♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2010年02月

ホモ・フロレシエンシス 小さな人類のこと その2

 ホモ・フロレシエンシスの投げかけるもう一つの謎は脳のサイズだ。我々新人類の脳は1500ccくらいの大きさのものだ。ところが、小型人類ホモ・フロレシエンシスの脳は大人でも380ccくらいしかない。チンパンジー並みなのだ。ところが、我々の人類の祖先と同様の巧妙な石器を作り、火をあやつった生活をしていた。人類の進んだ知恵は、巨大な脳のサイズによって可能となったと思われてきた。ところが、4分の1くらいのサイズでも余り変わりないとすると、この考えが崩れる。

 

 しかし、考えてみるとクジラの脳は人間の5倍くらい大きいし、恐竜も人間より大きな脳を持っていたのもいる。とすると、脳の大きさと知恵とは必ずしも比例関係にはないという気もしてくる。また、人間は脳の殆どの部分を使わないで終わるとも言う。もしかして、人間もこんな大きなサイズの脳を持たなくても、人間の到達した知能には到達していた可能性があるとも思われる。

 

 しかし、事実、ヒトは脳を巨大化させた。それがヒトの進化の目的なのか、結果なのか、難しいところだ。少なくとも、ヒトは直立歩行し、重い脳のある頭を体の上に垂直に乗せた構造にした。だから、犬など、頭が前に突き出ている普通の動物と違い、脳を巨大にして重くしても、前のめりになって転ぶことがない体にはなった。また、赤ちゃんの頭蓋骨がお母さんの狭い産道を通れるように、まだ赤ちゃんが超早熟の間に生み落とす仕組みにした。このような進化の工夫により、ヒトは脳を大きくしてもやっていける体制にしたというのは間違いない。しかし、もしかしてこれは、ヒトという動物が脳を高度に発達させる路線を選択した際、念のため脳のサイズも大きくしておくと選択もしただけかも知れない。つまり、ここまでのところでは、脳が大きくないと人類の知能には到達できなかったということでもないのかも知れず、せいぜいホモ・フロレシエンシス程度の脳のサイズで、我々程度の知能は十分可能であったかも知れない。

 

 もしそうだとすると、我々人類の脳は、いわばメモリーの容量が超過大のパソコンのようなものかも知れない。将来、人類の更なる進化で、未来の人類は我々の使っていない脳の容量も使うようになるのかも知れない一方、今の我々は単に大きな脳を持て余しているだけの存在かも知れない。

 

  ということで、ホモ・フロレシエンシスのことから考察されることは二つ。一つは、「その1」で書いた通り、人類が動物としてはもう絶滅寸前で、ウイルスなどで全滅する運命かも知れないということ。もう一つは、遠い将来の進化した人類は、大きな脳を使いこなす、我々より遥かに高い知能をもった存在になっているかも知れないということだ。てな具合で、人類って面白い。そう思いませんか?     Nat

 

ホモ・フロレシエンシス 小さな人類のこと その1

 NHK教育テレビで見た。インドネシアのフロレス島に18千万年前まで住んでいた体長1mの小型人類のことを。ホモ・フロレシエンシスという。鋭い刃物のような石器も作り、我々新人類(ホモ・サピエンス)が同時期にしていたのと同様の生活をしていたと言われる旧人類だ。火山の爆発で死に絶えたらしい。有名なネアンデールタール人は2万数千年前に絶滅したと言われる。その後は人類に関しては、我々新人類だけになっていたのかと思いきや、ホモ・フロレシエンシスなんていうのが生きていたというから驚きだ。結構、発見されてないだけで、最近まで人類はもっと他の種も並存していたのかも知れない。あるいは、雪男みたいに、今でもまだ生きてるのかも。

 

 ここから、私の一つ目の疑問。なぜ人類だけは一種のみになってしまったのか?だ。前に2008年6月のこのブログの記事「人類は一種類!?」で書いた通り、動物で一種しかないのは異常で、それは人類だけだ。ヒトに一番近いチンパンジーでも4種類。ゴリラは5種。カラスは43種。ネズミは730種。動物は多くの種に分かれているのが当たり前なのだ。しかし、人類だけは1種しかいない。これが私の頭の中の最大の謎だ。我々ホモ・サピエンスが他の人類の種を滅ぼしたかのように書かれている文献もある。しかし、通常、動物は自分の親戚の種を滅ぼさないで棲み分ける。人間だけは、ゴリラやオランウータンは滅ぼさなかったのに、自分と親戚の他人類だけは徹底的に追い詰めて滅ぼしたのか?それは多分違う。

 

