♪♪ NATの独り言 (心・ジャズ)

生きていく上で信じてること。大好きなジャズのこと等

2011年03月

福島原発 東京や横浜にも避難勧告が出るか?

 福島第一原発の抑え込みが難航してきている。もう、米国スリーマイル島の事故のレベルを越え、ソ連チェルノブイリの事故のレベルに向かいつつあるとも思われる。 

 米国のスリーマイルアイランドの事故は1979年に起こった。操作上のちょっとした問題が、人間の対処ミスも誘発し、燃料棒の溶融にまで至らせしめ、若干の放射性物質の漏出も生んだものだ。一方、ソ連のチェルノブイリ事故は、1986年に発生。操業中止中の原子炉で実験をしていて制御不能になり、水蒸気爆発と思われる大爆発で、広島原爆の400倍の量といわれる推定10トンの放射性物質が一気に大気に噴出し、拡散した悲惨な大事故である。 

 福島原発問題は、多くの評論家同様、私も3日前くらいまでは、何とか冷却に持ち込めるのではないかと期待していた。しかし、ここに来て急速に状況が悪化していると思われる。作業員の被爆で皆が気づいた放射線物質高濃度の排水の問題で、給水継続による冷却が急に難しくなった。今から考えると、大量の水を掛けているのだから、下には汚染された水が溜まるのは当たり前なのに、今ごろ驚いているから怖い。そして、原発の周辺の土、海水の異常に高い放射能レベル。更に、きわめつけが、ついにプルトニウムが検出されたことだ。つまり、炉心の燃料が溶け出して、しかも最後のゴールキーパーのはすだった圧力容器がもう破損していることを示唆している。燃料が溶融しているのに、排水の問題等で冷却が進まない。つまり、更に燃料溶融が進み兼ねないということだ。原子炉の中が結局どうなっているか、本当に分かってない。一部の計器が回復しても、どこまで燃料がとろけているか等は分からない。だから最初からこのブログで心配している通り、燃料の大量の溶融、それが底部に溜まり、チェルノブイリで起こったような一時の再臨界にならないまでも、チェルノブイリ同様の水蒸気爆発に至る。そしてチェルノブイリ同様に大量の核物質の粉が大気に噴出、飛散という最悪のシナリオの確率が高まってきてしまった。これまでの、燃料からじわーっと気体として外ににじみ出たヨウ素とかセシウムが漏出しているのと、もう次元が全然違う。広島、長崎の死の灰のようなもの、それそのものが大気中に大噴出するのである。まさに、チェルノブイリ。あの時はソ連政府が発表しなかったので、住民が退避せず、周辺の3000人が即死したとの情報もある。 

 福島原発が上記のようなチェルノブイリ状態になる確率はどれくらいか? 誰も分からないが、直感的に100分の1というよりも、10分の1の方に近いのはでないか。ああ怖い。 

  そして、大気に噴出した場合、どのあたりまで飛散してくるのだろう? 勿論、その時の風速と風向きによる。チェルノブイリの時で周辺から風下の100kmくらいは高濃度の放射能に直接曝された。しかし、200kmくらいでも結構深刻な汚染があったようだ。福島原発から東京は220km、横浜で260km。いざ爆発、噴出となると、恐らく、東京や横浜にも避難勧告が出るに違いない。今から逃げるのも早すぎるが、逃げるときに何を持って、どこに逃げるといった頭の体操くらいは真剣にしておく段階に来てしまっているように思う。ホントに。     Nat 

福島原発の3号機はプルトニウムだったんだ!

  今晩、日刊ゲンダイ(大衆的夕刊)を見て驚いた。大量の水を注入している3号機に、他とは違う、プルトニウムという怖い要素があったことを今知ったからだ。

 3号機だけは、核燃料がウランだけの燃料でなく、プルトニウムをミックスしたタイプだったのだ。その事実は、実は公知のことで、いわゆる「プル・サーマル」と言われるものだ。世の中の反対意見もある中で、1年前に福島県知事が受け入れ決断したものだ。その点、実は私は知っていたはずが、もうすっかり忘れていた。

プルトニウムはウランの燃えカスの中から、もう一度核燃料にすることが出来るものとして抽出する人工の物質だ。長崎の原爆はプルトニウムで作ったもの。プルトニウムの大きな危険性は、その化学的な強烈な毒性と、またアルファ線という、ヘリウムの原子核(中性子2個と陽子2個のかたまりの大きな粒の放射線)を発散することから、体内に入ると入った体の部分の周辺を激しく破壊するということだ。その上、ウランだけの燃料よりも、融点が低く、とろけやすいという怖いおまけもついている。

