♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2007年10月

信じる人、信じない人 その6

笑顔 ということで、私は「神」や「たましい」を信じる人だが、私の周りにも「信じない人」というか「簡単には信じられない」という人は多い。たましいはまだしも、「神」は特に信じにくいということのようだ。どういう思いからそうなるのだろうか? 他人の頭や心の中は必ずしも見通せないが、多分こういうことが多いのかなと推察されるパターンを書いてみたい。

ダメ 一つのパターンは、非常に慎重というか用心深いために、「信じる」などという、“いい加減な心の状態”に踏み切れないというものではないか。神が存在するという確実な証拠は全くないし、存在しそうだという「状況証拠」的なものすらも無い。あると信じる人も、一部の霊感に満ちた特別な人は例外として、普通は何かの体験や出会いから直感的にそう感じる・感じた、或いは自分の気持ちの問題として信じることに決めたということであって、それ以上のものはない。喩えで言うと、戦争に行った愛する人が戦地で生きているかどうかにつき確たる情報はないのに、「あの人はまだ生きていて、私のことを想ってくれている」と堅く信じているというのがある。神を信じるというのはそれに似ている。しかし、何事でも慎重にきちんと確認して生きてきている人であればあるほど、そういう根拠のないことに自分の人生を委ねることなど出来ないだろうと思う。

まるダメ 更に、そういう人が確認したくなる次の点は、神そのものがあるかどうかは直接確認できなくても、それを信じて祈った人に、果たしてその「効き目」があるのかどうかではないか。もし、効き目があるなら、存在は確認できなくても、信じる意味があるという訳だ。ところが、実はこれもすっきりしない。中には、懸命に祈った結果、自分のお母さんの病気が奇跡的に治ったなどという話もあるが、それは単なる偶然かも知れない。また、クリスチャンで祈り続けていた人が、若いのに癌で死んだなどと聞くと、祈りなんて効かないという感じにもなる。更に、私のようなクリスチャンに言わせると「そもそも神が人間のいいなりになるわけがない。神の愛は人間の思うことと次元が全然違うのだから。しかし神が我々の祈りをしっかり受けとめてくれていることだけは信じられる」等ということになるので、効き目の検証という意味では何が何だか分からなくなってしまう。

笑い ということで、疑っていて、俄かに信じられないという人には、何ら決定的な証拠も、効き目の検証も与えられない。それにも拘わらず、なぜか信じて生きている私のような人間が存在するという事実だけが残るのである。それで多分「人は人、自分は自分」と整理して終わりということになるのであろう。

にっこり これが、「信じる人」側の私から勝手に推量した「信じない人」の心の過程だ。一方、信じる人からすると、一つ、信じないで生きている人について、もはやしみじみとは理解できなくなったことがある。それについては次回。 Nat

信じる人、信じない人 その5

はてな その4で述べた私の「もう一人の誰か」とは誰か? 答えから言うと、聖書の中のイエスという人である。まあ神の子とも言われた人だから、多分、「父に加えて、もう一人の誰か」などという表現は順位が逆だろうが、意識の中では、その順に心に突き刺さってきた。

びっくり なんといっても牧師の息子で赤ちゃんの時から教会に行っていた私だから、子どもの頃の「イエスさま」は目に見えないけど、いつも私を守ってくれる菩薩さまのようなイメージだった。それがモノゴコロついて一旦教会を離れて、また戻った時にどうであったかというと、子どもの頃の菩薩さまイエスとはまた別の形で心に迫ってきたのであった。新約聖書の語るイエスは、とにかく多くの人間を根底から揺り動かし、新しい人間に変えている。毎日岸辺で漁をしているだけであった無学なペテロ。税金徴収兼ピン撥ね業のボスで、心のすさんでいたザアカイ。心も体も穢れてしまっていた罪の女マグダラのマリア。イエスの隣の十字架に張り付けにされていた一人の死刑囚。そしてイエスの復活の後に今度こそ決定的に突き動かされた弟子たち。幻の中で復活のイエスに劇的に出会うパウロ。みな、イエスという人との出会いで、それまでの生き方を根底から揺り動かされて、新しい人間に生まれ変わっている。それほど、人を揺り動かしたイエスのエネルギー・パワーはどこから来たのか?イエスに会い、自分を根底から変えられた人たちは皆、イエスのパワーは、「神の一人ひとりへの愛」が形となり、ほとばしり出たものだと強く感じたのである。

本 そのように感じた人たちが、感じたことを書き記したのが新約聖書だ。新約聖書は、イエスの愛のパワーの書物なのである。再び教会に戻った私が再発見したイエスは、私の菩薩さまでもあったが、それよりも、2000年前の人たちを揺り動かした愛のパワーの人であった。そして、その愛のパワーが、今もいささかも減衰することなく、心でイエスに出会う人に伝えられている。私は、この愛のパワーに出会ったわけである。