 むしろあり得るのは、新人類と旧人類は、例えばマンモスなど同じ狩りの対象を競い合っており、新人類の方が上手だったので、旧人類は飢えて結果的に絶滅したという説だ。つまり、新人類が旧人類に直接手を下して殺したのでなく、旧人類は食料競争に負けて勝手に滅びたという説だ。しかしこの場合、通常の動物だと、別の地域で別の獲物や食物を求める別種の人類は滅びず並行的に残ることになる。ホモ・フロレシエンシスこそが、このように並行的に生き延びてきた他の人類の例なのかも知れない。とすると、人類の多くの種は滅ぼし合ったのではなく、他の動物同様、基本的にそれぞれ棲み分けをしてきた、しかし結局、我々以外はたまたま不幸にして1万数千年前ころまでに全部滅びてしまったということか。

 

 もしそうであれば、私の中に重大な懸念が生じる。今、人類が動物の中で極端に異常繁殖していることは間違いない。(私の08年6月のブログ参照。)しかし実は、我々新人類は、滅び行く人類の中の最後の1種、最後になってしまった種ということだ。本来、全て滅びるべき部類だが、たまたま新人類だけが残り、しかも、「文明」によりごまかして異常繁殖しているだけということだ。とすると、前に書いた通り、所詮我々新人類も、強烈な新型ウイルスなどで、あっけなく絶滅する運命にあるのかも知れない。他の動物ではある1種がウイルスなどで滅びても、他の多くの親戚の種が残り発展する。しかし、新人類の場合、「ヒト科ヒト属ヒト種」というくらいで、最後の1種にまで追い詰められてしまった動物の「科」だ。動物としては、もう風前の灯なのかも知れない。(この続きは次回)     Nat

性教育(続): 聖書の愛とSEXについて 補足編

 私は、若い人が友達間SEXや婚前SEXをするのが罪か罪でないかについては、「それだけではどちらともいえない」という立場をとってきた。本当の愛があるかどうかを、二人の間で真剣に考えて欲しい。何が罪、何が罪でないという「罪の線引き」は他人には出来ない筈だというのが私の立場なのだ。これはSEXに限らない。人間の行為全てにつき、イエスが強く主張した通り「形からの罪の線引き」はあり得ないと思って生きたい。

 

 イエスは「神のルールはただ一つ、愛だけだ」と説いた。しかもそれは絶対的愛、“超”犠牲的愛だ。イエスは言った。「敵をこそ愛そう。」「右のほっぺたをひっぱたかれたら、むしろ左のほっぺたも差し出そう」。そんなことしたら、人間としては立ち行かなくなる。イエスは誰にも出来ないような究極の愛を説いたのだ。しかしこれでは永遠に達成はない。

 

 そこでイエスはこうも言った。「しかし、それは狭き門である」「それは人間には出来ない。しかし神には出来る」と。人間には愛を極めることが出来ないことを知っていた彼は、結局、そういう限界のある人間のために、自分自身の命を十字架に捧げたのである。そうやってイエスが十字架で示した神の愛こそが、究極の愛の目標と人間の現状の間の大きなギャップを埋めるものなのである。 イエスの十字架が指し示した神の愛はこうだ: 『神は人間が愛の人に到達したら初めて愛し赦すのではなかった。所詮、永遠に愛の人にはなれない人間たちだ。しかし人が自分を小さな存在と自覚し、ただただ神を信じ、神に頼んで生きようと思ったその瞬間に、神は人をそのまま赦し、そのまま愛して下さる』と。 ということは、なんとクリスチャンは、まず出発点で神に丸ごと愛され、いわば最初から「100点満点」をもらってスタートするようなものだ。何も出来てないのに。足りない所はイエスの十字架が埋めてくれている。これがキリスト教だ。そして、最初から100点満点にされ、神の愛に満たれたクリスチャンは、そういう神の愛に突き動かされ、次第に変えられていく。イエスの説いた不可能なほどの究極的愛の方向に、一生かけて少しづつ向かっていくのである。これがキリスト教だ。

 

 だから、SEXにしても、「婚前SEXは、罪なSEX」、「結婚後のは、罪なきSEX」などという白黒の線引きは、そもそも神の世界にはない。しかし、世のキリスト教の人たちを含めて、とかく人は線引きをする。「私は結婚まではSEXしなかった。そして今、私は結婚した。だから私は結婚までも罪を犯していない。今の結婚相手とのSEXはもう大丈夫、罪じゃない」と。こういうルールの場合、それを守りさえすれば自分を正当化できるから、すっきりしてやりやすい。だから、人はそれに走りがちだ。しかし、これには大きな二つの根本的問題がある。イエスが示した「究極の愛」は、「SEXも結婚という線を越えたら罪でなくなる」などという人間のルールとは全く別のものだ。結婚相手とでも単に性欲排泄的な愛なきSEXもあり得る。イエスがユダヤ教の指導者たちを糾弾した通り、結婚していても、実は道行く女を情欲の目で見る心において既に愛を失っているかも知れない。人がもがきながらも目指す愛のレベルは永遠の高さであり、それと結婚の有無とは次元がまるで違う。更に、もし人が自分にそういう線引きルールを課した場合、とかく他人にも同じ基準で接しがちだ。そうやって他人を裁くのである。この両方とも、まさにイエスが嘆き悲しんだことではないか。