今回、政府・東電が、3号機をことさらに危険視し、大量の水を注入しているのは、実は、このプルトニウムが入っている3号機の燃料が溶けて、プルトニウムが大気に放出された場合の問題は想像を絶するからである。という点は、既にWall Street Journalやドイツの報道では採り上げているという。しかし、日本の報道は、徒らに不安を掻き立てるということで、この点に触れないようにしているようであるという話だ。

 私はプルサーマルのことは分かっていたはずなのだが、今回の福島事故と頭の中で全然結びついていなかった。だから日刊ゲンダイ見てショックを受けた。

プルトニウムだというような怖い話は、言うとパニックを起こすが、結果的に制御できすに、プルトニウムが放散されてしまった時に初めて、大声で「実はプルトニウムだったんです」というと、知らされてなかった関東の住民はその時に驚き、対応に苦慮し、被害も大きくなる。だから多分、騒がれないようにと、言わないより、敢えてその点にも触れるほうが賢明と思うのだが。  多分、これから報道でも、じわじわと、この点が表に出てくるのだろう。

水道の問題も、この間の雨の日に、私の高校同期生のネットワークで専門家が、「次は水道」と予言していた。又、同時に、放射能が検出されるまでは報道でも水道のリスクは取り上げられまいといっていた。全部、その通りになった。

日本人は、「騒がせない」ことを是とする。 海外の報道は、出来るだけ劇的に報道しようとする。 どちらがいいか?? しかし、事故原発の一番近くに居る日本人が知らされなくて、海外が先に騒ぐというのも、変なことだろう。  Nat

●追記(3/25):  作業員が3人被爆した3号機では、やはり既に核物質が外に漏洩しているとの発表があった。ということは、ウラン・プルトニウムの混合燃料やその核分裂生成物が外に既に出ているということ・・・ とすると、地上で最も恐ろしい物質とも言われるプルトニウムが既に漏出している可能性が高いということであろう。 非常にまずい・・  Nat

●追記(3/26):  一つ追加で分かったのだが、3号機の燃料には積極的にプルトニウムが入れられているタイプだが、1号や2号機など他の原子炉のウラン燃料でも核分裂の結果プルトニウムが発生している(量としては、3号機のプルの4分の1とか)ので、プルの怖さという意味では、程度の違いはあるが、他の原子炉からの死の灰が降れば同じく怖いということだ。ということで、とにかく、押さえ込んでほしい。しかし、そういうプルの説明もちゃんと報道でしてほしいよね。 Nat

●追記(3/29): いよいよ土壌からプルトニウムが検出された。3号機の
プル入り燃料からの漏出かは分らないが、いよいよ非常にまずい事態になってきている。 Nat

大地震も大津波も神さまの業? その3

 人間基準からすると、人間としては、神にはこの世を地震も津波もない世界、癌などの病気もない世界に創ってほしかったはずである。しかし神は人という生き物を創る遥かに前から、この世界を地震も津波も火山もある世界、ありとあらゆるばい菌やウイルスも、発ガン物質もある世界として創造されたようだ。

 そもそもこの世に初めて生命が誕生したプロセスを考えて見ると、最新の理論では、最初の命は海の底の火山活動で熱水が吹き出し水素とか二酸化炭素に満ち溢れた高熱の空間で発生したものらしい。(高井研著「生命はなぜ生まれたのか」幻冬舎新書。)すると、こんにち地震や火山爆発を起こす地球のマントルやプレートの動き、それこそが太古の昔の命の背景だったのだ。地震・火山のない地球では、命も生まれなかったことになる。病原菌やウイルスも、そういうものを経て生物は人間にまで進化したのだ。それを忘れて、今更、人間が命はもらっておきながら、「この世に地震・火山も、病原菌もなかった方が良かったのに・・・」と神に言うならば、神さまからすると、そんな人間は超「身勝手」ということになるだろう。 

 そして、神は、命を有限な存在として創られた。しかも、地震や病原菌などの様々なリスクに対して弱くはかないものとして命を創られたのだ。しかし、同時に、その弱く はかない命の一つひとつに対し、神が絶対的な愛をもって繋がりを持とうとされていると、そう信じて生きるかどうかが問われているのである。 

 前にも書いたとおり、旧約聖書創世記を書いた人たちの抱いた世界観は、いま人間の住むこの世は「エデンの東」、楽園の外でイバラが生い茂り生きていくのもシンドイ世界であるということだ。神は人間をそのような「エデンの東」の辛い世界に追いやられた。と同時に、それだからこそ、エデンの東における全ての瞬間において、そこに生きる人間の命への、愛の眼差しを絶やさないのであるとも信じたのである。 

