♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2011年01月

菅政権、もうどうしようもない!

菅政権は今狂ったように、財政と社会保障の一体改革とTPPにまい進しようとしている。今回は、財政と社会保障の一体改革について言う。12月末の本ブログ「日本はこのままでは危ない」で書いたとおり、財政と社会保障の一体改革は勿論最重要な国家課題である。しかし、問題は、菅政権が何を一体改革の基本前提としているかである。

 

選挙で選ばれた時の民主党の一体改革の基本前提は、国の仕組みを根本から変えることであったはずだ。マニフェストで、政府のお金の使いかたを決める仕組み(つまり国家予算の仕組み)を、官僚任せではなく「国民の生活第一の政治」で作りかえること、地域主導に変えることを謳っていた。

 

日本のGDPに占める政府支出は30%ちょっとで別に大きくはない。しかし、国民は政府支出が国民の生活のために余り有効に機能していないと感じていたはずだ。一般政府支出(公共事業を除いた支出)90兆円のうち、広い意味での人件費は60兆円くらいだという。民主党政権は一時公務員の給与の2割カットを口にしたこともあるが、それはやめたらしい。しかし、公務員の給与カットもさることながら、人件費総額60兆円の公務員が国民生活第一のために、あるいは各地域のためになることをしているのか、それとも結局自己保身的な仕事ばかりをしている面が大きくないか? 国民は、この点に懸念を持っていたのだ。だから、事業仕分けショーには歓声も上げた。

 

しかし私が本当に期待したのは、事業仕分けショーではなく、まず国家予算の根本的組み換えだ。小沢さんはそれを大きく主張していた。つまり、まず国家予算を、国民生活第一の重点施策に先ず配分する。それは教育活性化予算でもいいし、国民の所得を確保するための産業活性化予算も入ってもいいし、子ども手当てなどでもいい。トップダウンで思い切って配分する。その上で予算の残りを通常の運営経費として各省庁に分配する。歳入総額が限られているのだから、もし均衡財政を前提にするなら、重点施策に配分した残りは相当小さくなる。しかし、それでやれと言われた省庁はそれでやるしかないので、根本的に仕事のやりかたを変えることになるだろう。そんなことをしたら、省庁が弱者にしわ寄せする形で、仕事のやり方変えないかという不安はあるが、その為、まず国民生活第一の政索予算は先に配分されている。だから、省庁がカットするのは、政索的には重要度の低い分野になるというのが、少なくとも理屈の上では期待されることだ。もう中央政府では見ていられないと思う事項があれば、地方に権限委譲もしよう。そうする中で、政府従業者の人数削減も出てくるだろうが、それはサービス産業の改革・活性化を受け皿として、民間シフトに持っていくことになろう。

 

このような、予算の仕組みを核とする国家の仕組みを根本から組み替える、明治以来の大改革をする。そのことにより、それこそ「日本は蘇り」、また財政も改善する。少なくとも私はこれを期待して民主党を選んだ。小沢さんなら出来るかも知れないと思ったからだ。

 

しかし、菅民主党の予算編成は、自民党政権と全く同じか、各省庁一律カットなどど、自民党政権以下の積み上げ予算。全くトップダウンでもなく、国の仕組みの作り変えでもない。驚くのは「国民の生活が第一」というスローガンも、鳩山・小沢的だとして、下ろしてしまったことだ。完全に自民党と同じく、従来路線の延長線で部分修正を図る官僚政治に戻ってしまった。

 

そのようなあきれたやりかたの上で、消費税増税を主張するのだから、もう財務官僚そのものだ。このままでは、日本は完全に終わる。この際、国民は何が出来るのだろう? Nat

非武装・無抵抗?

昔の社会党は国防に関して「非武装」を明確に打ち出していた。社民党になって、それは引っ込め、ずっと「最低限の軍備」を主張していたが、最新の同党のホームページを見ると、またまた究極的には「非武装」を目指すとなっている。

 私のこのブログで、何度も述べてきた通り、「最低限の武力」は最も愚かな選択である。最低限では戦争が始まった時に何ら役に立たないばかりか、最低限では戦争への抑止力にもならない。むしろ、北朝鮮なり中国が日本のどこかの島でも占領するため武力を使うような場合、日本が全く丸腰、完全非武装なら、さすがに「日本が最初に発砲した」と言えない。ところが、下手に最低限の武力を日本が持っていると、ほぼ100%確実に「日本側が最初に発砲した」という位置づけにする。この間の北朝鮮の韓国の延坪島攻撃の際も、同じように、韓国が最初に発砲したという屁理屈を北朝鮮は述べた。それが侵略の際の常套手段だ。よって、下手に最低限の武力を持っているのは最悪である。むしろ、持つなら、戦争への抑止力になる程度の纏まった武力、戦争が始まった際に、相手と対抗できる程度の実質的武力を保持するか、それとも完全非武装・無抵抗かのどちらかしかない。

