♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2009年02月

男と女 オスとメス その1

ラブ 男は女の見たところや体に惹かれるが、女は男の心に惹かれると良く言われる。幾らでも例外はあるし、程度の差ではあるが、傾向としてはその通りだろう。私は全てのことにつき、何故だろう?と考えるのがクセというか趣味なので、この点についても前から色々考えている。

笑い 男はいわば「オス」である。動物は哺乳類でなくても、鳥でも魚でも、たいがいオスがメスにアタックをかけて、メスが受け入れてくれたらカップル成立である。受け入れてくれるメスに出会うまで、発情しながらアタックするわけだから、とにかくまずメスを見て興奮しなければならない。ということで、可愛いメスを見て興奮し、発情してアタックする。これがオスの本質だ。人間は見かけ上、もう少し品よく振舞ってはいるだろうが、本質には変わりない。今も昔もオス、つまり男は、女性の顔や肉体に惹かれてアタックする。

笑顔 そして、それを迎え撃つメス、つまり女性の方も、それをわきまえていて、顔をお化粧したり、体をアピールする服を着たりする。特に欧米のフォーマルな社交の場で、女性は殆ど胸の見えそうなドレスを着る。あれは正直不思議だ。殆ど上半身裸なのだから。この間のオスカー賞の発表会でも女性は皆そんな格好をしていた。慣れない私なんかがあそこに行くと、目のやり場に困るだろうと思う。それくらい、実は人間の文化の中に、メスのオスへの肉体誇示というものが組み入れられていることが分かる。メスはそうやってオスを呼び寄せ、オスはそれに乗せられ興奮してアタックをかける。

ウインク そこで、次にメスがオスを選ぶ番だが、メスはオスをどうやって選ぶのだろう。動物のメスのオスの選び方は、今ひとつ良く分からない。理屈上は、多分強いオスかどうかを見分けているのだろうが、ぱっと会った瞬間に強いかどうか分かるのだろうか。複数のオスがアタックして他のオスを押しのけた強いオスが残るというのなら分かるが、一匹のオスがアタックしているだけなのに、何故かメスにいやがられて断られる場合もある。動物なりに、雰囲気とか匂いとかで判断するのだろう。

びっくり 問題は人間のメスの、オスの選び方だ。これが動物の中でも極めて異色なのである。つまり人間のオスは、動物のオスと基本的に同じ。しかし、人間のメスは動物のメスとは違うのである。 それを次回。 にっこり Nat

愛とは何? その4

ドキドキ小 本当の愛は無条件なもの。そして、無条件に相手をそのまま受け入れること。前回、そう書いた。でも、もう一つ大事なことがあると思っている。本当の愛は、無条件なだけでなく、自分を犠牲にするものと思う。無条件に相手を受け入れようとする場合、受け入れる側に色々都合があれば、それは出来ない。一応無条件に受け入れようとするのだが、今はちょっと忙しいから後で、、、とか、そこまでやるとこちらの生活が滅茶苦茶になってしまうので、、、とか言うならばどうだろう。相手の属性については条件をつけてないかも知れないが、受け入れ方につき条件をつけていることになる。

ドキドキ大 受け入れ方を無条件にするということは、受け入れる側はもうどうなってもいい。相手を受け入れることさえ出来れば、こちらはどう犠牲になっても構わないということだ。命さえ捧げてもいいということだ。ここまで来たら、本当の無条件の愛。神的な愛になる。

ハート矢 そして、それは神的な愛であって、人間がそのような愛を持つことは非常に難しい。しかし、歴史上でそのような愛を示した人が一人いる。新約聖書に登場するイエスだ。彼はまさに当時のイスラエルの底辺にうごめく弱き者、罪人として差別されてきた人々をそのまま無条件に受け入れた。当時、正しき者でないと神に近づけないとされていたのに、彼は「神は罪びとを救うために自分を世に遣わした」として、自ら彼らに近づき、声を掛け、そのままの彼らを受け入れたのである。そして、イエスは彼らの身代わりとして、自らの命を捧げて十字架への道を歩んだ。まさに、受け入れ方に条件をつけず、むしろ自分そのものを捨てて受け入れたのである。イエスは、そうやって、神の愛が完全に無条件であり、完全に自己犠牲的であるほど大いなるものであることを証ししたのである。そして、結局、人びとは彼が神そのものであったと信じたのだ。

すいません 私は小さく狭い人間だ。とても人を愛せない。可愛い女の子を見て、私の自己愛の変形として惚れたりすることはあっても、この世で苦しむ人たちを、そのまま無条件で受け入れる等というのは私には出来ない。少し受け入れるとしても、私の生活が滅茶苦茶にならない範囲、つまり私の生活もそこそこ維持される範囲までである。自分を完全に犠牲にしてなどというレベルには一生達さないのではとも思う。しかし同時に私には、あの方(イエス)が、私のそのような弱さのゆえに、私のために十字架で命を捧げてくださったという信仰がある。その大きなイエスの愛に私は突き動かされる。「自分の生活を維持する範囲でなら少し人のために何かしてもいいかな」程度の私を、突き動かすものがあるとすると、それはイエスの十字架での愛である。本当の愛。無条件の愛。自分を犠牲にする愛。それは十字架上のイエスの愛でこそ示されたと思う。そして、それこそが、神の愛そのものである。少なくとも私はそう思って生きている。(本稿了) にっこり  Nat

愛とは何? その3

はてな では人類愛的な愛と、男女の愛の最大の違いは何か?

