我が家の4歳半になる孫の男の子は「神さまが人間も世界も全部創られた」とか「ママは神さまから僕へのプレゼント」などと言う。クリスチャンである私らジジ・ババとしては、なんとも嬉しいことだ。
なぜその子がそんなことを言うのかというと、勿論、我々やその子のお父さん・お母さんが、その子の小さい時から神さまのことを言ってきたことと、今キリスト教の幼稚園に通っているからだろう。しかし、小さな子が素直に神さまを信じて「神さま・・」という背景には、単に子どもは純真であるからとか、親がそう教えるからというだけではなく、子どもならではの、目に見えないものに感応する本能のような力がまだ消えずにあるからではないかとも思う。
ところが大人になってくると、別の要素が発達してくる。いわゆる「科学的知識」あるいは「理性的思考」なるものだ。子どもの頃、旧約聖書のノアの箱舟の物語から虹は神さまのプレゼントと聞かされていた子が、虹は空中の水滴で光が屈折して出来るという説明を聞くと「なんだ、虹の後ろには神はいないのか」と思ってしまう。生き物の不思議さに感動していた子が、生物学でDNAとかいう話を聞くと「生物も無機物も同じ物質なのか、命は物質的な現象に過ぎないのか」などと思うようになる。そして、そういう観点からこの世を生きて見ると、「この世に神なんていない」と思って生きても余り困らない。むしろ、この世は目に見える物質しか存在しないと思ったほうが分りやすいことも多い。そうやって、折角子どもの頃「神さま・・」と言っていた子の多くが、言わなくなって終わる。
それでも太古の昔から人間には神を想い神を感じる心が与えられてきた。サルなどの動物にはそれがないかどうかは不明だが、少なくとも人間というか「ヒト」という動物には神を考え、神を感じる特質がある。それはなぜか?というと、神を信じる人の答えは「それはまさに神があるからだ」であろうし、信じない人の答えは「ヒトの大脳皮質が発達し、そのような妄想も含めて高度な意識活動をするようになったからだ」だろう。そのどちらが正しいかは、人間には分らない。本年7月5日の当ブログ記事で“神の非存在証明”に関する苫米地氏の本への失望のことを書いたが、神の非存在証明も存在証明も永遠に出来ないであろう。
しかし、信じる人にとって「神はある」のである。旧約聖書にモーセが神と初めて話しをして神の名前を聞くシーンがある。その時の神の答えは秀逸である。“私はある”というのが自分の名前だというのだ。つまり神は実際あって、しかも遠くに隠れているのではなく、人間に対して常に豊かに「私はある」といって身近かに働きかけている存在だというわけだ。もしそう信じて生きる場合、同じ科学的・理知的人間でも、同じものを違うように受けとめるようになる。虹が人間に美しく見えるのは、白色の光を水滴が屈折で7色に分解するからだという物理的原理は、あの天才物理学者アイザック・ニュートンが発見した。しかし彼は、虹を含めて神が創造したこの美しい世界、その美しさを実現する為に神が導入した物質原理の一旦を解明出来て、なおさら神の創造の素晴らしさに感嘆したのである。私もそうである。科学好きの私がDNA等の話、そしてこのブログに度々登場する進化論の科学を知れば知るほど余計に、目の前にいるカマキリなり犬なり人なりの命が、いよいよ不思議でかけがえないのないものに見えてくる。
そして、「神はある」と信じる究極的な理由は、やっぱりあの十字架のイエス・キリストだ。その死、その復活の伝承の中にこそ愛の神の存在が証しされたと信じて生きるか、それはどの宗教にもありがちな「教祖にまつわる神話」と思うかどうかは、その人ごとの勝手である。しかしその頃、その場に実際にいた人の中で、それを本当に信じ、それが故に人生を根底から変えられた人もいたわけだ。次第に新約聖書を纏め、原始キリスト教会を形成していくこととなる弟子たち・信徒たちだ。そして私は、彼らの人生を根底から動かしたその出来事に「神はある」ということが証しされていたと信じて生きることにした人だ。そういう私にとって、大人になって、虹の原理も生物のDNAも知ったが、いよいよ「神はある」という生き方をしている。私の4歳半の孫も、これから虹の原理もDNAも知ることになるだろうが、今信じている「神はある」を信じ続けて生きて欲しいと思う。 Nat