♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)
生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等
2008年07月
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2008年07月31日
23:44
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「パワー・オブ・ナウ」というスピリチュアルな本 その7
過去と未来を詮索するマインドと、やたらと否定的な感情を乱発するエゴのため、人は「悲劇の主人公」状態の呪縛に陥る。このような不必要に不幸な人生からの解放されるため「パワー・オブ・ナウ」の著者は、体と心の奥底にある「本当の自分自身」、神に繋がる永遠の自分自身に覚醒することを説く。しかし、前にも書いたとおり、私には、そもそもそのようなお釈迦様的な悟りの境地に至れるという気がしない。というと、「瞑想してそのような境地を模索してみようともしないで、何を言う?!」と怒られそうだが、瞑想を通じた自己覚醒は、正直言って趣味じゃない。
確かに自分の中の奥底にも、神的な高次元の自己(つまり命の大元のようなもの)が存在しているかも知れないとは思う。しかし私にとっては、自分の中でなくても、そもそもこの宇宙全体に神的なもの、神の愛が満ちていると思っているわけだ。だから、自分の中に限らず、至る所にあふれる神の愛を感じ、受けとめることで十分と思うのだ。
それでも人に言わせると、私の言う「あふれる神の愛」も分かりにくいという。瞑想も難しいが、神の愛もぴんと来ないということだろう。この世は物質のみ、そう決め込むと、「本当の自分自身」も、神の愛も、両方ともそんなものは最初からないということになる。しかし、私は聖書の指し示すことを信じてみたり、疑ってみたり、そして又見直してみたりという人生遍歴の結果、結局、この世には神の愛があふれているという実感に到達した。私自身の右目が障害でも、この世に不条理が満ちているように見えても、愛はあふれているのだ。旧約聖書を書き綴った人たちの感じた神の愛。イエスという人がその生き様を通じて、そして十字架において証しした神の愛。それは、もう紛れもなく、この私にも、私の目の前の人にも、道端に生える草にも、空を飛ぶ鳥にも豊かに注がれている。明るい光のように。そう感じる。
そういう愛を感じると、「パワー・オブ・ナウ」の著者が説くことにも自然に近づくのだと思う。いかにマインドが過ぎ去った過去の嫌な出来事をしつこく思い出させようとしても、私には、今(ナウ)のこの瞬間に「私は神の愛の只中にある」という思いが強いので、過去は私には殆どパワーを持たない。まさに今(ナウ)のパワーが私にある。今(ナウ)が満たされていることに気づくと、過去に嫌なことがあっても中々思い出せないのだ。また、私の行く末の未来は、もう全部愛の神さまにお任せだから、必要な実務的思考や準備以外の「憂慮」はほぼゼロになる。
混み合った通勤電車の中で、知らないオッサンが私を強く押す。一瞬、私の中のエゴが怒りの感情を発する。しかし、次の瞬間、そのオッサンも神が創られた大切な命で、神が愛されている人なんだという思いが心に浮かぶと、エゴの発した感情は消える。私は全身麻酔する手術を数回した(特に目や喉)が、毎回特に恐怖や不安はなかった。どういう筋書き展開になろうと、私に対する神の愛に変わりはないと思うからだ。
このように「愛への確信」は、人をマインドとエゴの呪縛から解き放ち、著者の言う「本当の自分自身に目覚めた人生」へと導くと思う。愛への確信は別に強い思い込みでいい。所詮、実験や論理で実証できるものではないのだから。しかし、そのような思い込みの「愛への確信」が、著者も言う永遠の平安の人生に人を導くと思うのである。ということで、殆ど結論だが、次回あと一回だけ、はやりの「癒し」という言葉について一言。 Nat
2008年07月29日
21:30