笑い 私が何故一旦捨てかけたものを取り戻し、今信じて生きる人になったかというのは、このように、目の前のいのちの不思議さ・尊さに動かされたこと、父の死に動かされたこと、そして最も根底的には、イエスの愛のパワーに動かされたからである。これらのどれに出会っても、特に動かされないという人もいるだろう。前に書いた通り、同じ音楽を聴いても、感動する人としない人がいる。それと同じだろう。人を信じる人に変えるものでも、人によっては、「つまらない音楽」と同じで、とるに足らないものかも知れない。私の場合は、なぜか結果的に、それに突き動かされた。そして、そのことは私にはとても幸いなことだったと思っている。 次回、もう一度、信じない人の立場になってみて一言。 Nat

信じる人、信じない人 その4

笑顔 私の場合は、目の前の犬などの「いのち」以外にも、信じる背景となっていることがある。他の多くの信じる人もそうだろうが、信じて生きている誰かとの出会いが、自分も信じるきっかけになったという人は多い。

笑い 私の出会った「誰か」だが、まず父親である。父とは40歳以上も年が離れていたので、友達のような父子ということもなかったが、結局大きな影響を受けたと思う。父は大学の教授をしていたが、思う所あり、40歳過ぎてからいわば“ボランティア”として教会の牧師になった。平日は大学で教え、日曜になると自分の作った教会で牧師の役割をした。大体、教師の子とか牧師の子はグレ易いというが、私のように教師兼牧師の子は、大変グレ易い。そこで、中学時代には父から洗礼を受けてクリスチャンになったのだが、段々モノゴコロが付いてくると“グレ”出す。目に見えない神さまだの、イエスさまだのアホラシイ。それより、この世には面白いものが山ほどある。そういうわけで、教会に行くのはもう止めて「信じない人」と同様の生活を10数年した。

悲しい ところが、その父が脳腫瘍で死に向かう。そのことが分かった時、何故だろう。不思議な衝動が私を襲った。父のようにクソまじめに神さま・イエスさま等と言っているのはアホラシイと、多少とも反発していたのだが、その父がこの世からいなくなると決まれば、急にそれが変わる。教会に戻らないと自分という人間はダメになってしまう。突然そう強く感じた。それで驚く妻を強引に誘って突然近所の教会に通い始めたのである。以来、結局、別の教会だが、今行っている教会の役員にまでなり、今日に至るのだ。牧師になった父と出会い、反発し、そしてその父の死に接し、またゴムボールが跳ね返るように教会に戻ったのだから、なんと言おうが、悔しかろうが、全てが父の影響であったことは間違いない。信じて生きた人生を今終えようとしている父を前にして、その父が一生かけて信じ抜こうとしたものを「アホラシイ」と切り捨てることは、私にはもはやとても出来なかった。むしろ、一生をそれにかけたことの重さが、私にどっしりと覆いかぶさって来ていた。私は、その重さに突き動かされたのである。

笑顔 このように、誰か信じて生きる他人の生きざま、あるいは死にざまが、どっしりとした重さで、それに接する人の心や生き方に大きく影響することが良くある。それは現実に出会う「誰か」かも知れない。あるいは、三浦綾子さんの本を読んだなどで、著作を通じて著者の信じた生き方に接して、自分も信じたという人もいるだろう。

びっくり ところが、私の場合、父とは別にもう一人。書物の中の人だが、結局その人の強烈な影響を受けたという人がいる。それを次回に。 Nat

信じる人、信じない人 その3

笑顔 信じない人からすると、信じる人が、何の証拠もないのに、目にも見えない神とかたましいとかを信じるということが分からない。それは、信じる人が信じるのは、頭で理解したり認知したのではなく、なんらかの体験や出会いの中で「感じた」ものだから、他の人にはなかなか分からないからだ。例えば、自分が見ていない映画や音楽に接した友人が「感動した」「人生観が変わるくらいだった」などと話してくれても、見たことのない映画や、聞いたことのない音楽の感動は、全く人には分からないのと似ている。しかも、言われてその映画をわざわざ観てみたが、そんなに特別な感動はなかったなどということもある。

日の出 神やたましいを信じるようになった体験や出会いは、人によって様々だ。信じる他の人との出会いがそれになることもある。自分が死に掛けた体験で、そうなる人は結構多い。また肉親や友の死に接して、深い思いを持つようになった人もいる。ある文学作品との感動的出会いがきっかけになる人もいる。場合によっては、音楽、例えばバッハのマタイ受難曲を聞いてバッハの信仰を聞いたという人もいる。深い山の中で霊気を感じたなどという人もいる。似たような体験としては、瞑想体験もある。実に様々だ。

にっこり 私の場合はどうか。実は私も、特に若い頃は、信じる・信じないの境界線を何度も行ったり来たりした。一旦信じたような気になっても、物質的なこの世に意識が戻ると、「それは単に思い込み?!マインド・コントロール?」という感じなる。しかし若い頃からの「この世には物質しかないのか?物質が偶然の法則で推移しているだけか?」との深い懐疑を打ち破ったものは何か?

