♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2010年11月

神さまってホントにいるの?

 我が家の4歳半になる孫の男の子は「神さまが人間も世界も全部創られた」とか「ママは神さまから僕へのプレゼント」などと言う。クリスチャンである私らジジ・ババとしては、なんとも嬉しいことだ。

 なぜその子がそんなことを言うのかというと、勿論、我々やその子のお父さん・お母さんが、その子の小さい時から神さまのことを言ってきたことと、今キリスト教の幼稚園に通っているからだろう。しかし、小さな子が素直に神さまを信じて「神さま・・」という背景には、単に子どもは純真であるからとか、親がそう教えるからというだけではなく、子どもならではの、目に見えないものに感応する本能のような力がまだ消えずにあるからではないかとも思う。

 ところが大人になってくると、別の要素が発達してくる。いわゆる「科学的知識」あるいは「理性的思考」なるものだ。子どもの頃、旧約聖書のノアの箱舟の物語から虹は神さまのプレゼントと聞かされていた子が、虹は空中の水滴で光が屈折して出来るという説明を聞くと「なんだ、虹の後ろには神はいないのか」と思ってしまう。生き物の不思議さに感動していた子が、生物学でDNAとかいう話を聞くと「生物も無機物も同じ物質なのか、命は物質的な現象に過ぎないのか」などと思うようになる。そして、そういう観点からこの世を生きて見ると、「この世に神なんていない」と思って生きても余り困らない。むしろ、この世は目に見える物質しか存在しないと思ったほうが分りやすいことも多い。そうやって、折角子どもの頃「神さま・・」と言っていた子の多くが、言わなくなって終わる。

 それでも太古の昔から人間には神を想い神を感じる心が与えられてきた。サルなどの動物にはそれがないかどうかは不明だが、少なくとも人間というか「ヒト」という動物には神を考え、神を感じる特質がある。それはなぜか?というと、神を信じる人の答えは「それはまさに神があるからだ」であろうし、信じない人の答えは「ヒトの大脳皮質が発達し、そのような妄想も含めて高度な意識活動をするようになったからだ」だろう。そのどちらが正しいかは、人間には分らない。本年75日の当ブログ記事で“神の非存在証明”に関する苫米地氏の本への失望のことを書いたが、神の非存在証明も存在証明も永遠に出来ないであろう。

 しかし、信じる人にとって「神はある」のである。旧約聖書にモーセが神と初めて話しをして神の名前を聞くシーンがある。その時の神の答えは秀逸である。“私はある”というのが自分の名前だというのだ。つまり神は実際あって、しかも遠くに隠れているのではなく、人間に対して常に豊かに「私はある」といって身近かに働きかけている存在だというわけだ。もしそう信じて生きる場合、同じ科学的・理知的人間でも、同じものを違うように受けとめるようになる。虹が人間に美しく見えるのは、白色の光を水滴が屈折で7色に分解するからだという物理的原理は、あの天才物理学者アイザック・ニュートンが発見した。しかし彼は、虹を含めて神が創造したこの美しい世界、その美しさを実現する為に神が導入した物質原理の一旦を解明出来て、なおさら神の創造の素晴らしさに感嘆したのである。私もそうである。科学好きの私がDNA等の話、そしてこのブログに度々登場する進化論の科学を知れば知るほど余計に、目の前にいるカマキリなり犬なり人なりの命が、いよいよ不思議でかけがえないのないものに見えてくる。

 そして、「神はある」と信じる究極的な理由は、やっぱりあの十字架のイエス・キリストだ。その死、その復活の伝承の中にこそ愛の神の存在が証しされたと信じて生きるか、それはどの宗教にもありがちな「教祖にまつわる神話」と思うかどうかは、その人ごとの勝手である。しかしその頃、その場に実際にいた人の中で、それを本当に信じ、それが故に人生を根底から変えられた人もいたわけだ。次第に新約聖書を纏め、原始キリスト教会を形成していくこととなる弟子たち・信徒たちだ。そして私は、彼らの人生を根底から動かしたその出来事に「神はある」ということが証しされていたと信じて生きることにした人だ。そういう私にとって、大人になって、虹の原理も生物のDNAも知ったが、いよいよ「神はある」という生き方をしている。私の4歳半の孫も、これから虹の原理もDNAも知ることになるだろうが、今信じている「神はある」を信じ続けて生きて欲しいと思う。              Nat

 

 

 

 

 

 

TPPと日本の農業は両立させられるのでは ?