この完全非武装・無抵抗は、理念・思想としては非常に強い魅力を持っている。日本国憲法が「国際紛争の解決の手段としての武力行使を永遠に放棄した」と謳っているのは、人類の究極の平和の姿として重要な意味がある。またイエス・キリストの説いた「右のほほを打たれたら、左のほほも差し出しなさい」の如く、攻撃されれば完全無抵抗にして相手の好きなようにさせてあげる、そして自分がそれでどうなっても、相手への愛が貫徹されればそれでよしとする。それは純粋な愛の追求であり、人間の理想として深い意味合いを持っていると思う。

だから、日本は永遠に戦争を始めることはしないという立場を純粋に追及する場合、完全非武装主義こそは有力な思想である。下手に最低限の武力などと言うのは辞めたほうがいい。ところが、完全非武装思想を本気で主張する人は、とかく、現実の世において、それを実行した場合、どのような結末が生じるかの考察も覚悟が出来ていないことが多い。それを主張する人は、往々にして極めて真面目であり、またお人好しであったりする。そこで、日本が完全非武装、丸腰で無抵抗にした場合、それでも日本に攻め込むなどの無茶なことまでしないのではないか・・・との、人間の善意への期待を持ちがちだ。

確かに、日本が完全非武装の国となった場合、先に述べたとおり、「日本が先に発砲したから已むなく応戦した」という屁理屈で日本に侵略を開始することは難しくなる。しかし、現実には、以下の二つの重大な不幸を覚悟する必要がある。

例えば、金正日の死後の北朝鮮で政権混乱が生じ、その中で軍部が暴走した場合、一方的に日本にミサイルでもぶち込む可能性は否定できない。「日本が最初に発砲した」などという屁理屈を使わなくても、やってしまう時にはやるだろう。なにせ、日本からの反抗はない。やりたい放題だから。その場合、完全非武装主義者は、ただただ多くの日本人が殺されるのを甘受するしかないというのだろうか? しかし、もっと現実的な不幸は、日本の周辺部をいいように取られてしまうことだ。中国なんかが、日本の尖閣諸島に限らず、日本の周辺の天然資源、漁業資源なりを、武力を背景に奪取することは多いにあり得る。国連に提訴しても、中国の実効支配を国連が兵力を出して元に戻してくれるかというと、そこまでは出来ない。日本はやられっぱなしになる。外交も、結局、武力を背景にしているという、悲しい現実があるからだ。そうやって、日本の資源をどんどん奪い盗られてしまい、日本の国力が疲弊していっても、「日本は非武装、平和の国だから、しょうがない。」と言うのだろうか?

だから、理念、あるいは信仰的信念としての非武装はあり得ても、国策としての非武装はあり得ない。残念ながら、人類はまだそういう段階には達していない。現実には、全ての国が、「必要悪」であっても武装を必要とする。この現実を見据えて、日本が武力を専守防衛のみのものとして如何に保持するかを議論せねばならない。最低限の武力は最悪。完全非武装では日本が現実に不幸になる。武力は悪であるが、必要である。そのような人類の現実につき、神に憐れみを乞いながら、「適切な武力」(最低限の武力でもなければ、最大限の武力でもない)を追及するしかないのである。   Nat



 




結局、なんでも「神さまアリガトウ」なの?

この間、私の教会の中で、ある人からこういう問いかけがあった:「礼拝では讃美歌を歌う時、さあ神様に向かって賛美をしましょうって言うけど、人間、とても神様を賛美する気分でないように落ち込んでいたり、苦しんだりしている時もありますよね・・」。これは、意味の深い問いだ。

「そもそも神があって、なぜこの世にこんな苦しみや悪がはびこるのか?」 ・・・人類共通の疑問だ。しかも、「神を信じているのに、なぜこんな苦しみが?」・・この問いは、聖書、特に旧約聖書を貫いている深い疑問だ。「詩篇」においても嘆きの声と賛美の声が交差する。「ヨブ記」では、どこから見ても正しく真面目一筋のヨブが、なぜ最高級の不幸の連続に会わねばならぬのか? 結局、それは人間には分からない・・・という問いかけがある。ヨブ記を書き、伝えたユダヤ民族は、自分自身をヨブに喩えたのだろう。そもそもユダヤ民族は、自民族の守護神(ヤーウェ神)をひたすらに奉じて生きてきたのに、異教徒の他民族に侵略・支配されたりしてきた。そういう中で「我らの神は、まさか我らをお見捨てになったわけではあるまいな? 何時になったら、お救い下さるのか?」という深い懐疑と心の中で戦ってきた民族だ。そういう中で結局、彼らは常に「しかし、それでも、いや、結局それだからこそ、神は恵みと愛の神なのだ」という、逆説的とも思える賛美で終わるのである。苦悩と懐疑の末にそれを遥かに超えて唱えるべき「神への絶対的賛美」がある。それが旧約聖書という分厚い文書集の一貫したテーマである。

