♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2009年01月

魅惑のコード(和音)のお話しの続き その2

笑顔 コードの調味料(テンション)の話しの第二弾。

譜面 私が大学生の時趣味でジャズピアノの研究を始めた頃、最初にしびれたテンションが「9b,13」というヤツだ。知らない人からしたら何それ?と思われるだろう。分かりやすいようにキーがCとする。CのキーでCでない時によく出てくるコードはG7(ドミナント)。要するに、皆さんご存知の「ドミソ」=Cコード、「シレソ」=G7コード。この「シレソ」=G7(よりきちんと言うと「ソシレファ」)で、私のしびれる「9b,13」という調味料(テンション)が使えるのだ。それを加えたら、下から順に「ソシレファ ラb ミ」になる。これが、たまらなくロマンチックなサウンドになるのだ。ピアノのある人はぜひ一回弾いてみて。弾いたら気がつくでしょ。かっこいい曲の、特に最後の方でエンディングの手前でこのコードが鳴り響くと、超素敵なサウンドになることを。ホントにロマンチックなサウンドになる。たまらない。

マイク 「ソシレファ ラb ミ」の「ラb」が「9b」、つまり「ソ」の音から上に短9度上がった音だ。これが調味料として加えられると、どういういいことがあるのか? それは、「ラb」は中途半端な音程だから、下の「ソ」に崩れ落ちようというエネルギーを秘めている。また一番上に「ミ」(一番下の「ソ」からすると実に13度上だ)が来るのは何か? これは私の思うに、このG7コードがくずれ落ちる(“解決”というのだが)先のCコード(ドミソ)の中で一番香りの強い「ミ」の音を先取りすることで、ドミソへの解決の予感をかもし出しているものと思う。「ソシレファ ラb ミ」と言うコードを、コード記号で書くとG7 b9 13という表示になる。

譜面 そして、ここからは、更に難しそうな話しになるが、「ソシレファ ラb ミ」、G7 b9 13は、G7(「ソシレファ」)にE(ミ ラb シ)という別のコードを足したものと考えることも出来る。要するに、G7にEというコードを重ねて弾くのだ。これがポリコード(複合和音)、更に難しく聞こえる専門用語ではUpper Structured Triad (UST;上に乗せた三和音)というらしい。まずピアノで、リバーブペダルを踏んで残響が出るようにし、左手でG7「ソシレファ」を弾きます。その後に残響が残る間に、右手でEコード(ミ ラb シ)を弾く。しかも、この右手のUSTのEコードは、オクターブ上げて次々に高いところに移りながらEコード、Eコードとピアノの鍵盤の右端に達するまで繰り返す。すごーく、ロマンチックでJazzyなサウンドがあなたのお部屋に響き渡ったでしょう。

ウインク しかも、アドリブでもこのUSTを使うやつがおるのです。普通G7のコードの時のアドリブは、通常のソラシドレミファソの音階を中心に所々半音をかませるのですが、いきなり、ミ ラb シ ミ ラb ソ ファ ミ なんていう音階が出てくると、超カッコいいが、なになに、これ?どうやって弾いていると思うだろう。私が大学でジャズを始めた頃、超有名ジャズピアニストのマッコイタイナーがそういう風に弾いているのを聞いて、何じゃこれ? と最初は思ったものだ。ポリコードもUSTも知らなかったが、レコードを聴いて、自分でそういうことなんだろう、、、と思って勝手に真似して弾いてた。それ以来、USTのカッコよさにはまったままだ。 にっこり  Nat






魅惑のコード(和音)のお話しの続き その1

笑い これまでも魅惑のコード・コード進行について、あるいはジャズやボサノバが何故かっこいいのかについて書いてきた(2006年10月、2007年11月、2008年9月)。カッコいいコードについては、結構関心もって閲覧してくださる方が多いようだ。ということで、また少しだけこぼれ話しを書こう。

