♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2010年05月

鳩山の普天間は迷走?

 普天間の日米合意が発表された。結局、元のキャンプ・シュワブへの移設+訓練の県外分散だ。マスコミは「迷走の末に、この様か!」と叫ぶ。しかし果たして本当に迷走してきたのか?「迷走」の意味が「一貫性を欠く」ということなら、鳩山政権の道筋に十分一貫性はある。多分「迷走」の意味は、特に県外への移設が実現すると思わせて、結局元に戻ったことを指すのだろう。今回県外になるかもしれないと本当に期待した人にとっては「迷走」だろう。しかし、今回は将来への一つのステップに過ぎないと思っていた人にとっては、迷走でも何でもないことになる。

 

 経緯をたどろう。まず2008年の民主党の沖縄ビジョンの中に「在沖海兵隊基地の県外への機能分散をまず模索し、戦略環境の変化を踏まえて国外への移転を目指す」とある。そして昨年の衆議院選挙の際の8月の選挙演説で、鳩山民主党代表は党の沖縄ビジョンに沿って「出来れば国外、最低でも県外に」とたびたび述べた。これが後に問題になる。一方、昨年727日の民主党のマニフェストでは「日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む。」としか明記されなかった。3党合意もこの線までだ。

 

 つまり、民主党、あるいは民主党の政治家の目指したい中・長期的努力の方向感としては、「長期的には出来れば国外移設、中期的には最低でも県外への分散」を目指したいということになる。しかし、短期的に必達すべき政権公約(マニフェスト)となると、そこまでは入れられない。「折角政権が替わったこの機会に、県外などが本当に出来ないのか、一度はレヴューしてみる」というのが精々になる。当面の結論が結局同じでも、基地が永遠の固定化にならないためのステップとして、まずは出来るレヴューから始めようという趣旨だ。しかしそれだけでも一定の意味のある短期施策であった筈だ。

 

 このように「中長期的な努力の方向性」と、「短期実現の政権公約」の二つの間には、大きな時間軸の差があったのだ。しかし、政権発足時に、この辺の解説をしっかりやらなかった。社民党までいる政権内の安全保障問題での意見・立場の違いに相当幅があるから、曖昧にせざるを得なかった面もあろう。また、これは飽くまでも推測だが、鳩山個人の心の中には「ひょっとしたら県外なんて案も見つかるかも」などという楽観があったかも知れない。それで敢えて「今回はレヴューだけ」とは強調しなかったのかもと思う。しかし、結局、短期・中長期の目標の差を明確にしなかったことで、関係者によって受け止め方に差が出てしまった。これが、これが今回、沖縄県民、国民、マスコミそれぞれの立場でのイライラや憤懣、失望を生んでいる根本要因であり、それが「迷走」と言われてしまう背景だ。冷静に考えれば、去年の秋の段階で、レヴューをしてみても結局はキャンプ・シュワブに戻るしかないことは誰の目にも明らかであった筈だ。民主党政治家の多くもそう考えていた筈だ。それなのに、特に沖縄県民に過剰な期待を生んだのは、3党連立のあいまい妥協の結果であり、政治的稚拙さ・不用意の為す業だが、その代償は大きい。

 

 もう一つ問題を大きくするのが、鳩山首相の発言が良く練られていないことだ。軽いとも言われるが、政治的に稚拙な発言が多すぎる。特に問題にされているのが、54日午後、名護市の稲嶺市長と会談した後、記者団の質問に答えて、昨年の衆院選挙演説で「最低でも県外」と述べたことについて「党の考え方ではなく、私自身の代表としての発言だ」と述べた点。マスコミ等で言い逃れとの批判が噴出した。党の考えと、代表個人の考えを使い分けるのは、これは全く当を得ない。批判あって当然である。彼が言うべきであったのは、「①党の中長期ビジョンに沿い、中期的には県外への分散、長期的には国外移転を目指したい、しかし、②政権の短期必達施策としてとしては、元々レヴューだけで、県外移設の実現までは入っていない」という、本当は政権発足時に解説しているべきであったことだろう。それを「代表個人の発言」などと言って別の話にするのはいけない。

 

  さて、今回、結局移設先が元に戻ったとしても、政権が約束通り「レヴュー」をしたのは、それ自体は進歩であったと思う。私も当面何故グアムなどではダメなのか、今回のレヴューで初めて理解した。海兵隊の位置づけも改めて良く考えることが出来た。そして当分の間は日本の米軍基地は絶対必須だが、長期的にはそれがなくなっていくのを目指す方向感も正しいと受けとめることが出来た。民主党政権が政治的に素人風だった分だけ、国民もこの「迷走」に付き合わされた。それは長い目で見るとプラスかも知れない。このような長期的な日本の歩みの中で、現在起きている混乱や苦しみは、必要な通過点なのだろうということだ。

 

  それにしても、名護市ではもはやキャンプ・シュワブへの移設の受け入れが政治的に困難になった。かといって普天間での凍結も問題が大きい。前にも後ろにも進めない。必要な通過点としての苦しみではあるが、この苦しみはいかにも大きい。政治家もマスコミも国民も、この問題に対しては長期的視野を持ち、冷静に合理的に対応することを望みたい。   Nat

Jポップスの日本語アクセント

  Jポップスの歌い方で特徴的であり、また私としては気にもなる点がある。例えば「僕の心が」という歌詞だとしよう。それを「ぼくウーのヲー、こころヲーがアー」と歌うのだ。メロディーの上では「ぼくウー」の「く」と「ウー」を単に同じ音程で「く」「ウー」と二つの音に分けて言うだけのもあるが、「ぼくウー」の「く」から「ウー」の部分に移る際に「ウー」の処は上に音を上げるのも多い。多くは短三度とか4度ほど上げる。もう実例で言うと、ちょっと古いJポップスだが、稲垣潤一のクリスマスキャロル。「くウーりイーすーまアすキャロルがア、きーこーえーるウーころにわア」と歌う。日本語の発音としては奇妙なものになる。しかし、若者の多くにとって、そういう歌い方の方がカッコいいということになるのだろう。

