♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2009年03月

死んだらどうなる? 続編 その1

OK 前に、2007年8月31日から連載で「死んだらどうなる」というテーマで書いた。また、2009年1月下旬にもそれに関係する連載記事「意識ってなんだろう?」を書いた。その時の私の結論は、「結局死んだらどうなるか、死んでみないと分からない。しかし、私としては神さまの愛に繋がっていると信じている。死んだ後も神さまの愛と私というものが切れないと信じる。しかし、死んだ後どういう形で神さまと一緒なのかの具体的なイメージはまるで分からない。しかし、そういうことは神さまを信じきって神さまにお任せし、死んだあとの楽しみにしておけばいい。」というものだ。こう書くと、私Natは死ぬということへの恐怖など全くないのか、というふうに思われるかも知れない。

落ち込み 事実、私は家族に、私が癌であることが分かったときは、必ず直ぐ告知してほしいと頼んでいる。また昼間、理性・知性がきちんと働いている間は、上記の結論「死んでからのことは神さまを信じきってお任せしておけばいい」で一応収まっている。

困った ところが問題は、時に夜中にふと目が覚めて、暗闇であれこれ考える時だ。暗闇の中で、「今これがもし癌の宣告を受けてあと1ヶ月の命という状況だったら?」などと考える。 ドクロ そう考えていると、なぜか息が苦しくなるような気もしてくる。「このまま息が苦しくなり、今、命がここで終わると私はどうなるのだろう?神さまのところに行くはずが、なぜか、ここで一巻の終わり、すっと私というものが暗闇に消えて、永遠に無くなってしまうのなら・・・」などと考えていると、ぞっとしてくる。電気をつけて明るくし、大声を上げ、誰かにしがみつきたくなる。やっぱり死ぬのは怖いのである。ショック

びっくり 私のようなクリスチャンは、一応神さまの愛を信じて生きている。しかし、そういう信仰は、私たちの心に恐怖や苦痛の感情が発生するのを何ら防止してくれるものではない。本能的に非常に怖いものは、クリスチャンであろうがなかろうが、どんな人間にも怖いのだ。その証拠といっては変だろうが、私たちクリスチャンが、人間神とも救い主とも信じるイエス、あの人が十字架刑に処せられる前の晩、悲しみ・恐れ・苦しみもがいたと聖書に書かれている。神の子イエスも人間としては、恐怖におののいたのである。ということをご存知であったろうか。実はこのことこそが、大変逆説的に我々にとって最大の救いなのである。そのことを次回。 にっこり Nat

沖縄の音楽って その2への補足

笑顔 3月7日の「沖縄の音楽って その2」への、ちょっと補足。

譜面 沖縄の音階、つまり ドミファソシド の起源・背景について、きちんと研究し解説した文献を私は知らない。感じとしては、研究者が余りいないような気がする。

びっくり この間、沖縄にいった時に、沖縄ソバをすすりながら、テープでかけられていた沖縄音楽をずっと聴いていて、ある仮説を得た。それを、ちょっとだけ書く。

譜面 沖縄の音階も5音音階だが、ちょっと変わった5音音階だ。一方5音音階でも、ラドレミソラ というのは世界中にある、基本中の基本の音階であることは前に書いた。沖縄の音階は、実はこれの微妙な変形ではと思う。ラドレミソラ を ドを起点で書き直すと、ド ミb ファ ソ シb ド になる。これを声で歌うことを想定しよう。ド、ファ、ソの3つの音は基本の音で音程を外すことは余りない。ちょっと専門的にいうと、ドから見て、ファは周波数の比率が3対4、ソは2対3ということで、単純な整数比の極めて安定した音程である。よほど音痴でない限り、ドから歌い出した場合、ファとソの音程は外れないのである。ところがだ。あとのふたつ、ミb と シb は音程が難しい。微妙にずれやすい。しかも、ドから始めて上に歌い上げていくと、安定音であるファや、上のドに移るときに、ミb と シb は、一つ上の音である、それぞれファとドに引っ張られやすく、半音ほどずり上がることは自然であろう。