マイク 私が軽音楽にしびれて研究を始めたのは、実に小学校の頃だが、中高生の頃だったか、初めて覚えてしびれたのがMajor7thというコードだ。「ドミソ」なら当たり前だが、これに「シ」を加えて「ドミソシ」にすると突然、高級なムード音楽風になることを発見したのだ。(注:その頃、軽音楽やジャズの理論の本にはまだ遭遇してなかったので、全部耳と手で覚えた。) 「シ」は根っこの「ド」から長7度(Major7th)上の音で、これが調味料として加えられたコードを「Major7thコード」という。「ドミソ」が基本で、それだけだとアイスクリームで言うとプレーンなバニラ。そこに調味料(和音の調味料のことをテンションという)として抹茶の粉みたいなのがかけられているという感じだ。

譜面 このコードの調味料、テンションこそが、ジャズやボサノバの和音を超カッコ良く聞こえさせる要因の大きな一つだということは前にも書いた。テンションには色々ある。また二つ三つのテンションを組み合わせると更に奥深くなる。抹茶の粉とチョコレート粉が非常に合うとか合わないとか言う世界と同じだ。 そのテンションの中で、Major7thは私が最初そうであったように、はっきり言って素人さんが一番最初にカッコいいとハマるものだろう。ピアノがある人は「ドミソシ」と押さえて鳴らしてみてほしい。あるいはちょっと変形で「ソシドミ」と鳴らすと、「シ」と「ド」が隣接して微妙な音色になってカッコいい。ぜひやってみて。あるいは「ドソシミ」。これはもう本格的なジャズピアノのコードの押さえ方だ。

笑顔 このMajor7thが効果的に鳴り渡る曲は色々あるが、私はボサノバで有名なA Girl from Ipanemaを上げたい。キーはFの曲だが、最初Fmajor7thで始まる。出だしからカッコよさがみなぎる。バックがMajor7thのコードの時、メロディーとしては「一度の音」、要するにFのキーで「F」の音以外なら何でも合う。というわけで大概のメロディーはバックにMajor7thを響かせるだけでもうカッコよくなる。更に極めつけは、メロディーまで「シ」を中心で歌い上げるヤツだ。私は中学生くらいだったか、引き潮(Ebtide)というムード音楽、あれにしびれた。ソミシ~~~。バックにMajor7thコードがハープかなんかでなる。なんとカッコいい曲かと思った。そして高校の時、それに似たMistyというジャズ曲に出会った。エロル・ガーナ-というピアニストの曲。これまたソミシ~~~。バックにMajor7thコードがなる。もうその出だしだけでしびれた。

にっこり という具合に、「シ」の魅力、Major7thコードの魅力は相当強い。  Nat

意識って何だろう? その4

困った 死んだら意識は消失する -- この仮説を支える人間の体験は:(ノンレム)睡眠中に意識が消えること。昏睡や植物人間の人に意識がなさそうに見えること。自分が生まれる前に自分があったとしてもそのことを全く覚えてない、つまり自分の脳が活動開始する生前には自分の意識はなかったこと。以上だろう。そして更に、「人間の意識は全て脳の情報処理の産物である」という医学的な「意識」の解釈を聞いて、それ以外に非物質的な意識の根拠を想定するのも「非科学的」な気がするからだろう。ということで、死んだら意識は消えるというのは有力な仮説である。

ウインク ここから私の話になる。私はそもそも理科系バックグランドでもある人間ゆえ、科学には大いに期待している。一方で回り回ってきたにしろ、結局イエス・キリストにおいて神の愛が示されたと信じて生きるキリスト者でもある。この信仰に基づくならば、死も私を神の愛から引き裂くことは出来ないと信じられるのである。(新約聖書「ローマの信徒への手紙」8:38)。つまり「死んだ後の私は神の愛の手の中にある」と信じている。しかしそのことは何も「死んだ後も、生きている今と同じような意識が続く」ということを意味しない。今のような意識は一旦終わりになるのだろう。しかし、神の手に中にあるというからには、「私」というものが全く消え去り滅びてしまうことではないはずだ。何らかの「私」が永遠に神と共にあるということだ。