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「パワー・オブ・ナウ」というスピリチュアルな本 その6
前回書いたように、私の思うに、感情は思考の副産物として進化し、恐怖のように行動開始への着火剤的な役割になっているものもあれば、悲しみのように役割的には中立なものもある。とすると、着火剤的な感情も、逃げるといった次の行動が開始されてしまえば、ずっと持続することの積極的意味は余りないはずだ。また、悲しみのような感情は、そもそも役割の特にない副産物であろう。とするとだ、感情を感じるということが、人間が他の動物とは違う人間らしい特徴であるとしても、特定の感情を心の中にずっと持続させるということに、積極的な役割や意味はないように思われる。ここで「パワー・オブ・ナウ」の本に戻る。
この本の著者にとっても同じだ。恐怖や悲しみ、怒りなどのいわゆる否定的な感情にしても、役割があるにしろほんの一瞬なのだから、それ以上心に留め置く意味はないと著者は考える。他方、肯定的な感じのする感情、快感、好きという気持ちなども、それが物であれ人であれ、その対象が自分にプラスの価値をもたらすことへの心の反応であって、対象次第で消える感情に過ぎない。対象が自分にプラスではないというふうになれば、直ぐ嫌悪に変節する感情だ。普遍的な役割はない。と著者は言う。
これに対し、愛、平安は絶対的な境地であるという。愛は対象を選ばない。とにかく絶対的に愛する。平安は永遠の状態である。両方、神的なものにつながる価値だ。著者の言うには、マインドがあれこれ過去のことを繰り返し考え、将来を懸念し、エゴが心を恐怖、憤慨、怒り、憎しみなどの感情にどっぷり浸してしまっている状態から、目を覚まし、自分の中に深くある「本来の自分自身」に目覚める。それにより、もはやエゴの感情の呪縛から解き放たれ、永遠的な愛と平安の心に生きることが出来るというわけだ。
ここで、繰り返しになるが、私としてはお釈迦様の悟りのような境地は、目指すべくもない気がするが、瞬間的に湧く感情については、常にそういう感情を観察する「もう一人の自分」を常に持つことで、感情が尾を引くことを防止できると思った次第だ。即ち、私から感情を消し去ったら人間でなくなるのでそんなことはゴメンだが、私を呪縛するような感情はもっとゴメンである。
と、かっこよく言ってみたが、1,2秒では感情がどうにも消えず、私の心の中でエゴがまさって、本来の自分を消し去り、感情を心の中にのさばらせようという局面も多い。著者のように、あるいは、お釈迦様のように、瞑想などの結果、覚醒の境地に達しているといいのだろう。しかし私のような普通の境地の人は、たびたびエゴに負けるのである。そして感情の呪縛に暫く囚われるのである。これをどうしたらいいのであろう。ここからはNat流の生き方の話しになる。それを次回。 Nat
2008年07月28日
22:37
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「パワー・オブ・ナウ」というスピリチュアルな本 その5
人間は、なぜ感情というものを得たのか?
その前に、一言。動物にも似たような情動というものあるのではという説はある。しかし、これは研究者も苦労するテーマで、結局、動物になってみないと分からないことのようだ。そこで、ここの仮定だが、少なくとも人間は明らかなる感情を持っている、しかも、瞬間的だけではなく持続的な強い感情を持つことが出来る唯一の存在であるとしよう。その上で、なぜか??だ。
進化で、ある形質が発生し拡がった場合、少なくともその形質は、生存競争にとってプラスか中立である筈だと考えられる。とすると果たして怒りや快感などの感情は、人間の生存にとり多少ともプラスなものとして発生してきたのであろうか。一つの仮説的学説だが、感情というのは、知能の判断と、身体とを結びつけるものという考えがある。恐怖を感じたとたんに、冷や汗が出たり、鼓動が早くなったりする。愛情を感じたとたんに、体からフェロモンみたいなものが湧き出て来る。といった具合だ。
