もう一つの問題は、「裁く」結果の「刑罰」、特に死刑の問題であろう。社会の秩序を大きく乱す人間は、誰かが裁く必要あるという点を納得するとしよう。それでも、その結果として、その犯罪者に刑罰を与える権限が、どこまで社会にあるのか?という問題は残る。今朝も人を終身刑や死刑に処す裁判員になることは拒否という人のことが報道されていた。
そもそも刑罰とは何のためか? 一つは犯罪の抑止効果。犯罪をして捕まると刑罰があるという思いが、世の犯罪を抑止するということ。更に、刑罰に服させる中で、その犯罪者に深く罪を自覚させ矯正して社会復帰させる(或いは再犯を抑制する)という狙い。三つ目は、被害者の報復したい気持ちを、社会が身代わりに「管理された報復」として果たすという点。多分、この3つだろうか。
ここで死刑の問題を考えてみよう。NHKで報道されていた、どこかのクリスチャン集団なる人たちが裁判員になることを躊躇った一つの理由は、殺人者を裁いて死刑宣告するのに加担する可能性ではないかと思うからだ。
殺人者に死刑を科す意味は何だろう。刑罰の3つの狙いのうちの、その犯罪者への刑罰による矯正効果は全くない。社会から抹殺するわけだから。一方、たぶん世の殺人への抑止効果はあるのだろう。死刑存続論者の懸念するとおり、死刑を廃止したら「殺し得」になってしまいかねない。どんなに人を殺しても、自分だけは社会から殺されることはないという保証があるのは、確かに不公平というか、バランスを欠く。更に被害者家族の報復への気持ちを満たすという意味も大きい。家族に「罪を憎み、人を憎まず」にしましょうよなどと言ってみても、「あなたに、家族を殺された者の気持ちが分かってたまるか」と言われれば、それ以上何も言えない。ということで、少なくとも日本では死刑廃止の動きは必ずしも強くない。また、世界の中でも日本は死刑執行数が増加している小数派だ。
一方、世界の中でも欧州を中心に、死刑廃止した国は多い。その理由はまず、犯罪者といえどもその命を国家が奪うことは出来ないという思想。そして世の殺人を抑止する効果としても、長期に亘る終身刑等の方が却って高いという説。最後に、裁判の間違いで無実の人を死刑にするリスクだ。このようなことだが、死刑廃止されてきている国が多いのが欧州と南米ということは、やはりキリスト教文化(キリスト教そのものではなく、それに根ざした文化)が背景にあるようだ。一方、非キリスト教文化の東アジアとイスラム国の多くでは死刑がある。どちらがいい悪いではないが、文化によって異なるのである。
という中で、NHK報道の人たちの躊躇いは、キリスト教の自分たちが裁判員になって死刑判決に加担するのは出来ないということか? 気持ちは分からないではないが、もし、殺人鬼の命に対しても愛を注ぎたいなら、自ら進んで裁判員になり、愛の観点から審理・評議に積極参加する手もある。私に裁判員のお呼びが来たら、たぶんそうしようとするだろう。もちろん社会的公正・正義と殺人犯の命との間でとても悩むではあろうが、悩むのが裁判員の仕事だと思う。(本項了) Nat
そもそも刑罰とは何のためか? 一つは犯罪の抑止効果。犯罪をして捕まると刑罰があるという思いが、世の犯罪を抑止するということ。更に、刑罰に服させる中で、その犯罪者に深く罪を自覚させ矯正して社会復帰させる(或いは再犯を抑制する)という狙い。三つ目は、被害者の報復したい気持ちを、社会が身代わりに「管理された報復」として果たすという点。多分、この3つだろうか。
ここで死刑の問題を考えてみよう。NHKで報道されていた、どこかのクリスチャン集団なる人たちが裁判員になることを躊躇った一つの理由は、殺人者を裁いて死刑宣告するのに加担する可能性ではないかと思うからだ。
殺人者に死刑を科す意味は何だろう。刑罰の3つの狙いのうちの、その犯罪者への刑罰による矯正効果は全くない。社会から抹殺するわけだから。一方、たぶん世の殺人への抑止効果はあるのだろう。死刑存続論者の懸念するとおり、死刑を廃止したら「殺し得」になってしまいかねない。どんなに人を殺しても、自分だけは社会から殺されることはないという保証があるのは、確かに不公平というか、バランスを欠く。更に被害者家族の報復への気持ちを満たすという意味も大きい。家族に「罪を憎み、人を憎まず」にしましょうよなどと言ってみても、「あなたに、家族を殺された者の気持ちが分かってたまるか」と言われれば、それ以上何も言えない。ということで、少なくとも日本では死刑廃止の動きは必ずしも強くない。また、世界の中でも日本は死刑執行数が増加している小数派だ。
一方、世界の中でも欧州を中心に、死刑廃止した国は多い。その理由はまず、犯罪者といえどもその命を国家が奪うことは出来ないという思想。そして世の殺人を抑止する効果としても、長期に亘る終身刑等の方が却って高いという説。最後に、裁判の間違いで無実の人を死刑にするリスクだ。このようなことだが、死刑廃止されてきている国が多いのが欧州と南米ということは、やはりキリスト教文化(キリスト教そのものではなく、それに根ざした文化)が背景にあるようだ。一方、非キリスト教文化の東アジアとイスラム国の多くでは死刑がある。どちらがいい悪いではないが、文化によって異なるのである。
という中で、NHK報道の人たちの躊躇いは、キリスト教の自分たちが裁判員になって死刑判決に加担するのは出来ないということか? 気持ちは分からないではないが、もし、殺人鬼の命に対しても愛を注ぎたいなら、自ら進んで裁判員になり、愛の観点から審理・評議に積極参加する手もある。私に裁判員のお呼びが来たら、たぶんそうしようとするだろう。もちろん社会的公正・正義と殺人犯の命との間でとても悩むではあろうが、悩むのが裁判員の仕事だと思う。(本項了) Nat