はてな それが具体的にどういう感じの「私」の状態なのか、それが分かれば苦労はないが、死んでみないと分からない。しかし、それでは、現世からの仮説「死んだら今の意識は消失する」「そしてもしかしたら、生前を覚えてないのと同じように死後は無の状態になるかも知れない」の方が心の中で強くなりがちで、死ぬのが怖いということになり得る。信仰の世界では「結局分からないのだし、とにかく神の愛を信じて、どうなるかは全てお任せしよう」になる。しかし、私のような人間の悪いクセだろうが、それでもあれこれ考えるのである。

OK まず「死んだら今の意識は消失する」。これは、脳機能に支えられた「今のような意識」は脳死と共に消えるということであり、間違いなくその通りだろう。しかし、次の「死後は、生前を覚えてないのと同じように無の状態になるのでは」については推論に過ぎない。魂が肉体離脱することで、意識は別のモードに移行するのかも知れない。また、生前の記憶は顕在的には皆ないが、催眠術で生前の記憶に戻る事例報告は多い。生前の自分が例えば昔のインドの村の女の子であったという記憶と、インドの村の記録が合致している等という話しも多い。それはマユツバと切り捨てればそれで終わりだが。今の科学の力量では、死んだ後に意識が「脳意識モード」を脱したあと、どういう状態になるのか、無に帰するのか、次のモードに移行するのか、これは未だどちらとも結論出せないだろう。

笑い 今の科学がその判断をなし得ないならば、ここからは個人の自由な想定でいい。私は、死後も神の愛が続くと信じるのであるから、「脳意識モード」の次に来るものは「“神と共”意識モード」である。そのモードの具体的な感じは死んだ時のお楽しみ。そして、モードチェンジの瞬間のプロセスとしては、今のところ、臨死体験、死後体験で多くの事例のあるパターンを想定しておくことにしている。例の、自分が自分の体の上に浮上、その後、暗いパイプラインに吸い込まれ、そのあと美しい光の方に導かれる。あれだ。勝手にこれを想像している。少なくとも、その方が死ぬのが怖くなくなり、むしろちょっと楽しみにもなるのだから。にっこり (本項了)Nat

意識って何だろう? その3

困った 人は重病の際に昏睡したり、更には植物状態になる。完全に脳死で脳が全面的に機能停止したのとは違うが、意識や認識に係わる脳の機能が阻害されてしまっている状態だ。昏睡だと、睡眠・覚醒のサイクルはあり得るらしいので、状態によってはレム睡眠の夢はあり得るのかも知れない。しかし、更に植物人間状態になると脳の呼吸維持のための信号を出す機能といった生命維持部分以外は機能停止し、意識も消失しているとも思われる。

落ち込み そして、生命維持部分まで機能停止したら、脳死、そして暫く後に体も死ぬ。こうやって死が訪れる。死んでいくと意識がどうなるのか、というその1の冒頭に書いたテーマに戻ってくる。昏睡、植物人間、そして脳死と推移し、次第に意識は消失していくことを考えると、脳死で死に至るとそこで「意識」は終了、永遠の無に帰すると考えるのが最も自然である。意識は脳の産物だから、脳の死とともに意識も死ぬ。これが物質科学の論理的帰結だろう。だからこそ「死ぬと、人間はそこで終わり」と思う人も多い。

幽霊 一方、人類はずっと昔から、死後に別の世界があるという強い思いをもってきた。現代の人間でもそういうイメージの人は多い。日本人でも論理的には「脳死で人間は終了」と思っていても、「死んだおばあちゃんが私を見守ってくれている」などと本気で思ったりもする。更に、物質科学がいかに幽霊の存在を否定しても、成仏し切れてない死霊が憑依霊や地縛霊になって人に感じられたり、心霊写真に写ったりする現象が体験されている。また、前にも何度も書いている通りの臨死体験、更には坂本政道氏が精力的に書いている「死後体験」シリーズで紹介されている米国モンロー研究所方式で肉体の拘束を解いた意識の展開の体験がある(当ブログの2005/10/18たましいの記事ご参照)。これらのことと、「脳死で意識の永遠の消失」説とはどう関係するのであろうか。

