前に、2007年8月31日から連載で「死んだらどうなる」というテーマで書いた。また、2009年1月下旬にもそれに関係する連載記事「意識ってなんだろう?」を書いた。その時の私の結論は、「結局死んだらどうなるか、死んでみないと分からない。しかし、私としては神さまの愛に繋がっていると信じている。死んだ後も神さまの愛と私というものが切れないと信じる。しかし、死んだ後どういう形で神さまと一緒なのかの具体的なイメージはまるで分からない。しかし、そういうことは神さまを信じきって神さまにお任せし、死んだあとの楽しみにしておけばいい。」というものだ。こう書くと、私Natは死ぬということへの恐怖など全くないのか、というふうに思われるかも知れない。
事実、私は家族に、私が癌であることが分かったときは、必ず直ぐ告知してほしいと頼んでいる。また昼間、理性・知性がきちんと働いている間は、上記の結論「死んでからのことは神さまを信じきってお任せしておけばいい」で一応収まっている。
ところが問題は、時に夜中にふと目が覚めて、暗闇であれこれ考える時だ。暗闇の中で、「今これがもし癌の宣告を受けてあと1ヶ月の命という状況だったら?」などと考える。 そう考えていると、なぜか息が苦しくなるような気もしてくる。「このまま息が苦しくなり、今、命がここで終わると私はどうなるのだろう?神さまのところに行くはずが、なぜか、ここで一巻の終わり、すっと私というものが暗闇に消えて、永遠に無くなってしまうのなら・・・」などと考えていると、ぞっとしてくる。電気をつけて明るくし、大声を上げ、誰かにしがみつきたくなる。やっぱり死ぬのは怖いのである。
私のようなクリスチャンは、一応神さまの愛を信じて生きている。しかし、そういう信仰は、私たちの心に恐怖や苦痛の感情が発生するのを何ら防止してくれるものではない。本能的に非常に怖いものは、クリスチャンであろうがなかろうが、どんな人間にも怖いのだ。その証拠といっては変だろうが、私たちクリスチャンが、人間神とも救い主とも信じるイエス、あの人が十字架刑に処せられる前の晩、悲しみ・恐れ・苦しみもがいたと聖書に書かれている。神の子イエスも人間としては、恐怖におののいたのである。ということをご存知であったろうか。実はこのことこそが、大変逆説的に我々にとって最大の救いなのである。そのことを次回。 Nat
事実、私は家族に、私が癌であることが分かったときは、必ず直ぐ告知してほしいと頼んでいる。また昼間、理性・知性がきちんと働いている間は、上記の結論「死んでからのことは神さまを信じきってお任せしておけばいい」で一応収まっている。
ところが問題は、時に夜中にふと目が覚めて、暗闇であれこれ考える時だ。暗闇の中で、「今これがもし癌の宣告を受けてあと1ヶ月の命という状況だったら?」などと考える。 そう考えていると、なぜか息が苦しくなるような気もしてくる。「このまま息が苦しくなり、今、命がここで終わると私はどうなるのだろう?神さまのところに行くはずが、なぜか、ここで一巻の終わり、すっと私というものが暗闇に消えて、永遠に無くなってしまうのなら・・・」などと考えていると、ぞっとしてくる。電気をつけて明るくし、大声を上げ、誰かにしがみつきたくなる。やっぱり死ぬのは怖いのである。
私のようなクリスチャンは、一応神さまの愛を信じて生きている。しかし、そういう信仰は、私たちの心に恐怖や苦痛の感情が発生するのを何ら防止してくれるものではない。本能的に非常に怖いものは、クリスチャンであろうがなかろうが、どんな人間にも怖いのだ。その証拠といっては変だろうが、私たちクリスチャンが、人間神とも救い主とも信じるイエス、あの人が十字架刑に処せられる前の晩、悲しみ・恐れ・苦しみもがいたと聖書に書かれている。神の子イエスも人間としては、恐怖におののいたのである。ということをご存知であったろうか。実はこのことこそが、大変逆説的に我々にとって最大の救いなのである。そのことを次回。 Nat