 日本がTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に参加することにつき、関係各国との協議を開始すると菅民主党政府が言い出したので、農業関係者が猛反発している。

 TPPは太平洋を取り巻く各国が互いに貿易・サービス取引を自由化しようという枠組みで、既に米国、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、マレーシア、チリなど9カ国が参加している。これに参加すると互いに関税が原則的に撤廃されるので、米国に自動車などを関税なしで輸出できることになる。日本の貿易ライバルの韓国はTPPには参加していないが、既に先に米国、そして先般欧州(EU)との個別のFTA(自由貿易協定)を締結済みであって、今後順次、関税撤廃に向う。つまり韓国の自動車等は欧米に関税なしで輸出できることになる。だから日本政府は強い危機感を感じ、TPPに参加して韓国の有利な輸出条件から大きく引き離されないようにというわけだ。

 しかしTPPFTAも相互だから、これに入るとアメリカ等の安い農産物も関税なしで日本に入ってくる。だから農水省が「TPPに入ると日本の8兆円の農産物生産が半減して農業が壊滅する」などと言ったり、また農水族の議員が猛反発しているわけである。しかし、TPPに参加しつつ、日本の農業を適切に保護しつつ改善していく手立てがあるのではないか? その辺の本当の所が素人の私には良く分らない。しかし、頭の中で考えると以下のようなことになる筈だ。

 米を例にとろう。日本のお米は政府買入れ制度で価格を何とか維持しているものの最近ではスーパー特売で5KG1,500円を割るものも出ている。ただしまあここでは2,000円としよう。現在は輸入米には基本的に778%の異常に高い関税がかかるので、輸入米がなかなか入って来れないが、TPPに参加してカリフォルニア米(“カ米”と呼ぼう)が関税フリーで入ってくるとどうなるか? 例えばカ米の小売値段を750円に出来るとすると、確かに消費者の多くはそちらに流れる。日本の米農家は太刀打ちできないという話になる。しかし、実際にはTPPに参加する場合、同時に日本の農家への強力な保護・改善政策を導入することになるに決まっている。

 まず「保護」だが、2,000円と750円の差の1,250円を日本政府が日本の農家に補助金として出すことで、日本の米も750円で売れるようになる筈だ。同じ750円なら日本のコシヒカリ等を選ぶ消費者も多かろう。つまり同じ750円でカ米よりマズイ日本の米があれば、それは淘汰されようが、おいしい日本米は同値なら充分勝負できるはずだ。あるいは場合によっては、カ米よりおいしい日本米を増やすまでの間、政府補助金をもう少し多めに出して、日本の米は700円で売れるようにしてもいい。というと、政府補助金の財源などあるの?という人がいるだろうが勿論ある。今でも日本の消費者はカ米を750円で買えるのに2,000円の日本米を買わされているわけだから、日本の米を買うつど1,250円の税金を徴収されているのと同じだ。それが750円になると、1,250円分は減税になるようなもんだから、それを別の形の増税で政府が吸い上げればいい。別の形の増税がイヤなら、たとえばお米には、日本米でも輸入米でも基本的な税前価格は750円として、それに5KGあたり1,250円の特別物品税を乗せる手もある。その場合結局お米の出来上がりの税込み価格は日本米も輸入米も今の2,000円になるが、政府が日本の農家に払う補助金1,250円は物品税の形で確保できる。そうこうしている間に、日本の米作の生産性を高めるための諸改革に本気で取組んでいけばよい。それで、日米の生産コスト差が1,250円から縮小していけば、その分政府の補助金は他のことに回せるというわけだ。

 私が頭の中で考えると、以上のような話になるのだが、今のところ農水族議員や農家の反対運動は「とにかく反対」と言っているだけの段階のようで、上記のような今後の施策に関する専門的で冷静な議論がまだ殆ど聞けない気がする。だから、TPPに参加して、なお日本の農業をどう守れるかにつき、私のような素人は良く分らないままになる。早く、専門家が冷静な議論・検討をして発表してほしい。        Nat

 

 

 

記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

NAT

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