オオカミが来たのが見えるとする。知能が「逃げるべき」と判断する。それと同時に、実際に逃げられるように身体のモードを「緊急避難モード」に切り替える必要がある。そこで、身体に「逃げる体制を!」というシグナルが行く、そのようなシグナルの行き渡るプロセスの感覚が「恐怖」という感情というわけだ。危険が迫り、走るように身体にシグナルが出るときに、心の中に「危険=怖い=逃げる」という“標準イメージ”が湧くようにプログラムされているということだ。それでもって、知能の判断が、身体の反応にスムーズに繋がる。これが、人間が進化で獲得した仕組みということか。動物はこれをもっと本能の世界でやっているのだろうが、人間は、知能の判断→心の中のイメージ→身体行動という仕組みでやるという説だ。
但し、この説は恐怖や怒りでは分かりやすいが、不安、悲しみなどになると分かりにくくなる。オオカミが来るかも知れないという状況の「不安感」は何なのだろう。恐怖感と共に逃げることになるかも知れないための、スタンバイの感覚だろうか。悲しみはもっと分からない。愛する子どもが死んだとする。深い悲しみが襲う。親は身体の力を失い、崩れ落ちたりする。同様に、失恋の際の悲しみも強い。要するに悲しみは「喪失」に対する心の反応だ。それがあると、どう人間の生存にプラスなのか?二度と悲しい状況になるまいと、次回からは努力することを促すのか? ということで、悲しみの「役割」はよく分からないのである。
これに対して、気持ちいいとか、好感とかの感情は、もっぱら、食べていいもの、飲んでいいものを選ぶのに繋がっているし、好ましい相手とセックスする際の知能判断と身体行為を繋げている。
このように、感情の中でも恐怖のように、知能の判断を身体の行動にスムーズに移すための潤滑油の役割として進化したと思えるものもある。一方、「悲しみ」のように、生存競争を有利に導くものとして進化して出来たとも思えないものもある。むしろ、そうなると感情は、本質的には人間の知能・思考の“副産物”として派生し、恐怖のように少しは身体行動へのシグナルとしてプラスの役割になっているもののあれば、悲しみのように役割的には中立だが、そのまま残ってきているというものものあるということではないか。
私としてはそう思うのだ。さてここから、私の頭の体操を一旦終え、「パワー・オブ・ナウ」の本に戻ることにしよう。 Nat
2008年07月27日
21:19
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「パワー・オブ・ナウ」というスピリチュアルな本 その4
なぜ、人間には感情があるのだろう? 著者も言う。自然界の動物で、ずっと憤慨している牛とか、最近気落ちしている鳥とか、いつもいらいらしているカエルとかいうのはまずいない。人間に飼われている動物に限っていうと、人間のエゴの影響でストレス状態になるのもいるようだが、それ以外の自然では動物は「あるがまま」である。しかし、人間は進化の過程で、あれこれ考察するマインドと、いちいち感情を発するエゴという仕組みを開発した。それは何のためで、それがどうやって今の人間の状態になっているのだろう。そういう疑問がわいてきた。いったん「パワー・オブ・ナウ」の本を離れて、私自身の思うことを書いてみよう。
あれこれ考えるマインドは、人間が進化で勝ち得た知能として理解できる。過去に起こったことを分析し、もう同じ間違いを起こさないよう将来の工夫につなげる。人間は、このような知能で、動物界における圧倒的なポジションを獲得してきた。しかし、私の分からないのはエゴの方、感情の方だ。オオカミが迫ってくる時、知能としてオオカミの危険性を認識し、オオカミからの逃げ方、オオカミとの戦い方を瞬時に判断する機能は重要であり、人間はもっぱらそれで勝負している。しかし、オオカミがこちらに向かってくる瞬間に感じる恐怖という感情は何なのか? 恐怖を感じると、無謀な戦いを選ばず、もっぱら逃げられるようになるというのか。しかし、下手に恐怖を感じるから、戦うべき時にも逃げてしまったり、逃げるのにも却って足がもつれてオオカミに食われるということもあり得る。恐怖は、この際、何の役割を持っているのだろう?