OK ということで、私の仮説は、ド ミb ファ ソ シb ド という、全世界的な5音音階が、沖縄(あるいは沖縄同様の音階がある雲南やジャワ)では、それを歌ううちに、微妙な音程であるミb と シbが、上の音に引っ張られて、それぞれ、ミ、シになってしまったというものである。その結果、ド ミb ファ ソ シb ド が、ドミファソシドという沖縄音階になったというわけだ。

まる その証拠では!と思ったのが、沖縄のソバ屋で聞いた沖縄民謡。ドミファソシドと歌い上げて降りてくる。そのうち、下のドから更にちょっと降りて、下のシに行くメロディーがあった。ところがだ。そのシが微妙にフラットして、ほとんどシbだった。上のシはフラットせず、ナチュラルのシであったが、下のシがシbに近く聞こえたのだ。私はこれこそが、元々はミb と シbだったのが、歌う中で少なくとも上に向かう時には、ミ、シにずり上がっていったが、下に下がる時は元々のシbが残っているのの証拠と受けとめた。

にっこり 専門家のご高説が聞けないので、私の勝手な解釈を述べたが、私としては、これ結構当たっているのではと思っている。専門家のコメントお願いします。 Nat

教祖さまって、みな神格化される? その2

笑顔 キリスト教でもイエスはイエス・キリストとして神格化されている。また大乗仏教でも、お釈迦様は釈迦如来として神格化されている。その点は似ているが、今回はそれがどう違うかを述べたい。

笑い イエス自身は生きている時、いつも「お父ちゃん(アッバ)!」と呼びかけて祈った。神さまのことを天の彼方にいる遠く近寄りがたい存在として見るのではなく、自分の心がいつも通じているお父さんのような近い存在として感じていたのだ。このことは当時のユダアとしては画期的なことであったので、人は神のことをお父ちゃんと呼ぶこの人は一体誰だろうと思った。それに応えて、彼は自分のことを神から派遣された「神の子」と称した。神の子イエスは、神の業として病人を愛し・癒し、罪びとを許した。そこで弟子たちもイエスのことを「救世主(メシア)」、つまり「神の派遣した特別な人間」として捉えた。そのことが聖書の記述から分かる。しかし、その救世主があっけなく逮捕され十字架で刑死する。一瞬弟子たちは悲嘆し混乱するが、その直後にイエスの復活の姿への遭遇という衝撃的な体験をする。その結果、「ああ、あの方はやはり神が遣わした方、あの方の中に神がいた。そしてあの方はこれからも何時までも私たちと一緒だ。」と信じた。そうやって、その後それを心の支えとして歩むクリスチャンが誕生し、後の世にキリスト教と言われるものが生まれるのである。

OK ここで私の言いたいことは、イエスの場合とお釈迦様の場合と全然違うということだ。どちらがいい悪いではなく、違うのだ。イエスの場合、確かに死後300年ほどたった二ケアの宗教会議で「イエス=神」という図式が定着する。またお釈迦様は死後数百年後、大乗仏教の方で「釈迦如来」として神格化が完成する。どちらも、後世に教祖様が神格化された例に見える。しかし、お釈迦様は生きていた時も死んだ時も、回りの人から見ても飽くまでも人間であった。悟りに達したレベルの高い人間であり、先生であった。お釈迦様は決して神を説かなかったから、お釈迦様の中に神を見るなどというセンスは周囲にはなかった筈だ。一方、イエスの場合は、生きていた時、そして刑死・復活した時、人々はまさにそのイエスの中に神の業を見たのである。つまりイエスの復活を含めた「神の業」伝承は、後世に神話として出てきたものではなく、新約聖書の編纂の経緯から見て、イエスの死後直後から弟子たちの間で口述伝承され始めたものである。弟子たちは、自分たちが触れた「あの人」(=イエス)の中に神を見たからこそ、それを言いひろめようとして教会を形成したのである。このように人間イエスの中に神を見た点が、お釈迦さまの場合との違いである。