猫 まずそれは生き物の命だった。生き物の命が物質の仕組みとしてはどうなっているかということに関心を持ち、そもそも理科系だった私は分子生物学の本は色々読んだ。DNAやらミトコンドリアのことを幾ら理解しても、それは生命の物質的仕組みで「生命そのもの」を説明はしていなかった。そこで、地球における最初の生命の誕生、その後の進化につき、無数の本や理論を吸収した。しかし、前に詳しくこのブログでも書いたとおり、生物を物質の原理だけで説明しようとすればするほど謎が深まることが分かった。私はそういう精神の遍歴を経た後、単純な感受性に戻った。目の前にいる犬や小動物を手にとって見て接していると、どうしてもそれが物質で出来た成功なロボットのようなものとは思えない。物質としてはDNA・細胞のかたまりではあるが、そこに宿った、紛れもない「いのち」があるとしか思えなかったのだ。「いのち」があるのなら、「いのち」の源(神)があるに違いない。また物質として終わった後にも「いのち」の移っていく世界(たましいの世界)があってもおかしくはない。そのような直感が強く私の精神を支配するようになったのだ。妙なのだが、人間はぺらぺらと言葉をしゃべるので、却って「いのち」であると思って見つめる前に、うるさくしゃべる人間とかいったイメージが先に立つ。しかし、物言わぬ犬などを撫でていると、その犬が単に物体とはとても思えない。絶対に、どこからか「いのち」が与えられ、どこかに帰っていく「いのち」であると、しみじみ思うようになった。これが、やっぱりこの世界の奥底には、神とたましいの世界があると信じて生きるようになった大きな背景の一つ目だ。

OK でもこれだけではない。それを次回に。  Nat

信じる人、信じない人 その2

まず「信じない人」に口火を切ってもらおう。

信じない人ダメ曰く:
『昔の人は、雷や地震などが神の業と思ったかもしれないけれど、今やそれの仕組みは全部科学的に解明されてしまったよ。神や霊があると思うのは素敵だろうが、もうその証拠としての雷や地震は証拠でなくなった。この世のどこに神の証拠がある?残念ながら、結局、物しかないよ。物のどこを裏返しても神などいない。また霊は、人間が死んだ後も残るものとしてもし本当にあればいいが、肉体の脳が死んだあと、ふわふわと漂うような霊がどうやって存在し得るの? 霊って物質? 物質なら、なぜ補足されないの? 物質でないとすると、物質でないものが、どうやって意識を持つの? そんなことは科学的にあり得ない。人間の、はかない願望だよ。』

信じる人で、ちょっと“科学的な人”まる曰く:
『確かに、科学を知った現代の我々にとって、雷も人知を超えたものじゃなく、蛍光灯と同じく電気の作用と理解しているよ。それでも、雷がどこに落ちるか、蛍光灯がいつ切れるか、科学は「“偶然”そこに落ちた」、「“偶然”今切れた」としか言えないでしょ。“偶然”を支配する“何か”があるかどうかは、科学を超えた人間の想いの世界だと思う。また、霊は、確かに生きている間は、意識が脳神経の働きによって支えられているのはその通りだけど、死んで脳が機能停止した後に、意識がまた別の形に移るかどうかについては、脳神経を幾ら分析しても全く分からないよ。別次元の話だから。』

信じない人ダメ  『何?別次元って。どうして、そういう風に物質の向こうに何か知らないものがある、死んだ後に何か知らない世界があるって思うの? 何を根拠に?』

信じる人 まる 『人類は、昔から、直感というか、第六感で、そういう世界のあることを感じてきたと思うんだよ。そして、中には特別に霊感の鋭い人がいて、そういう世界に通じて、普通の人に対する手引きをしてきた。そう人たちが人類の歴史上の色々な文化・文明・宗教に多く登場していると思う。』

信じない人ダメ 『現代でも超能力とか言われる人は、調べてみたら、結構イカサマだったりしたじゃない。』

信じる人まる 『イカサマもいれば、ホンモノもいるんじゃない。 君は、自分の親とかが死んだら、もうたましいも何もなくなり永遠に消滅したと思っているの?』

信じない人ダメ 『だから言った通りさあ、僕だって死んだ人のたましいが消滅しないでどこかにいればいいと思うよ。でも、そういう人間の願いが、あの世とか、たましいというような、空想の世界を生んだんじゃない。科学的に把握できる物質の世界の向こうに、知らない世界があるってのは、夢としてはいいけど、残念ながら夢だよ。現実には物質の世界でしかないよ。でもそういう、はかない命だからこそ、生きている間だけの命を大切に生きるのさ。』

信じる人まる 『この世は、あの世で天国に行くための準備期間とかいった教えは、この世に苦しい奴隷なんかが多かった時代には、慰めでそういうこと言ったかもしれないけど、それは多分違うよ。次の世があっても、今の命が大切なのは君と同じだよ。でも、今のこの命が、はかなく消滅するだけのものじゃなくて、根っこで永遠のものと繋がっていると信じて生きるのと、そうじゃないとのじゃ、だいぶ違ってくるよ。』

信じない人ダメ 『どうも、そういう「次の世」とか、「永遠のもの」とか、文学的、少女趣味的で、僕はいやだな。』

このように、こういう議論は、もし上記のように冷静に出来ても、結構永遠の平行線で、差は埋まらないと思われる。この差は何のなのか? それを次回に。Nat
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