 

  だから本来のキリスト教では、罪に対し形からの線引きは絶対にあり得ない筈なのだ。罪が全くなくなるくらいの完全な愛のレベルは無限の彼方にしかないからだ。途中に白黒の線引きはあり得ない。そして、無限の彼方には達せない人間のギャップを埋めるためにこそ、イエスは十字架についたのだ。今、私たちが再び線引きに走るならば、イエスは「もう一度十字架に掛かろう」と言われるに違いない。これが、私がどうしても言いたかった補足だ。 

 

 ここまでこの項を読んで下さったあなたに感謝しつつ、本項を終えたい。 Nat

性教育(続): 聖書の愛とSEXについて その3

  前回までで、人の世の規範ではとかく「婚前交渉はとにかく悪」、一方「結婚した場合は誰もそのSEXを問わない」という、「型」からくる決め付け判定になりがちであること、また、結婚前か後かということと愛の有無は必ずしも対応しないことを見てきた。逆に言うと、人間はどうしても、自分の行為、人の行為を「型」で白黒判定しがちなのである。イエスはまさに、人の行為をその表面的な型で「愛」か「罪」かと分類することこそ、神さまの心から最も遠いと強く主張した。ということからも、私は「夫婦のSEXは全て愛」、「結婚前・外SEXは全て罪」などと型にはめて決め付けないようにしたいと思う。と同時に、それが私のような心弱く、ついつい何かにひきずられそうな人間の行為の自己正当化のための、都合のいい理屈にならないように心がけたいとも思う。

 

 イエスは、表面的「型」で人を裁くユダヤ教パリサイ派といわれる人たちに対して言った。「あなた方は心の弱い人が姦淫に走るのを断罪する。しかし、姦淫はしてなくても女を情欲の目で見るあなたたち自身は何か? 心の中で姦淫しているのと同じではないか?」。意味としてイエスは「人間(男)は皆、女を見て情欲を感じる。そんなものはないようなふりをする偽善はやめよう。人間だから本能の情欲があることをまず互いに認め合い、その上で神の愛に動かされる人としてどう生きるかを考えよう!」と投げかけたのである。

 

  だからSEXのことは、結婚内か外かという「型」や、伝統的なキリスト教文化の固定観念も含めて世の固定観念に引っ張られ過ぎることなく考えたい。ただただ、愛の原理からのみ考えたい。その観点から、本稿の結論として、「SEXと愛」に関する私の考えを纏める。

 

1. SEXでは、とかくまず自分自身の快感・充足感の追及が先にくる。だから、相手を自分の快感・充足感達成のための手段や道具とみてしまいがちであり、そうやって相手への愛を忘れがちである。それは、若者でも、恋人でも、夫婦でも、老人でも、学校の先生でも皆同じである。まず人間はこのことを自覚するべきである。

 

2. 一方、大きな快感・充足感の得られるSEXというものを人間に与えた神は、同時に人間に「神の愛、人の愛」を知る心も与えてくれた。そしてSEXは、愛がある時にこそ、二人の間でリスクを低くして長い間楽しめるものとなる。つまり、ずっと述べてきたとおり、SEXは体をさらけ出すことから来る心の大きな心のダメージリスクを持つと共に、妊娠・(中絶)・子育て負担の大きなリスクも持つ。このような心のリスク、妊娠・子育てのリスクの両面を埋めることの出来る唯一のものは、二人の間の愛であると思う。両リスクを、「未婚のSEXはダメ!」と社会の決め事を押し付けることで抑えこむことも出来る。しかし、それでは「それって、誰が決めたの? 私たち二人の勝手でしょ!」という若い人の反論には答えられない。心と体のリスクはまさに彼ら二人の間にある。だから、大人は先ず二人にそのリスクの存在を教える。そして、そのリスクを制御できるのはその二人自身だけであり、それは互いの体と心への思いやりを育む「二人の間の愛」しかないことも教えるのである。逆に愛なき場合、二人はそのリスクをうまく制御できないことも教える。その上で若い人が、リスクのこと、自分たちに愛があるのか、そしてSEXが自分たちに適当かどうかにつき、自分で考えながら生き成長できるようになってほしいと思う。