びっくり 見返りの有無? 近い。しかし、相思相愛中の男女は主観的には見返りを求めて愛しあっているとは思っていない。冷めたときにそう気がつくかも知れないが。 最大の違いは、『その愛に条件がついているかどうか』ではないだろうか。単純に言うと、男女の愛は、相手が今の相手の状態でなくなった時に急に冷えたりする。世にも可愛い女の子だと思って、恋こがれていたとしよう。その子が交通事故で顔を大きく傷つけ「化けもの」のような面相になってしまったらどうだろう?それでも、暫くのうちはなんとか続くかも知れない。でも、そのうち女の子が「私への憐れみなのね?」などと言い出し、男もだんだん重荷になり、そして二人の愛は終わる。所詮、男女の愛は、相手が自分に幸せをもたらすものを持っていることが条件になっているのである。条件は地位や財産や顔とは限らない。「優しい性格」が条件になっている場合もあろう。その場合、長く付き合う中で、優しいはずのその相手にも案外利己的な心があるのを発見してシラケルかも知れない。このように、男女の愛は、明らかに「相手の属性が自分に合致する限り」という重大なる条件つきなのである。

ハート 一方、人類愛は、その最も純粋の形においてはこの条件がつかないのである。そして条件がつかなくなればなるほど、それは神の愛に近くなる。神の愛は「無条件に人間を受け入れるもの」である。これこそが、聖書がその全体を通じて語りかけていることである。神が人間を愛するのは、それはその人間が神にとり好ましいからではない。人間は、神から見ると醜い存在かも知れない。またとかく神の意に反する存在でもあろう。しかし人は、神が自ら創った命であるがゆえに、神はただただ無条件に人を受け入れてくださるということだ。それこそを愛という。母の子に対する愛もそれに近い。

怒り 但し、現実の聖書、特に旧約聖書を読むと、先に昨年末の当ブログで「めちゃくちゃに身勝手な旧約聖書の神」で書いたとおり、悪い人間を滅ぼしたりする神にも読める。しかし、そのブログでも書いたとおり、聖書の記者たちは結局「神は愛である」と信じたのである。人が良い行いをするから愛してくださるのではない。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」(創世記8:21)。そんな人を、無条件に神は受け入れてくださる。これが神の「絶対愛」(ギリシャ語のアガペー)である。

笑い マザー・テレサの人類愛的な愛のことを前回書いた。そして、それは男女愛とは違い、無条件の愛に近いことも書いた。人類愛的な愛は、相手を選ばない。相手が人間だから、命だからという理由だけで愛するのである。その相手がこちらの愛の表現を理解せず却って噛み付こうが、礼を言ってくれなくても、にこりともしなくても、無条件に相手を大切な存在と思う。相手の痛みは自分の痛みと思う。これが人類愛的な愛。

はてな しかし、そんな無条件の愛を人間は持てるのだろうか。あるとすれば、それは唯一、まず自分が神に無条件に愛されていることを真に知る場合であろう。自分は神に無条件に愛されている。このことを知ったとき、人は初めて他人を無条件に愛するということを知ることになるのだと思う。 にっこり  Nat

愛とは何? その2

ハート 男女の間のLoveラブラブでないLoveにはどういうのがあるか?

はてな まず「好き」という気持ちはLoveだろうか。男女の間でなくても、例えば誰かに好感を持つ、逆に嫌悪感を持つということがある。でも好感は、所詮、自分にとってその相手の人の性格とか雰囲気とかが好ましい・都合よいということだから、男女間の自己愛的な恋愛や性愛と似た面の方が多そうだ。だから、好意だけでは今ひとつ「愛」ではないと思う。逆に生理的には嫌悪を感じる相手ではあるが、「愛」の対象ということもあり得よう。

ドキドキ大 そうなると、次に人類愛みたいな、慈悲的な愛が心に浮かぶだろう。マザー・テレサなんかの人類愛。だいたい、病気の人、非常に貧しく苦しい生活をしている人といった「弱者」が対象になる。しかし、これもこの世では普通、他人に何かを与えることの出来るようなものを持っている立場の人から、弱者に分け与えるということになりがちだろう。巨万の富を得たビル・ゲーツの思い切った寄付のようなことだ。富なり、食料なり、医療技術や医薬などを持つ人たちが、持ってない人に対し、直接的な見返りを求めずに与える。イスラム教のいう「喜捨」、持てるものを持たない者に喜んで与えること。しかし、これは本当に愛だろうか。