 ここで、神がこの世の動きにどうか関与しているかにつき、クリスチャンの抱くイメージとして、大きく分けて以下の二つのことがあり得ることを言って置こう。即ち、神は全知全能の神で、宇宙の中の個々の動きを全て支配し決めているというイメージで考えるのか、そこまではイメージしないかだ。前者は、古典的な「創造主、全てを支配される神」のイメージ。ある人がある朝、石にけつまづいて転んで手の骨を折る。そういうことについても、そこに敢えて、けつまずく石を置いたのも神さま・・という理解するのか「イメージ1」。全てが何かの“神さまのご意志”でそうなったというイメージだ。 

 もう一つのイメージ、「イメージ2」はこうだ。神は宇宙を創造した。しかし、その後、宇宙で展開されている物理的な事象は神が創られたこの世の物理的・化学的な法則に沿い、物質が展開している出来事だ。一つひとつの事象は少なくとも人間からは完全に偶然的な物理・化学的現象としか見えない。その背後に神の意思があるなし等、永遠に分らない。だから、けつまづく石がそこにあったことについても、無理に神の特別な意思と思わなくても、ただの偶然と思ってもいい。しかし、それと神の存在とは矛盾しないという立場が「イメージ2」だ。 

 ただ、「イメージ2」は、それだけでは無神論の人のイメージと余り違わなくなってくる。ここから、私Nat独自の想いが登場する。Natの想いでは、この世の物質の中で「命」は特別な存在ということになる。前からこのブログで、そう書いてきている。脳細胞・神経などの物質により支えられた脳の意識以上に、「命」は物質を超えた存在として存在しているという想定だ。そして、その個々の命は、命の大元、たましいの源である神と「見えない糸」で繋がっている。その糸は人間側から意識すればするほど太いパイプになる。そのパイプは、命の行方をも左右する。石でけつまずくのは、少なくとも人間の目からは完全に偶然に過ぎないかも知れない。しかし、その人の体やたましいが、転ぶということでどういう影響を受けるかについては、神とのパイプがおおいに左右するというイメージなのだ。無機物と命を分けて考えるイメージモデルということだ。そして、私は科学がもう少し進歩すると、この無機物ではない「命」の原理が科学的にも発見・解明されてくるのではないかと思っている。私のブログをこれまでも読んでくださった人なら、その意味がお分りであろう。 

 最初の問いに戻る。大地震・大津波の中で神の愛はどう働いているのだろうか? 私個人のイメージ(キリスト教会の公認とかではない私のイメージ)では、今回の大地震・大津波も、敢えて神がこの時点であの大きさのものを起こすぞ!と決めてそうしたというより、むしろ、神が創られたこの世の自然展開である。神は時々地震も津波も発生する世界としてこの世を創られたということだ。しかし、神は同時に特別の存在である「命」も創られた。そして、神は、自分の創った世界の中で、命が地震や津波などで翻弄されることもご存じである。だからこそ、翻弄されている瞬間の命の発する叫び声もしっかり聞いておられる。そして、目に見えない糸、パイプで、一つひとつの命の道筋を、愛をもって決めておられる。新約聖書の告げるイエス・キリストについては、確かに波を鎮めるといった物理的奇跡の物語もあるが、圧倒的多数の報告は病める人間への奇跡的働きかけである。神は、「命」に対しては、必要な時には奇跡とも思われる形で係わりを持たれるということだ。 

 これが私の信じていることだ。何度も言う。これは認識の問題ではない。何をどう信じて生きるのかという、人生観の問題である。 いかがであろうか。  Nat

 

 

大地震も大津波も神さまの業? その2

 前回、多くの人が「地震や火山噴火で人間の命を奪う神は、愛の神ではあり得ないのでは?」という風に思うということを書いた。しかし、この思いの背景には、人間の抱いている、ある仮定がある。

それは、人間にとっての幸せは、少なくとも“標準的な人生”か、それ以上となることということだ。そして“標準的な人生”とは、そこそこ五体満足に生まれ、大きな病気もなく、まあまあの家庭に育ち、社会に出て円満な家庭を持ち、平均寿命に近い年齢、まあ少なくとも70歳くらいまでは生きて死ぬ。そういう人生だろう。そういう標準的人生を過せる人はまあまあ幸せ、そうでない人は不幸せという仮定である。そして標準から大きくずれると、大きな不幸と受けとめる。たとえば生まれつきの重度の奇形、子どもの頃に突然小児癌などで死ぬ、大人になって個人破産し孤独のうちに自殺死する、あるいは、今回のように、ある日突然大津波に巻き込まれて死ぬ・・・。全部、標準から大きくずれるので大不幸という整理になる。