新約聖書でイエスが登場する。そこでも上記のような人々の懐疑的問いかけが続く。生まれつき目の見えない、あるいは不治の病いの人は、なぜそうなのか? 当時の人にとり、愛の神の創られた命のなかに「一種の出来損ないみたいな人」がいることが大いなる疑問であった。そこで彼らは、それを「その人、あるいは、その人の親や祖先の犯した罪のバチである」と意味付けてみた。しかし、それでは、その人(親が悪いがその人は悪くない人)が余りにも浮かばれないという疑問が残った。そこで、彼らはイエスに問うたのだ。「この、目の見えない人は何故こうなのでしょうか?」。イエスの答えは驚くべきものであった。「それは神の業がこの人に現われるためである。」(ヨハネ福音書9章。) 生まれつき目の見えなかった人は、まさに劇的な神の愛による救済が起こされる、そのためにこそ、これまで存在してきたのだ、という回答なのである。

勿論、この回答の直後、イエスはその人の目を開き、劇的救済を実現している。これを一般化すると「不遇がなければ救済もあり得ない。この世で不遇・不幸と見えるものは、全てその先におおいなる救いの喜びが与えられるための場面設定なのである」ということになる。それ以前の人々の考え方が「過去のしがらみ型」で救いがないのに対し、イエスのは「未来指向」で救いに満ちていたのである。

・イエスの場合は、そう回答し、その場で救済を実現した。ところが、イエスを救い主(キリスト)と信じて生きるその後の時代の人はどうなるのだろう。不遇・不幸の中でイエス・キリストの名により「神のみ業」が現われることを祈ったら、救われるのであろうか? 祈り続けている中で、通常の人間の常識上も「奇跡」と思われるような、イエス的な治癒なり劇的な解決が与えられたと思えるケースもあるかも知れない。しかし、そうでない場合は、ずっと待つことになる。なんと言っても「神の備えたもう時間」にのみ成就する「神のみ業」だ。何時のことなのか、人間には皆目分からない。そうこうする間に、そのままで死んでしまうかも知れない。あるいは、そうやって生きている中で、ふと「既に救われている自分」に気がつくのかも知れない。・・・こういうと、「なあ~~~んだ。そんなの、マヤカシじゃん!」という人が当然出てくる。しかし、ここが人生の分かれ道。ここで、一瞬も二瞬もマヤカシのようにも思われる「救い」につき、真剣に向き合ってみる人生があり得るのだ。それは、論理の世界ではない。心の世界だ。イエスの言った言葉を、自分に置き換えて、「それはまさに神の業が、(不遇・不幸と思っている)貴方に現われるためである。」として、その言葉に向き合って見られるかどうかの心の問題なのである。

この事に関連することとして、20081014日から当ブログで「神を信じると、何かいいことあるのか? その1-5」という記事を書いた。ひとことで言うと、神さまを信じきる時、普通には災難と思えることも神さまの愛の物語の中の一こまになるということだ。 

そのような「心の思い」「心の道筋」を経て行き着く“境地”があり得る。仏教禅宗のような座禅修行の末に到達する境地とは異なる。イエス・キリストの言葉に向き合い、信じきって生きていくなかで到達するかも知れない心の“境地”のことだ。普通に会社で仕事し、家庭で主婦をしている中で到達していける心の“境地”だ。

私の亡き父は、若い頃の最初の奥さんが長い間寝たきりのまま結核で世を去るという、悲しい悲しい経験をした。深い悲しみの後、再婚し、私のような新しい命を得て、初めて「主の御名は誉むべきかな」という一種の“境地”に達し、その言葉を私たちに伝えた。イエス・キリストの言葉、「それは神の業がこの人に現われるためである。」、即ち「不遇・不幸と思える貴方の今の局面は、その後に神が用意されている恵みの現われのためなのである。」は、実際の人生の様々な歩みの中で、私たちの心にしっとりと語り掛けてくるものなのであろう。 そして、そのような思い(“境地”)に達したとき、人は今置かれている局面が苦しいものであろうが、悲しいものであろうが、「主の名は誉むべきかな」と唱え、神を賛美するようになるのであると思う。それは理屈ではない、生きざまの問題である。  Nat



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