落ち込み 確かに喜んで与えるならば、そこには一見、愛がありそうだが、心の中までは分からない。有名寄付家としての名誉を求めているかも知れない。あるいは喜捨により、自分が天国に入れる切符を確保しようとしているだけかも知れない。だから、直接目に見える見返りを求めてなさそうに見えても、それだけで、そこに本当に愛があるかどうかは分からない。とすると、「愛」=「与えること、相手のために捨てること」ではなさそうだ。相手への心の思いの中身の方が愛であって、行為が愛ではなさそうに思える。

はてな では、どういう心が愛なのだろう。それは「相手のことを大事に思う心」と言えるかも知れない。また、「相手が喜ぶことを自分の喜びと感じる心」、逆に「相手が傷つく・痛むことを自分の傷・痛みと感じる心」とも言えるだろうか。しかし、これでは男女の愛でも表面的にはそう見えることが多い。恋愛中の男女は、相手のことをめちゃくちゃに大事にし合う。相手が喜ぶのを見て自分が喜び、相手が悲しむのは自分の悲しみである。これでは、人類愛と恋愛・性愛が同じになってしまった。困った。 泣く  Nat

愛とは何? その1

笑顔 NHKの大河ドラマの直江兼続の兜に書かれている「愛」という文字。あの「愛」が儒教的な仁愛の愛、つまり人民のことを慮る深い配慮の「愛」なのか、愛宕権現や愛染明王の「愛」なのかは議論あるようだが、そんなこと私は知らない。

はてな でもいったい日本の歴史のいつごろから「愛」という漢字が頻繁に登場するのであろうか。日本文化の中の漢字は、もちろん全て中国から伝来した言葉として最初に登場しているはずだから、「愛」も中国から来た儒教か仏教の中で伝わった漢字であろう。儒教における「愛」はどうも「仁」(他人に対するやさしさ)の説明の中で「仁愛」などという形で出てくるようで、あくまでも主なる概念は「仁」である。一方の仏教では「愛欲」「渇愛」、要するに煩悩の一つである。とすると、日本文化で「愛」という漢字が登場するのは相当古くからであろうが、それは専ら儒教の仁愛や仏教の渇愛といった熟語の中であって、「愛」という一文字での「愛」が出てくるのは比較的近代のことではないだろうか。思うに英語の「Love」の訳語として使われ始めた「愛」が近代・現代の「愛」という単語ではないか。私はそう感じる次第だ。誰か専門的に知っている人は教えてほしい。

笑い そこで、英語のLoveとは何かに移る。Loveは、まず圧倒的に男女の間の恋愛の愛であり、性愛の愛である。ラブラブ 恋愛は情緒的な恋の情であり、性愛は肉体の快感も絡めた心情であるが、いずれにせよ男女の間で飛び交う気持ち・感情・肉感である。(勿論、同性愛者の場合もあるが。)男女の愛の特徴は何か。それは、煮詰めていくと、自己愛であるということだろう。目の前にいる可愛い女性を見ているだけで、自分に快感がわく。目を見つめあうと自分の中に電気が走る。ましてや、その肌に触れ、唇を吸うと、体中を強烈な電撃と至福感が走る。また、あの至福感をもう一度、、、と思って、またあの女性に会おうとする。相手から、いや悪くいうと相手を利用して、自分の快感・至福感を引き出そうとするのが恋愛・性愛の本質だろう。もちろん男女の愛ではない他人への慈悲のような愛でも、慈悲愛が自己満足を生んでいる面もあり、結局人間の愛には大なり小なり自己満足・自己愛がある。しかし、男女の愛は、表面的にいかに相手のことを想っているように見えても、その内実ひときわ自己愛性が強いと思う。自分があってこその愛であり、後に述べる「たとえ自分が滅びても、あなたが生き残れば」というのは、恐らく恋愛・性愛の本質ではなかろう。

ラブ 相思相愛の状態では、快感・至福感の“輸出”と“輸入”が均衡していて問題が起こらない。しかし男か女かのどちらかが最初に冷めてくると、冷めた方から“輸出入”のバランスが崩れてくる。そうすると途端に問題が露見する。相手のことが急に憎くなり、ひどい場合は殺したりもする。相手から快感を得るのと、相手を殺すほど憎むのは、同じ自己愛の表と裏なのだろう。それほど男女愛は移ろいやすく、だからこそ文学の対象になる。

笑顔 しかし英語のLoveは、男女の愛だけではない。そこから次回。 にっこり Nat

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