日の出 弟子たちにとっては、イエスという特別の人間の中に神を見たので十分であった。弟子たちは、「ではイエスそのものが神であったかどうか」というような、二ケア宗教会議での“神学論争”には関心がなかったはずだ。後にキリスト教がローマの組織宗教として理論化・体系化されてくる中で父・子・聖霊の三位一体説が正統派になり、教理的にも「イエスは神」となった。今、我々の接している今日のキリスト教でも「イエス様は私たちの神様」としており、それは大変分かりやい信仰である。しかし、弟子たちがその時に感じたことは「イエスの中には神が働いていた」か「イエスの中には神がいた」ということなのであり、本来はそれだけでも十分なのである。

にっこり 私が信じたいのは、二ケア会議以降の教理で神格化されたイエスというよりも、弟子たちが直接触れ、「この人の中には神がいる」と信じた、そのイエスである。そして、それは釈迦如来のような神々しい像ではなく、惨めな十字架刑の生々しいイエスだ。そんな生々しい人間イエスの中に神がいたのなら、それは私のためでもあったと信じたい。 Nat



教祖さまって、みな神格化される? その1

テレビ NHKのスペシャル番組でやっていたが、法隆寺の釈迦三尊像の中央のものは実は聖徳太子の等身大の像であるという。聖徳太子の死んだ翌年に聖徳太子を偲び、釈迦如来のイメージに聖徳太子への思いをダブらせて作られたものらしい。しかし、この時点では、まだ聖徳太子は神にはなっておらず、基本的には釈迦が神であり、太子はそのイメージにだぶらされている段階だろう。それが、時間と共に聖徳太子の神格化が進み、室町時代くらいには聖徳太子そのものを信仰する「太子信仰」も発生する。

笑顔 このように、年月と共に、教祖的な人が神格化してくるのは世界の共通の現象であろう。神は見えないし、いるかどうかも分からない。だから、もっと身近にいる生身の人間で、普通の人を越えた人がいたら、その人を神と想定したくなるのは人情だろう。但し、生きている間は飽くまでも同じ人間同士だから神格化しにくい。それをやるとオウム真理教の麻原みたいになってしまう。だから、まずその人が死んで相当年月がたって、その人の言動が神話化してくる頃になって初めて、神とされる状態になる。

OK 聖徳太子がイメージを重ねてもらった本家本元の釈迦がまさにそれである。2600年前にインドにいた人間のお釈迦様は、明らかに人間であった。悩みながら悟りを求めて修行し、遂に悟りを開く。そして弟子たちに真理(仏法)への悟りによる苦悩からの解脱を教える。しかし、彼は決して自分が神であるとかいう話はしていない。またそもそも彼の教え(原始仏教)は人間の悟りを説くもので、神は想定されていない。むしろ無神論的という学者もいる。従って、お釈迦様はその死後、高度の悟りを開いた人間の手本として篤く尊敬されたし、その遺骨は仏舎利と呼ばれ神聖視され始めたが、まだ神とは見られていない。彼そのものが神として信仰の対象になったのは、釈迦の没後数百年も後、大乗仏教になって、釈迦如来つまり「神(というか仏)になったお釈迦様」という概念が創り出された時からである。それを知るや、さぞかしお釈迦様は驚き戸惑っていることだろう。しかし、数百年もたつと何でもありになる。

びっくり このように後世に完全に神格化されたお釈迦様であるが、世界3大宗教の他の二つにおいてはどうだろう。イスラム教では「アラーの神」を信仰するが、教祖マホメッドは決して神とはされない。究極・最後の預言者でしかない。イスラム教こそは、完全な形での一神教を追求し、また神以外のもの、偶像などを拝むことを潔癖に拒否する宗教である。従って、神以外のものである人間マホメッドを拝むということはあり得ない。そういう意味では、教祖がいささかも神格化されていない唯一の宗教であるとも言えるのではないか。