 

  世の中の全てのことにつき、何でも「なぜ、そうなんだろう?」と考えてしまう私のことだ。このJポップスの歌い方の理由も考えてきた。その結果、それは英語の歌の感覚を日本語で歌うJポップスにも取り入れたいということだろうと結論付けている。英語は重母音が非常に多い。例えば、It’s a pain to my heart. という歌詞があるとしよう。painheartも二重母音。そこで、英語の歌でpainと歌う場合、とかく、こぶしも入れてぺエエ~~インとか、またheartもハア~~(下を丸めてrの音になって)と、母音の部分がうねったりしやすく、情感を込めやすい。ところがだ、日本語の場合、二重母音風の言葉、例えば愛(アイ)は英語風の二重母音ではなく、「ア」「イ」という単母音が連続しているだけの面が強い。結局、日本語は、単母音の連続の言葉である。蛍の光でも「ほーたーるのひーかーり」で2小節。ところが英語の歌は、同じような2小節でももっと一杯単語を込められる。蛍の光の原曲のスコットランド民謡では同じ2小節が「Should old acquaintance be forgot」となる。Shouldは強いShの子音のあとouldの強い母音が続き、その後のoldはまさにouの二重母音。acquaintanceなんてややこしい母音と子音と二重母音の複合体の単語でひねりが入り、そのあとbe~~、そしてforのr音なんかを絡めた複雑長母音が出た後の最後に、短いgotが力強く続く。おおよそ単純母音がアクセントもなくだらだら続く「ほーたーるのひーかーり」よりも、短い2小節の中に発音・ひねりの変化、アクセント、ドラマがある。

 

 このように、英語の歌詞は、そもそもうねり、アクセント、抑揚に富み、まさにジャズやロックの音楽にマッチする。日本の歌は、日本語の単調な発音を穏やかに乗せて歌うしっとりした音楽になる。「からたちの花が咲いたよ」という綺麗な歌があるが、「かーらーたちのーはーなーがさいたーよー」と歌う。単母音がずらずらと並ぶだけになる。これで4小節になってしまう。しかし、その中に情感が秘められる。これが日本の音楽。ところが、日本の若者としては、たとえ英語は苦手でも、英語風、米ポップス風の歌を歌いたい、聞きたいということになる。そうなると、日本語の発音、アクセント、抑揚を英語風に変えるしかない。ということで、英語の単語に似た、重母音風の発音に無理にでも変えて歌うことになる。それが、冒頭に言った「くウーりイーすーまアすキャロルがア、きーこーえーるウーころにわア」だ。日本語のまま英語ノリに換えているわけだ。

 

  まあ悪いとまでは言わない。しかし、英語を話す米人は英語にマッチした米風のロックやジャズを歌う。ブラジル人はポルトガル語のリズムそのもののボサノバを歌う。とすると、日本人は日本語の美しい語感を大事にしたポップスを作り、自然な日本語のアクセントで歌詞を歌う。本来はそうあるべきではないだろうか。少なくとも私は、そういう音楽を作っているつもりだ。

Nat

 

歯って、骨じゃないって知ってた?

 歯って、骨じゃないらしい。骸骨なんか見ると、頭骸骨の口の部分に歯がぎっしり並んでいるから、一見、歯は骨の一部みたいに見える。しかし、歯は骨ではない。

 

 同じカルシウム質の体の部品だが、骨は成長するし新陳代謝もする。折れたりしても修復される。しかし歯は成長も新陳代謝も修復もしない。虫歯になったり、欠けたらそれで終わり。

 

 骨は頭骸骨だって手足の骨だって、歯のように大人になったからって新しいのに入れ替りはしないけど、年齢とともに最初の骨が次第に新陳代謝して大人のサイズに変わっていく。便利なもんだ。しかし歯は違う。一度出来ると、もうサイズは変わらない。二度と成長しない。だから、赤ちゃん・幼児の乳歯が生え変わって、大人の永久歯になる。つまり子どもの顎は小さいから、ちっちゃな乳歯が20本できる。ところが、大人になると顎が大きいので、歯も、もっと大きな、しかも長期耐久型の永久歯に入れ替える必要があるのだ。そこで、小学生くらいのときに、永久歯に生え変わる。しかも、本数が増える。28本。親知らずも入れると32本。ということで、歯は一回生えたら、それっきりだからだ。そこが骨と違うところだ。

 

 脊椎動物にはたいがい歯がある。脊椎動物の一種である我々哺乳類も、昔は魚だった。ということで、歯は我々の祖先の魚が進化の途上で開発した部品だ。ところが、魚の歯には、我々のようなすりつぶす臼歯はなく、鋭く尖っていて、獲物に突き刺す鋭い歯だけだ。そして哺乳類のように頭骸骨にしっかり固定されていない。結構、頻繁に生え変わるものらしい。そもそも、魚の歯は、元々はうろこから進化したものとの説もあるようだ。そんな魚の歯が、魚が陸に上がり爬虫類になり、哺乳類になる過程で、頭骸骨にしっかり固定される「噛む歯」になった。そのためもあって、生え変わりは基本的に一回だけになった。哺乳類はほぼ皆、一回だけ生え替わるらしい。尤も、ねずみなんかは、子どもの頃の最初からの同じ歯がずっと成長し続けるようだが。

 

ということで、歯一つとっても、生物の工夫がある。進化の成果って素晴らしい。     Nat

 

 

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