 愛するわが子が10歳くらいで突然死したとしよう。親としては「人間基準」でその子が健やかに最低60-70歳までは生きることを望んでいたわけだから、胸が張り裂け、神に対して絶叫する。「なぜ、わが子を?」と。人間にとっては、避けることの出来ない悲痛な叫びであり、深い疑問である。しかし、それらは飽くまでも「人間基準」からなのである。一方、神が人間に与える「神からの恵み」「神からの幸せ」は、そもそも、あるとしてもだが、「神の基準」によるのでしかない。当たり前だ。神が、「人間基準」に迎合して恵みを提供するなんてことは、最初から考えにくい。また、全ての人間が人間基準で70歳くらいまでは生き、病気もない、交通事故もない、神はこの世をそういう世には創っていない。

では「神の基準」なるものが本当にあるのか? あるとすると、それはどのような原理に基づくのか? 愛か? 罰か? 偶然の原理か? これらは全て人類の諸宗教がずっと取り組んできた大テーマだ。キリスト教では、「神の基準はある。そしてそれは絶対的な愛、一人ひとりの命をかけがえのない存在としてかえりみ、神が自分すら投げ出すくらいにそれを大切にしようとする愛。それが神の基準である。」という信仰をもって生きるのである。それでも、本能的な我々の「人間の基準」、例えば津波で溺死するのは大不幸だから誰に対してもそれだけは避けて欲しいという思いと、信仰の対象としての「神の基準」の間にはギャップがあり得る。クリスチャンは、そのようなギャップを一生抱えながらも、愛の神に対して感謝し祈り続けて生きるという、いわば非合理的な存在なのである。

 と言っても、まだすっきりはしないであろう。ということで、更に次回。 Nat


 


 


 

大地震も大津波も神さまの業? その1

 東日本大震災の被災者の苦しみを想像すると胸が痛む。私の行っている教会でも、とにかくみなで神さまのかえりみと支えを祈ろうと話し合い、実際、みなで一所懸命に祈っている。 

 しかし、ここで、いつも出てくる人間の疑問が出てくるのだ。「神が愛なら、なぜ自分の創った多くの人命を、地震や津波でこんなに軽々と奪い去るのか? 神が全知全能なら、地震や津波を起こさないようにも出来るのではないか? 神なんて、いないのではないか?」という疑問である。このテーマは深遠なるものだから、このブログでも何度もそれにつき書いてきた。実はこの疑問は、人という生き物が高度の意識を持ち、神的なものを想定し始めてからずっと答えを模索してきたことと思われる。まず大昔の人は、地震や火山噴火を神さまが人間に怒りをぶつけているものと解釈した。人間の悪業などへの神の怒りだ。だから、人間は神に「もう悪いことしませんから、怒りをお収めください。」と祈った。 

 しかし、地震や火山噴火の仕組みがもう少し分ってくると、それらを直接的に神の怒りの行為と見る人は減った。それでも、意味としては「神の怒り」あるいは「神の人間への試練・試み」などと解釈する人は今でもアメリカなどでは結構多い。 

 それではこんにちの日本のキリスト教の教会で、この問題についてどういう風に考えているのかにつき、少し述べてみよう。多分、一番多い受けとめ方は「人間にはなぜ神がこのような惨事を惹き起こされたのか直接は分らない。人間の理解を超えているが、このことも神のなされたこととして、そのまま受けとめるしかない。しかし同時に、そのような中でも、神はやはり愛であることを信じ、その愛の神に祈り続けよう。」ということであろう。この手の話では毎回書くが、クリスチャンのこのような受けとめかたは、そうでない人からすると「なんと非合理というか、非論理的というか、不可解というか・・・」ということになるだろう。冒頭に述べた通り、「神が愛なら、最初から地震など起こさないはずだ!」という、人間からすると至極尤な論理に対して、クリスチャンの答えは普通「・・・・。それでも神は愛だ。」でしかないからだ。 

 でも、それでは、やはり分らないだろう。それで、私Natとしては、敢えて、敢えて、もう少しこのことを突き詰めて考えてみようではないか。神が人間の命を吹き飛ばす地震や火山噴火を起こすことと、自分の創った命に対して愛を貫いていることが、論理的にどう両立し得るかだ。 

 それにつき、次回。 Nat

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