う。結局、死んでみないと分からない。だから、考えると怖くなったりする。しかし、坂本氏の言う絶対的愛の存在、それをもし「神」と呼んでよいなら、生きている間から、そのような神としっかりつながっていることが出来れば安心だ。善行を重ねることでそれが出来ると信じる人も多い。しかし、私はあの2000年前のイエスが自らの命を十字架に捧げて証しした神の愛ハートを信じたい。ただただ、そのような神の愛を信じきって生きることで、しっかり神とつながり、その絆は、死んで切れることはない。こう信じて生き、信じて死ぬ。そうなると、死んだ後に、その神が私のたましいをどこに連れて行って下さるかは、もう神様にお任せ。楽しみにして死ねばいいだけとなる。

はてな 死んだらどうなる? このテーマで4回に亘って書いてきた。結局、答えは「分からない」だ。しかし最後に書いたとおり、「分からないままでいい。任せられるものがあるから。」と言える生き方があり得ると思う。少なくとも私はそういう生き方を見つけられて良かったと思う。皆さんは、どうでしょう? Nat 

死んだらどうなる? その3

笑顔 前回のその2で、死んだらたましいが肉体を離れるという仮説は、状況証拠からは結構有力な仮説であると述べた。これを前提にすると、次に気になるのは、肉体を離れたたましいであるあなたの意識は、肉体を離れた後どこに行ってどういう感じになるのかだろう。
この「死んだらどうなる?」の記事を読みに来た人は要するにそこの所を知りたいのだろうと思う。

赤ちゃん まず、前世の記憶のこと。あなたは、前世は別の人の肉体に宿っていて、それでその肉体の死と共にその肉体を離れ、丁度その時お母さんのおなかの中で妊娠していた今のあなたの受精卵に移ってきたかもしれない。しかし、前世の記憶は多分あなたにはない。前に言ったように、どこにもその記憶がないのではなく、あなたの意識の奥の方の別のメモリーの中に隠されているだけかも知れない。それでも、問題は、通常の状態では、前の人の意識は、今のあなたの意識に連続していないということだ。とすると、もし、あなたが今回死んで、また次に誰かの肉体に移った場合には、今のあなたの意識は消えてしまい、あるいは隠されてしまい、次の人として、また一から始まるだけかも知れない。これでは、結局、あなたの今の意識は死んで「無」になるのと変わりない。

落ち込み このように、たましいが肉体を転々と移るだけのパターンのことを、あの仏教の始祖であるお釈迦様は、まさに命の悲惨な型と考えた。人生は苦しい。何度生まれ変わっても、その苦しい人生を繰り返すのなら、永遠の拷問のようなものだ、と彼は考えた。私は、そこまで人生が苦しみとまでは言ってないが、毎回、意識が振り出しに戻るのでは、つまらないと思う。いずれにせよ、お釈迦様の考えでも、私の考えでも、次も人間に生まれてしまうなら、あまり面白くないことになる。そこで、お釈迦様は、この永遠の拷問のようなサイクルからの離脱を考えたのである。肉体が死んで、たましいが別の人間の肉体に平行移動するのではなく、人間よりも高いレベルに移れればということだ。その為に、お釈迦様の考えたことは、生きている間に、たましいが、この世のしがらみから「解脱」する修行をしておく。そうすると、確実に、次には高い次元のたましいレベルに進歩できるというわけだ。

日の出 例の坂本政道氏が米国のモンロー研究所方式で、たましいの飛躍を経験しているのも、それに似ている。モンロー研究所のやり方でたましいの離脱を経験する場合、それで他人の肉体に移るということはない。必ず、別次元の世界に飛んでいる。そして、その場合は、今のあなたの意識がそのまま飛ぶ。とすると、もし、お釈迦様の修行による解脱か、モンロー研究所方式で飛べるように練習しておくと、実際に死んだ時に、高いレベルの方に、あなたの今の意識のまま移れるということとも思える。

笑い それで、次の高いレベルに行くと、そこはどんな世界なのであろうか? ここからまた続き。 Nat

死んだらどうなる? その2

笑顔 その1で書いた通り、命のある生き物の意識は人工知能の思考とは異なり、脳神経の生理的機能が停止しても即それで意識も終わりかどうかは分からない。

OK では、このような生き物の意識について、未だ全く検証されてない仮説だが、私の思っていることを述べてみよう。恐らく命が誕生する時に、いわば「たましい」のようなものが、その肉体に宿る。たましいはそれ自体ではこの世の物質に対して作用できないので、肉体に宿る必要がある。特に重要なのは脳と、目や耳などだ。宿った肉体の目や耳で取り込む情報を脳で処理し、それに基づき肉体を通して外界に対して働きかける。これがあって初めて、たましいはこの世で振舞うことが出来る。これはパソコン(肉体)にソフトウェア(たましい)をインストールするのに似ている。

幽霊 このようなたましいについては、現在の物質の科学ではまだ把握できていない。そこで“状況証拠”的なものを探すことになる。良くテレビなどでもやっているが、死んだ人の霊が人に憑依することがある。霊媒の人が死霊を呼び込んで、自分の肉体を通して語らせるなどという現象もある。これらが、たましいが肉体に宿ることの状況証拠の一つだ。

月 一方、そうやって生きていた人が死ぬとどうなるか?肉体が機能を停止する時に、たましいは肉体を抜ける仕組みになっている可能性があると思う。たましいが肉体を離れることの状況証拠として、死の瞬間に体重が微小ながら減ることを測定した実験もあるが、信憑性は分からない。たましいが物質ではないにしろ、僅かな重量を持っている可能性は否定できないだろう。更に、いわゆる臨死体験という大きな分野がある。要するに一旦心肺が停止したが、何かの拍子で息を吹き返した人の体験だ。研究した本が多数あるが、死ぬ瞬間に、自分が自分の体を離れ、病院の部屋の天井あたりから、自分の体に心臓マッサージをする医師や看護婦の姿を眺めていたといった体験が多数報告されている。

日の出 更にもう一つは、生きている間の、幽体離脱と言われる現象だ。幽体とはたましいのことのようだが、要はたましいが体を離れて、宇宙に飛んだり、霊界のようなところに行ってくる体験があるらしい。アメリカの女優のシャーリー・マックレーンがその体験で本を書いている。新約聖書に出てくるパウロも、その手紙の中で類似の体験のことを書いている。最近では、元ソニーの技術者であった坂本政道氏が、米国のモンロー研究所方式でたましいが離脱する体験を、「死後体験」シリーズの本で詳しく報告している。高いレベルにまで達すると、絶対愛のような、それこそ神のようなものにも出会うと言う。そういう体験を生きている間に何回もした彼は、もうこれで、死ぬ時のたましいの離脱のしかたは、今から完全に分かったと書いている。

笑い たましいの宿り、離脱の両方について、これだけ状況証拠になりそうなものがある。中にはニセモノもあろう。しかし、もしこれらの中にホンモノがあるとすれば、これらは強い状況証拠になろう。このように、私は仮説としては、たましいの宿り・離脱は有力であると思っている。もっと科学者にもまじめに研究してほしい。

にっこり 次回その3で、前世の記憶のことに触れ、死後のたましいの行き先を模索する。 Nat
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