このように、感情は、知能の分析的な判断に対して、調味料的にそれを補助することもないではないが、冷静な判断の妨げになることの方が圧倒的に多いのではないか。それでも、人は感情というものを持つに至った。なぜだろう。
ここで恐怖や怒りなどの否定的な感情ではなく、愛情や快感といった肯定的な感情であれば、プラスの役割があるのでは?との意見があり得よう。確かに、夫婦などで努力して家庭を築くとき、知能の判断だけではなく、愛し合うからこその努力ということで、人は頑張り、我慢し、目標を達成する。素敵な家庭が出来上がると、快感もわく。前に感じた快感を思い出して、それをまた得ようと励む。このように、肯定的な感情は、人の努力にとりプラスの役割を持っているようにも思える。しかし、この本の著者に言わせると、そういう愛情や快感は、怒りや恐怖などの裏返しであり、また、自己防衛的なエゴの産物に過ぎないという。相手を愛するというのは、通常、その相手が自分に好ましいものをもたらすからである。それが途絶えると突然憎しみや憤りに変わる。本当の「愛」は相手を選ばない。そのままの相手を愛する。したがって、本当の愛には、憎しみという反対概念はないという。とすると、通常レベルの愛や快感は、条件つき、ご都合主義的、刹那的なもので、必ずしも人間にプラスをもたらすとは限らないということになる。
それでも、人間は進化の過程で「感情」というものを得た。なぜか? Nat
2008年07月26日
12:30
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「パワー・オブ・ナウ」というスピリチュアルな本 その3
もう一つ著者が薦めることがある。それは私でも非常に分かる。それは、ある出来事に触れて、心の中に発生する自分の感情を、直ぐその場で自分で見つめるということだ。実は私は小さいときから、そういうことをやる変な癖もあったのだが、この本を読んで、非常になるほどと思った。
著者は言う。部屋の中に静かに座っているとする。と、その時、外でけたたましいサイレンの音が鳴った。その瞬間、あなたは顔をしかめて、心の中で「何だ、あの音は!不快だ!!」というような感情を持たないだろうか。サイレンが鳴り止んでも、その不快感が暫く心を支配する。しかし、その不快という感情は、あなたにとって、何ら生産的なことをしない。何ら価値を生まない。単なる反射的な感情だ。静寂が戻ると、サイレンは過去のことだから、心にも静寂が戻るのが本来である。しかし、マインドとエゴに支配されてしまうと、いつまでも不快感が残り、更には「あのサイレンは何だったのか」などとマインドとエゴが言い出し、外に出ていってサイレンの元を探し出してウルサイと言おうとさえし始める。それも全て本当のあなたの知らない無意識のうちに。
それが、サイレンの音に対して「うるさい、不快だ」という感情が起こった瞬間に、「そう思っても、なんの意味もないのだよね」と自分で自分に言い聞かせる。そして「サイレンがなろうがなるまいが、ここにいる自分には変わりがない」などと更に次元の高いことも思ってみる。これなら、私にも出来そうだ。先日、会社で仕事していて、午後一番に重要書類の提出があった。ところが、そのための午前中の追い込み作業の只中で、パソコンが突然いかれた。その瞬間、頭は真っ白、全身は熱くなりあぶら汗が湧き出した。いわゆるパニック。しかし次の瞬間、パニック心理が自分に何ら意味のあるものをもたらさないことに気がついた。それで「うっふっふ。。俺って今、パニックしたりして。。パソコンを直せばいいんだもんね。それだけのこと。」と自分で自分に言い聞かせて修復作業を開始した。あぶら汗はすっと引いた。そして、思ったより早くパソコンは復旧した。まあ俗に言う「平常心」みたいなもんだが、この本のおかげで、より意識的に、マインドとエゴの餌食になるのから逃れることが出来た。
本の中にも出てくる、奥さんなんかとのやりとりのこともそうだ。相手が何か自分の癇にさわる発言をする。その瞬間に、自分のエゴはただちに自己防衛本能で感情的・反射的反撃を開始しようとする。そこで、「本当の私」である自分がエゴに言う。「よしなさい。」そして、エゴではなく「本当の私」として相手に言うべきコメントを言う。これでエゴ対エゴの“戦争”は回避される。必ずしも毎回、そうはいかないが、エゴにのさばらせないように気をつけると、大分違う。
ただ、この本にも書いてあるが、エゴを抑えようとして、別のエゴの登場になる例も多いようだ。つまり、「OK、あなたの勝ちにしましょう。こういう議論は馬鹿馬鹿しいから私が大人になって降りてあげよう。」などと思うのは、裏返しのエゴだそうだ。そういう次元を超えた、澄み切った自分自身でないと、結局エゴに負けるのだそうだ。結構、難しい。しかし、お釈迦様のような覚醒の境地までは無理でも、こちらの方がまだ分かりやすい。ただ、自分の感情を自分で抑圧するのでは、人間的でなくなるのでは?と一瞬思うが、そういうことでもないようだ。自分が知らない間に、エゴに自分の心を乗っ取られるのはゴメンだという話だ。
しかし、ここで私に疑問がある。それを次回。 Nat
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