びっくり 3つめのキリスト教。キリスト教の場合、イエスが十字架刑で刑死した直後から、イエスはキリスト(神の遣わした救い主)であったという信仰が始まっているが、この時点では、それはまだ「特別な人間」或いは「神の派遣した、いわば神の子」である。教義上、完全に神と同一視されるのはそれから250年くらいたった325年、二ケアの宗教会議で三位一体説が正統と決定されてからである。それからというものは、人間イエスそのものが神と見られるので、その勢いでカトリックではマリア様の神格化まで付け加わり、イスラム教の人から見ると、キリスト教は一神教の純粋性を失ったと目される。ということから、キリスト教も時間と共に教祖の神格化が進むという通常のパターン、大乗仏教などと類似のパターンを辿っているといえよう。

にっこり しかし、キリスト教はその原初の形においては、他の宗教にない非常に独自の信仰を持っている点は見逃してほしくない。その点を次回に。  Nat

沖縄の音楽って その2

笑顔 沖縄の音楽の話の前に、沖縄の文化の話し。沖縄はもともと日本の一部ではなく琉球王国。17世紀に薩摩藩が侵略し、更に明治政府が台湾出兵に絡めて無理やり日本に併合してしまった。文化的には直ぐ近くの南中国(福建のあたり)に近いし、また中国、東南アジアとの交易の中心地だったので、日本本土よりも中国・アジアの文化との共通点が多い。亀甲墓と呼ばれるお墓も、ジャワ島でそっくりのを見たことがある。沖縄のろうけつ染めの紅型(びんがた)とインドネシアのバティックは技術的にそっくりだ。どちらも南中国の文化が伝わったものに違いない。ただ、沖縄の言葉は古くから日本語系である。「東風」(こち)など日本では古語になっている単語が沖縄には地名などで残っている。しかし、これは日本語が沖縄にも伝わったのか、大昔に南方あたりの言葉が日本にも沖縄にも伝わって日本・沖縄共通の言葉になったのか分からない。日本語の起源そのものが分からないのだから。ただし、文字は中国から来た漢字に加えて、意外にも相当昔から日本が生んだ平仮名を多用している。とすると、言葉自体も日本からもたらされたものだろうか。

譜面 さて、いよいよ本題の沖縄音階。ドミファソシドの5音音階。しかも、音の動きのパターンが極く限られていて、だいたい、ドミミファ、ソシシド、レドドソ、ファミミド~~~シド~~~。という風に単純に上がっていって降りてくるパターンだ。歌詞は様々なのだろうが、メロディーはどれもほぼ同じワンパターンに近い。しかしそのワンパターンが非常にユニークなのである。特に上記の例で言うと、ソシシドの部分、こんな動きをする音階は他の文化にはない。ソファファミドなんて動きもだ。ジャワ島のベロッグという音階が多少近い感覚を生むようだが、同じではなさそうだ。沖縄のは沖縄独自なものだ。どこから来たのだろう。南の方から? あるいは沖縄オリジナル? 興味が尽きないが、ここでポイントは、この音階のパターンは西洋音楽のアレンジを寄せ付けないということだ。ここに「ラ」でも入っていたら、急に西洋音楽の付け入る余地を与えるが、「ラ」とか「レ」がなく、「ファ」「シ」の使い方がどこにもないので、西洋音楽はお手上げだ。

マイク 昔、グループサウンズが流行ったころ、沢田研二のタイガーズが「シーサイド・バウンド」という沖縄音階を採り入れた曲を歌った。悪くはなかったが、やはり沖縄音楽は西洋音楽とは馴染まないと思う。

びっくり だから、沖縄民謡は、今でも西洋音楽アレンジを寄せつけず、沖縄三味線による古典的アレンジのまま堂々と生きている。観光者向けということはあろうが、今でも沖縄中で普通に鳴っているのがすごい。西洋音楽に半ば同化されてしまった本土の伝統音楽とは大違いである。薩摩や明治政府により、無理やり日本に併合された沖縄ではあるが、私としては、世界に誇れるユニークな音楽を持った沖縄が日本の一部であることを嬉しく思う。(本項了)     にっこり Nat
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