前回、「悩める我々を神はそのまま受け入れ愛してくれている」ということが、絶望の淵にある人にも、大いなる救いになるのではないかということを書いた。しかし、この「神が我々を愛する」というメッセージは、日本人には、最初ぴんと来ない。一方、逆にそう思えるようになると、その思いは日本人にとり新鮮なインパクトを持つものになり得るとも言えるだろう。
日本人の「神」あるいは「神的なもの」へのセンスは、ひとえに「護ってくれる神」だ。神道的な神は、自然に宿る八百万の神、祖先の魂も含めたもので、自然の摂理を司る。人間は、そのような神を心で感じながら、自然の摂理に沿い誠実に生きる。それにより、祖先の守り神を含めて、神々が人間を安寧へと導くのである。特に、日本人には祖先信仰が強いから、「死んだお父さんが、私を護ってくれている」といった思いが強い。これが、日本人の神観だろう。
これに対し、一神教のユダヤ教、そして、それから派生したキリスト教はだいぶ違う。ユダヤ教の神は、ユダヤ民族専属の神であるが、これは基本的には愛の神である。しかし一方で、人間がそのような愛の神から離れて生きようとすると、それを人間の「罪」と定め、神と人間の間で「契約」を交わさせ、ユダヤ民族が神に忠実であり、神の掟を守る限り、恵みを与えるというパターンになる。ここに、日本人にはピンとこないものが4つ含まれている。まず神の「愛」。愛は男女間など、人間同士のもので、神が人間を愛するなどという話はピンと来ない。次に「罪」。神から人間が離れてしまうのを罪という。しかし、日本人にとっての罪は、これまた人間同士のもので、人を殺すとか、人から盗むとかの行為を、人間社会が罪と宣告するものをいう。神が人間を掴まえて「罪」というなどというのは、地獄の閻魔大王ならまだしも、天にいる神が人間を罪というなどはピンと来ない。その次は「契約」。お約束でもいいが、これも人間同士ならまだしも、神と人間がお約束などいうのはピンと来ない。最後に神の「掟」。これも人間社会の掟ならまだしも、神が掟を制定するわけがないということになる。
自然にあまねく存在する精神であり、魂である、日本の神々に比べて、ユダヤ教の神は擬人的で、ユダヤ社会の上に君臨するゴッドファーザー的神であって、日本人には非常に馴染めない。
では、そのようなユダヤ教から派生したキリスト教の神観はどうか? それを次回。 Nat
日本人の「神」あるいは「神的なもの」へのセンスは、ひとえに「護ってくれる神」だ。神道的な神は、自然に宿る八百万の神、祖先の魂も含めたもので、自然の摂理を司る。人間は、そのような神を心で感じながら、自然の摂理に沿い誠実に生きる。それにより、祖先の守り神を含めて、神々が人間を安寧へと導くのである。特に、日本人には祖先信仰が強いから、「死んだお父さんが、私を護ってくれている」といった思いが強い。これが、日本人の神観だろう。
これに対し、一神教のユダヤ教、そして、それから派生したキリスト教はだいぶ違う。ユダヤ教の神は、ユダヤ民族専属の神であるが、これは基本的には愛の神である。しかし一方で、人間がそのような愛の神から離れて生きようとすると、それを人間の「罪」と定め、神と人間の間で「契約」を交わさせ、ユダヤ民族が神に忠実であり、神の掟を守る限り、恵みを与えるというパターンになる。ここに、日本人にはピンとこないものが4つ含まれている。まず神の「愛」。愛は男女間など、人間同士のもので、神が人間を愛するなどという話はピンと来ない。次に「罪」。神から人間が離れてしまうのを罪という。しかし、日本人にとっての罪は、これまた人間同士のもので、人を殺すとか、人から盗むとかの行為を、人間社会が罪と宣告するものをいう。神が人間を掴まえて「罪」というなどというのは、地獄の閻魔大王ならまだしも、天にいる神が人間を罪というなどはピンと来ない。その次は「契約」。お約束でもいいが、これも人間同士ならまだしも、神と人間がお約束などいうのはピンと来ない。最後に神の「掟」。これも人間社会の掟ならまだしも、神が掟を制定するわけがないということになる。
自然にあまねく存在する精神であり、魂である、日本の神々に比べて、ユダヤ教の神は擬人的で、ユダヤ社会の上に君臨するゴッドファーザー的神であって、日本人には非常に馴染めない。
では、そのようなユダヤ教から派生したキリスト教の神観はどうか? それを次回。 Nat