 

3.しかし愛はリスクを抑えるためにのみ意味あるのではない。実は神は、SEXが愛の中で行われる時にこそ最も崇高な喜びとなるように私たちを作られたと思う。肉体の快感、心の充足、神への感謝が合流した時、それは最高になる。だから、SEXの相手とは、まず生活のひとつひとつの係わりの中で愛を表わしていきたい。それで初めて、ベッドの上でのSEXが愛の行為になるのだ。

 

 だから、若かろうが老人であろうが、結婚していようがいまいが、SEXがその人にとり、相手にとり「よきもの」かどうかの唯一の基準は、そこに愛があるかだけである。私はそう思う。そして更に、もし神への信仰があれば、二人のSEXについても毎日の祈りの中で神さまに語り、神さまの祝福を願いながら進めていくことが出来る。そうなれば最高だ。これこそが、聖書の指し示した愛の中でのSEXであり、愛の中での人生である。大事なのは、未婚か結婚という「型」ではない。愛と祈りなのである。

 

 以上が結論であるが、これを読んだ人の中に、上記のような私のSEXと愛の位置づけは、本当にキリスト教の考えに合致しているのか?と思う方もおられるかも知れない。私が単に教会の異端者であると誤解されるのも困るので、次回に最後の補足としてその点をちょっとだけ書いて終わりにしたい。    Nat

性教育(続): 聖書の愛とSEXについて その2

 

 まず、聖書の表す神が人間に何か“ルール”を課しているとすると、それは何か? それは、イエスが命を懸けて言った通り「神さまの愛に気づき、それに動かされて人も愛に生きよう」という「愛のルール」に尽きる。そしてその場合の「愛」の意味は、「自分を犠牲に出来るくらいに、相手の人の存在そのものを大切に思うこと」だろう。そこで、このような愛の観点から人間の求めるべきSEXにつき考えたい。

 

 ここではまず、強姦や、お金でのSEX、更に純粋セフレという、もっぱら肉体型のSEXについては、概ね愛はないだろうということで割愛させていただく。そして、性教育との関係で、若い人の友達SEX、婚前SEXに焦点を合わせる。

 

 どこかの本に書いてあったが、若い人に「愛なきSEXはするな」といった教師が、若い人から「そういう先生は、愛のあるSEXをしているのか?」と問われ、口ごもってしまったという。ここに事の核心があると思う。夫婦の間のSEXは常に愛だろうか? 少なくとも不倫のような「やましさ」はないだろうが、愛に満ちているとは限らない。実は夫婦でも相手を単に性欲の排泄手段だけに使っているケースも結構多いようにも思う。そこには愛はない。一方、事情があって結婚できないが、愛し合っている二人の間のSEXというのもあり得る。形で決め付けるのは危うい。

 

 極端な表現になるが、今の若い人はまず「挨拶代わりにSEX」→「愛の芽生え」→「妊娠」→「結婚」という順序が多いのだそうだ。では日本の昔の夫婦はどうだったか? 「(見合い)結婚」→「SEX」→「妊娠」→「長い夫婦生活の中で愛に至る例も・・・」ではなかったのか? 旧日本社会では、旧約聖書の頃の社会の規範と同様、女性の婚前の貞操を重んじた。だから、未婚の女性のSEXは論外。今の若い人の「まずSEX」なんてのは、とんでもないということになった筈だ。しかし昔のお見合い夫婦は、結婚したというだけの根拠で「合法だが愛なきSEX」を開始したのであった。となると、「夫婦間のSEXは可」「若い人(女性)のSEXは不可」という旧日本社会の規範は、これまでに述べてきたように体と心のリスク対応のための「社会の知恵」のようなものではあっても、愛の原理とは関係ないことが分かる。だから、今の日本の通常の大人や親が教えようとするSEX倫理は、基本的にはこのような日本の昔の規範を受け継いだものとなる。そこに現代的に「愛」という概念を挿入して語ったとしても、それは若者のSEXを抑制する話の都合上、便宜的に「愛」に触れているだけに近いと思う。一方、キリスト教系の教師が言うことは、「聖書の教えでは婚前SEXは罪です」といったようなことだ。聖書の唯一最大の教えである「愛」の原理で、なぜ婚前SEXが愛に欠けるのか、愛に原理に反するのかを説明するわけでもない。そして教師自身が、夫婦の間でも、案外、愛なきSEXしかしてなかったりする。若い人は、このような大人の決めつけや、場合によっては偽善を見抜いているのである。

 

 そこで、いよいよイエスの証しした「愛」からSEXを考える。  Nat

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