聖書に、イエスが生まれつき眼の見えない人に出会った時、弟子に「この人はなぜこうなのでしょうか?」と聞かれる話がある。イエスは、「それはこの人に神の業が現れるためである」と答え、その人の眼を開けた。劇的なイエスの物語だ。
生まれつきの障碍を抱えた人が、こうやって神の力で治れば、如何にも「神のみ業」として分かりやすかろう。しかし、この世の多くの生まれつき障碍のある人は、直接イエスに出会いもしなければ、奇跡的な治癒もない。そこで「神のみ業は一体どこにあるのか?」という疑問が湧く。
私の姉の娘、私の姪でMちゃんという子がいた。去年の10月まではこの世にいた。しかし今はもういない。
Mちゃんは小さい頃から可愛く頭もいい子だった。ところが、ある時、医者が「この子は生まれつきの脳の問題で大きくなったら心に障碍が出るかも知れません」と言うのだ。ティーンの頃、感受性の強かったMちゃんはイジメにもあった。それを経て、心の障碍が出てきた。境界性人格障碍だ。いつも自分が見捨られてしまうという強い恐怖が心を襲う。心に大きな穴が開いていて、いつも誰かが傍にいて愛し続けてくれないとおかしくなってしまう。だから、夜中でも人に会いに行こうとする。親が止めると激烈な反応をする。でも、落ち着いている時は、笑顔が光り輝く。気も狂わんばかりに人に愛されようとする病気である分、人を強く愛する。自分も磨こうとする。こんなに無邪気で可愛い子はいないというくらい可愛い。私が私の母、Mちゃんのおばあちゃんの命日に、イエス様が、ラザロ青年が死んだのを生き返らせたという話しをしたら、「すごい!」と言いながら目を輝かせていたのを今でも思い出す。
でも、この病気には大きなリスクがある。結局、自分で自分の命を終えようとするリスクだ。去年の10月のある日、一人で家にいたMちゃんはそうやって自分の命を終えた。35年の短い命だった。でも顔はとても安らかだった。
人は、このような場合、どこに神のみ業が現れているのか?と問いかけるだろう。しかし、私はMちゃんのために、本当に毎晩祈っていた。その祈りの中で、神さまの心を何度も聞いた気がしている。神さまは私に言った。『どこに私の業があるのかって? Mちゃんの命をこの世に創ったのは私ではないか? そしてあの輝く笑顔を創ったのも、誰か? 私ではないのか? 境界性の病気を抱えた人生を与えたのも私だ。人から見ると、短く壮絶な人生だったかも知れない。でもMちゃんはその中で、人の何十倍も人に愛され、何十倍も人を愛する喜びを得たのだ。そんな人生にしたのは他ならぬ私ではないのか? そして心に大きな穴が空いていた時、あなたは何をしていただろうか? その穴をいつも黙って埋めていたのは私ではなかったのか? 親にとっても本人にとっても、もっとも相応しい時に、私の元に呼び返したのは、私ではないか?』と。そして、私には今Mちゃん自身の声も聞こえる気がする。『おじちゃん。そうなんだよ。今、神さまのところに居るから分かるよ。私の人生は、本当に全てが神さまのみ業だったんだよ』と。
私は、今、Mちゃんの人生は、本当にその全ての瞬間を神さまのみ業が貫いていたと思う。そして、私たちは誰でも、その人生そのものが神のみ業であると思う。それに気がついていないだけだ。気がついてそれを信じて生きるとき、人はその思いによって強く生かされる者となるのだ。Mちゃんがそのことを教えてくれた。そのMちゃんは、もう神さまのところに行ってしまった。でも私たちは今、生きている。だから、この生きている今の瞬間瞬間が神のみ業であることを信じ、その思いによって活かされるものでありたいと思う。 (この小文を、愛したMちゃんと、その両親に捧げます。)
Nat