♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2011年02月

それでも神さまの「み業」である、私たちの人生

聖書に、イエスが生まれつき眼の見えない人に出会った時、弟子に「この人はなぜこうなのでしょうか?」と聞かれる話がある。イエスは、「それはこの人に神の業が現れるためである」と答え、その人の眼を開けた。劇的なイエスの物語だ。 

生まれつきの障碍を抱えた人が、こうやって神の力で治れば、如何にも「神のみ業」として分かりやすかろう。しかし、この世の多くの生まれつき障碍のある人は、直接イエスに出会いもしなければ、奇跡的な治癒もない。そこで「神のみ業は一体どこにあるのか?」という疑問が湧く。 

私の姉の娘、私の姪でMちゃんという子がいた。去年の10月まではこの世にいた。しかし今はもういない。 

Mちゃんは小さい頃から可愛く頭もいい子だった。ところが、ある時、医者が「この子は生まれつきの脳の問題で大きくなったら心に障碍が出るかも知れません」と言うのだ。ティーンの頃、感受性の強かったMちゃんはイジメにもあった。それを経て、心の障碍が出てきた。境界性人格障碍だ。いつも自分が見捨られてしまうという強い恐怖が心を襲う。心に大きな穴が開いていて、いつも誰かが傍にいて愛し続けてくれないとおかしくなってしまう。だから、夜中でも人に会いに行こうとする。親が止めると激烈な反応をする。でも、落ち着いている時は、笑顔が光り輝く。気も狂わんばかりに人に愛されようとする病気である分、人を強く愛する。自分も磨こうとする。こんなに無邪気で可愛い子はいないというくらい可愛い。私が私の母、Mちゃんのおばあちゃんの命日に、イエス様が、ラザロ青年が死んだのを生き返らせたという話しをしたら、「すごい!」と言いながら目を輝かせていたのを今でも思い出す。 

でも、この病気には大きなリスクがある。結局、自分で自分の命を終えようとするリスクだ。去年の10月のある日、一人で家にいたMちゃんはそうやって自分の命を終えた。35年の短い命だった。でも顔はとても安らかだった。 

人は、このような場合、どこに神のみ業が現れているのか?と問いかけるだろう。しかし、私はMちゃんのために、本当に毎晩祈っていた。その祈りの中で、神さまの心を何度も聞いた気がしている。神さまは私に言った。『どこに私の業があるのかって? Mちゃんの命をこの世に創ったのは私ではないか? そしてあの輝く笑顔を創ったのも、誰か? 私ではないのか? 境界性の病気を抱えた人生を与えたのも私だ。人から見ると、短く壮絶な人生だったかも知れない。でもMちゃんはその中で、人の何十倍も人に愛され、何十倍も人を愛する喜びを得たのだ。そんな人生にしたのは他ならぬ私ではないのか? そして心に大きな穴が空いていた時、あなたは何をしていただろうか? その穴をいつも黙って埋めていたのは私ではなかったのか? 親にとっても本人にとっても、もっとも相応しい時に、私の元に呼び返したのは、私ではないか?』と。そして、私には今Mちゃん自身の声も聞こえる気がする。『おじちゃん。そうなんだよ。今、神さまのところに居るから分かるよ。私の人生は、本当に全てが神さまのみ業だったんだよ』と。 

私は、今、Mちゃんの人生は、本当にその全ての瞬間を神さまのみ業が貫いていたと思う。そして、私たちは誰でも、その人生そのものが神のみ業であると思う。それに気がついていないだけだ。気がついてそれを信じて生きるとき、人はその思いによって強く生かされる者となるのだ。Mちゃんがそのことを教えてくれた。そのMちゃんは、もう神さまのところに行ってしまった。でも私たちは今、生きている。だから、この生きている今の瞬間瞬間が神のみ業であることを信じ、その思いによって活かされるものでありたいと思う。 (この小文を、愛したMちゃんと、その両親に捧げます。)  Nat 

 

日本の英語教育 – 小学校への導入だけでは全然ダメ

20091111-20日の当ブログで、日本人が何故こうも英語が苦手なのかということを書いた。 

いよいよ、小学校高学年での英語教育が始まるらしい。上記ブログ記事にも書いたとおり、現代日本の、本当の意味では国際化が遅れ、社会・経済全体が世界で孤立しつつある現状を打開するためには、若い世代がこれまでの日本人のように英語を殆ど喋れないでは話しにならない。ということで、小学校で英語を教えようかという発想自体は悪くないかも知れない。しかし、私の上記ブログ記事で書いたとおり、小学校で英語を教える場合も、日本人の先生がカタカナ英語を口走って、子どもの英語への感覚を破壊しないで欲しい。その観点から今朝のNHKの報道を見ていると、各地の小学校ではその町の英語圏の外人住民を探して英語の先生になってもらおうといった苦労や努力をしているようだ。全ての町でそういうことが実現出来るとも思えないが、カタカナ英語の素人日本人教師で誤魔化してやってしまうより、そういう努力をしようというのは結構なことだと思う。 

しかし、今回の小学校の英語教育開始で思うことは、中高の英語教育については、どうしてくれる?ということだ。小学校で地元のアメリカ人住民かなんかのしゃべる英語を聞かせて、「英語脳」のとっかかりを作ったとしよう。それは悪いことではない。しかし、その子が中学校に入るとどうか? 昔ながらの英語の先生が「英文解釈」の授業をするのではないか? 小学校では英語の先生がいなかったから、地元のアメリカ人でも起用する柔軟さがあるのだろう。しかし中高ではまったく事情が異なる。昔風の「英文解釈」型の先生が現にその中高学校に踏ん張っている。英語という暗号の文章を、後ろの方から日本語に変換して暗号解読する手法を教えるような職人教師だ。彼・彼女はその暗号解読型の教え方しか知らない。ましてや、普通の日本人だから、発音もカタカナ。自分でも会話としての英語は案外しゃべれない。だからといって、このような中学校・高校の英語暗号解読の先生を首にして、その町の外人や英会話教室の先生にすげ替えるわけにもいかない。また、大学入試で暗号解読型の試験問題がある限り、暗号解読の先生も引続き必要ということになる。 

となるとどうか? 小学校の5-6年生で、耳で聞く英語に触れ、その後の英語脳のきっかけを与えられた子どもが中学校に上がると、突然、英文解釈、暗号解読の英語教育、カタナカ発音の英語に曝されることになる。そこで、結局、日本人の「生きた言葉」としての英語へのセンスも能力も完全に破壊されてしまう。今の日本の問題は、小学校で英語教育を始めないことではない。世界的に突出した「日本人の英語下手」の主原因は、中高、そして大学入試までの英語教育が日本人の「言葉としての英語」へのセンスを完全に破壊することにある。そうだとすると、中高、大学における英語教育の大問題に全く手を付けないままで、申し訳程度に小学校でちょっと英語を入れてみることは、本当の問題から目をそらす役割しかないかも知れないと思う。 

前にも書いた。日本人と同様に英語下手であった韓国人は急速にそれを改善しつつあるという。そういう中で、日本人の英語を破壊する中高の英語教育には、まだ全くメスが入らないのであろうか? 報道では全くそういう兆しが見えない。 どうだろう、本当は。   Nat

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