OK このことを論理的に考えると、仮説としては一つ。人間の魂のようなものがもし本当にあるとしてだが、(1)魂が肉体に宿っている間は人間の意識は脳の情報処理を媒介するので脳の機能に左右される、(2)しかし脳死の時に魂は肉体を離脱し、その時に魂と脳との間のつながりが切断され、そこから魂の意識は別の仕組みに移行する。こういう仮説は少なくとも論理的には成立し得る。魂の離脱は、実験科学的にも体験事例の報告があるし、また、臨死体験、坂本氏の死後体験で多くの人が共通して“体験”を語るものである。この仮説を取るに足らない馬鹿馬鹿しいものと思う人もいるだろう。しかし、今のところ科学はこの辺の解明(否定にしろ肯定にしろ)が出来ていない。結局、死んでみないと分からない。 にっこり  この続きは次回。 Nat

意識って何だろう? その2

落ち込み 次に意識がなくなるケース。まず睡眠中。眠っている時に意識が概ねなくなるが、重い病気で昏睡状態になった時の状態とどう違うのか。睡眠中の脳の機能で壊れている部分は全くない。全て正常。唯一、覚醒時と違うのは、脳神経が情報伝達をするのをお休みするということらしい。人は何故だか一日に一回「睡眠」というお休みの時間を持つ。体は睡眠中に副交換神経のスイッチを入れ様々の修復活動をする。脳では大脳が記憶データの整理をするらしい。それをしないと大脳の調子が悪くなり、いらいらしたり頭が鈍るようだ。そのため、脳神経は情報伝達物質を発生させず一時的に情報伝達を絶つ。これが睡眠中の無意識状態の仕組みだ。

笑顔 この睡眠にも、ご存知の通り、レム睡眠という体は寝ているが脳はだいたい起きているというのと、ノンレム睡眠のように脳も寝ているのに分かれるようである。このレム睡眠の時に夢を見る。この夢というものは、意識を考える上でとても興味深い。レム睡眠では体は寝ているので、よほど強い外部刺激などがない限り、外からの音や光や声かけは脳内で情報遮断されている。ということは、夢は基本的に外部刺激に呼応してではなく、脳内で自己完結的に情報処理が展開されて夢になる。勿論、尿意が影響してトイレを探す夢を見るというようなこともあるが、そういう肉体からの“内部刺激”がなくても夢は展開される。しかも、とんでもなく面白い筋書きの夢が展開される。その筋書きの元のネタになっているものは、日ごろの潜在的な欲望や衝動などという説もある。結構思い当たるから怖いが。

びっくり そして、覚醒時の思考と夢で大違いなのは、暗闇の穴の中での思考は、暗闇と静寂の中での思考だが、夢では脳が映画のように映像や会話のやりとりを脳内に投影してくれる点だ。肉体からの光や音などの外部刺激を脳が情報遮断している分、逆に思考する脳が思考に関係する映像などを創り出すということだろう。目が覚めた後で、夢で見た映像のリアルさに驚いたりする。脳の引き出しの中にデータとして保存されている画像を駆使して創造するのだろう。

笑い このような夢における脳の意識展開の仕組みは、暗闇の穴の中など無刺激状態での思考の仕組みが分からないのと同様、余り分かっていないようだ。私は夢の中で、たびたびふわーーと空中に浮上して空を飛ぶ。飛びながら急速に様々な所に移動する。しかも、それが夢の中であることを知っていることもある。このような夢の中の「自分」という意識は何なのだろう? 暗闇の穴の中でなくても、夢の世界にも間違いなく「我思うゆえに我あり」の「我」がいる。それは単に睡眠中も覚醒している脳の部分が作り出している「我」に過ぎないのであろうか。それが証拠に、ノンレム睡眠で脳まで眠ってしまうと、その時には「思考する我」も消失している。それとも「我」というものが脳とは別に、非物質的ながら何らかの形で存在し、脳の物資的機能を活用して意識を作り出しているのであろうか。私には後者の方が実感的にぴんとくるのだが。 にっこり かくして「我」の探求は続くのである。  Nat

記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

NAT

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